諏訪忠虎
信濃高島藩4代藩主。諏訪忠晴の三男。従五位下、安芸守。諏訪氏大祝・当主。妻に伴氏(子に諏訪忠休(七男、小太郎、早世)、新七郎、左助)
諏訪 忠虎(すわ ただとら)は、信濃高島藩の第4代藩主。第3代藩主諏訪忠晴の三男。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文3年3月15日(1663年4月22日) |
死没 | 享保16年7月2日(1731年8月4日) |
改名 | 右京(幼名)→忠虎 |
別名 | 闡幽(号) |
戒名 | 洞虎院殿彰住蝉幽大居士 |
墓所 | 長野県諏訪市湯の脇の温泉寺 |
官位 | 従五位下、安芸守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 信濃高島藩主 |
氏族 | 諏訪氏 |
父母 | 父:諏訪忠晴、母:内藤忠興の養女 |
兄弟 | 忠虎、頼基 |
妻 | 正室:松平昌勝の娘、側室:妙華院 |
子 |
忠尋(三男)、忠休(七男)、於栄(伊達村信正室)、娘(本多助有正室)、雲台院(諏訪忠林正室) 養子:忠林 |
生涯編集
この節の出典:[1]
延宝6年(1678年)12月28日に叙任する。学問に優れていた経緯から、学問好きであった将軍・徳川綱吉の師事を受けた。元禄8年(1695年)、父の死去により跡を継ぐ。江戸火消役や山里丸門番のほか、流罪となった吉良義周の身柄預かりなどを務めた。しかし、藩政においては江戸藩邸の焼失や元禄大地震における災害などにより、藩財政の窮乏化が始まった。また、三男の忠尋が早世したため、享保16年(1731年)7月2日に69歳で死去した後は、養嗣子の忠林が跡を継いだ。