アルフォンソ・デ・ボルボーン (カディス公)

アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・ダンピエレ(スペイン語: Alfonso de Borbón y de Dampierre, 1936年4月20日 - 1989年1月30日)は、スペインの王室ボルボン家の人物。カディス公爵スペイン語版正統王党派(レジティミスト)によってフランスアルフォンス2世フランス語: Alphonse II)とされた。

アルフォンソ
Alfonso
ボルボン家

全名
称号
出生 (1936-04-20) 1936年4月20日
イタリア王国の旗 イタリア王国ローマ、サンタ・アナ病院
死去 (1989-01-30) 1989年1月30日(52歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国コロラド州ビーヴァー・クリーク
埋葬 スペインの旗 スペインマドリード、ラス・デスカルサス・レアレス修道院
配偶者 マリア・デル・カルメン
子女 フランシスコ
ルイス・アルフォンソ
父親 ハイメ
母親 エマヌエラ・デ・ダンピエレ
宗教 キリスト教カトリック教会
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生涯

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スペイン国王アルフォンソ13世の次男セゴビア公ハイメとフランス貴族出身のエマニュエル・ド・ダンピエールの長男としてローマで生まれた。父ハイメがスペイン王位継承権を放棄していたことと、母エマニュエルが王家の子孫ではなかったことから、祖父のアルフォンソ13世はこの孫をスペイン王位継承権者とは考えなかった。

1941年にアルフォンソは家族と共にスイスローザンヌへ移り住んだ。1950年、父ハイメからブルボン公の称号を贈られた。

フランシスコ・フランコ1960年代の一時期、アルフォンソを自身の後継者にすることも考えていたが、1969年にアルフォンソの従弟にあたるフアン・カルロスを後継者に指名した。アルフォンソは同年にスウェーデン駐在大使に任命され、1973年まで在任した。

大使在任中の1972年マドリードエル・プラド宮殿英語版でフランコの孫(母がフランコの一人娘)にあたるマリア・デル・カルメン・マルチネス=ボルディウ・イ・フランコ英語版と結婚した。2人の間には以下の2男が生まれたが、1982年に離婚している。

結婚と同じ年に、アルフォンソはフランコから「カディス公」(Duque de Cádiz)および「殿下」の称号を贈られた。

1975年に父ハイメが没すると、アルフォンソはレジティミストによってフランス王位の継承者と認められ、アンジュー公duc d'Anjou)の儀礼称号を用いた。

1989年アメリカ合衆国コロラド州ビーヴァー・クリーク英語版において、スキー事故により52歳で死去した。長男のフランシスコは1984年に交通事故により11歳で早世していたため、次男のルイス・アルフォンソが後継者となった。

参考文献

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  • Dem, Marc. Le duc d'Anjou m'a dit: la vie de l'aîné des Bourbons. Paris: Perrin, 1989. ISBN 2-262-00725-X.
  • Silve de Ventavon, Jean. La légitimité des lys et le duc d'Anjou. Paris: Editions F. Lanore, 1989. ISBN 2-85157-060-9.
  • Zavala, José M. Dos infantes y un destino. Barcelona: Plaza & Janés, 1998. ISBN 84-01-55006-8.

関連項目

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アルフォンソ・デ・ボルボーン (カディス公)
カペー分家

1936年 - 1989年1月30日

スペインの爵位
新設 カディス公爵スペイン語版
1972年 – 1989年
次代
無し
フランスの爵位
先代
ハイメ
アンジュー公
1975年8月3日 – 1989年1月30日
次代
ルイス・アルフォンソ
新設 ブルボン公
1950年11月25日 – 1975年
次代
フランシスコ・デ・アシア・デ・ボルボンスペイン語版
請求称号
先代
アンリ6世
— 名目上 —
フランス王位請求者
(正統派)

1975年3月20日 – 1989年1月30日
継承失敗の理由
フランス7月革命で王位喪失
次代
ルイ20世