メインメニューを開く
カールトン・ハウス・テラス
2013年撮影

カールトン・ハウス・テラス (: Carlton House Terrace) は、イギリスロンドンの中心部シティ・オブ・ウェストミンスターのセント・ジェームズ地区にある建物である。その主な建築的特徴は、白い化粧しっくい塗りの邸宅の1対のペアという点で、南側の通りの向こうにはセント・ジェームズ・パークが見える。このテラス (集合住宅) は1827年から32年にかけて、王領地に建設されたもので、全体の設計はジョン・ナッシュ、細部についてはデキムス・バートン (英語版) 等他の建築家が請け負った。カールトン・ハウス・テラスは摂政王太子ジョージの邸宅としてよく知られていたカールトン・ハウスの跡地に建てられたもので、現代でもその自由保有権 [注 1]クラウン・エステートが有している。イギリス指定建造物グレードIに指定されており、1967年からは王立協会の本部として使われていることでも知られている [2]

目次

歴史編集

前史編集

 
カールトン男爵

カールトン・ハウス・テラスが建設された土地は、かつては"王立公園" (Royal Garden) 、あるいは"原野" (Wilderness) として知られていたセント・ジェームズ宮殿の敷地の一部だった。後者はチャールズ2世のいとこのカンバーランド公ルパートが所有していた時代の呼称で、後に"アッパー・スプリング・ガーデン" (Upper Spring Garden) と呼ばれた [3]:1

1700年からその土地はヘンリー・ボイル (: Henry Boyle, 1st Baron Carleton) (英語版) の保有となり、彼はその土地に建っていた邸宅の改修に2,835ポンドを費やした [4]アン女王はボイルに対して、1709年11月2日から年 35 ポンドで 31 年間の賃借権を下賜する旨の特許状を発行した [4] 。ボイルは1714年にカールトン男爵 (Baron Carleton) に叙爵され、それ以降邸宅は「カールトン・ハウス」(Carleton house) と呼ばれるようになったが、いつの時点からか「e」の文字が欠落した [注 2] 。1725年、カールトンの死に伴い、土地の賃借権は甥のバーリントン伯爵に承継され、ジョージ2世は1731年1月にバーリントンに対し、年35ポンドでさらに40年間の賃借権を下賜する特許状を発行した [3] :1 。1732年2月23日付の契約により、賃借権はジョージ2世の長男でプリンス・オブ・ウェールズフレデリック・ルイスに承継されたが、彼は1751年に父に先立ち逝去した。彼の未亡人となったオーガスタはそのまま邸宅に住み続け、改築を行い敷地を拡大するために隣接する不動産を購入し続けた。オーガスタは1772年に亡くなり、邸宅は彼女の息子ジョージ3世により承継された [4]

 
王太子ジョージ

その後邸宅はジョージ3世から、その長男でプリンス・オブ・ウェールズ (後の摂政王太子) のジョージに彼が成人した1783年に下賜された。王太子は邸宅の改修と拡大に莫大な金額を費やし、巨額の債務を抱えていた。彼は父ジョージ4世と折り合いが悪く、カールトン・ハウスは王室と敵対するものとなり、また華やかな社交界の場となった [4]

1820年に王太子は即位しジョージ4世となり、バッキンガム宮殿に引っ越した。1826年に森林委員会 (Commissioners of Woods and Forests) (英語版) に対し、「カールトン宮殿」を放棄し解体して、その敷地と庭園を「ファーストクラスの住居」の建設用地とするように指示が出された [5] 。委員会は1829年までに、敷地は完全にきれいになり、その一部は既に新しい建物の用地として賃貸されている旨の報告を行った [3] :2 。解体後の建築資材は公的なオークションで販売され、一部の備品はウィンザー城とバッキンガム宮殿に移された。ポルティコの柱はトラファルガー広場の新しいナショナル・ギャラリーで再利用され、屋内にあったイオニア式の柱はバッキンガム宮殿のコンサバトリー [注 3] に移された。ステンドグラスの紋章は、ウィンザー城の窓に組み込まれた [3] :2

テラスの建設編集

 
東側テラス
1831年竣工直後

カールトン・ハウス解体後、その敷地の再開発はもともと、セント・ジェームズ・パークの改修計画の一部にすることが企図されていた。これに対してジョン・ナッシュは、公園の南側に沿った3棟とバランスを取って、バード・ケージ・ウォーク [注 4] を見下ろす北側に沿った3棟のテラス (集合住宅) を提案した。実際には南側にはテラスは建設されず北側に2棟だけ建てられ、それぞれカールトン・ハウス・テラスの西棟 (No.1-9) 、東棟 (No.10-18) となった [注 5]。この2棟はナッシュが設計し、ジェームズ・ペネトーン (英語版) が建設を担当した。ナッシュは2つのブロックをカールトン・ハウスポルティコの古い柱を再利用して、大きなドーム型の噴水でつなぐことを計画していたが、ジョージ4世により拒否された [3] :3 。今日噴水の場所には「ヨーク公の階段」がある。また1834年、階段の上にヨーク公記念柱 (英語版) が建てられた。これはリチャード・ウェストマコット (英語版) の手によるヨーク公の像を先端に乗せた、ベンジャミン・ワイアット (英語版) 設計の花崗岩の柱である [8]:240

 
南側から見たテラス
地上階には低いドーリア式柱があり、上にはコリント式柱とペディメントがある。

テラスは地上4階建てで古典的なスタイルをしており、化粧しっくい塗りでセント・ジェームズ・パークを見下ろすコリント式柱のファサードを持ち、精巧な装飾が施されたフリーズペディメントを備えている。テラスの南側は公園に面していて、正面の下部には低い一連のドーリア式柱があり、堅牢なバルコニーを支えている [3] :3 。この邸宅は後ろに「ミューズ」[注 6] を持たない点が、ロンドンの高級な住宅の中で珍しい。その理由はナッシュが、公園の景観を邸宅のために最大限に利用し、また、公園に邸宅の魅力的なファサードを提示したいと考えたからである。宿泊施設は、バルコニーの下と地下2階に設けられた [10]

建築史家のジョン・サマーソン (英語版) によると、ジョン・ナッシュのデザインはパリコンコルド広場にあるアンジュ=ジャック・ガブリエルの建物に触発されている。サマーソンからは、テラスへの賞賛の言葉は聞かれない。

中央のペディメントは、あまりにも長いファサードが垂れ下がっているように見えることを防止するための苦肉の策で、パビリオンの上の屋根裏部屋は過度に強調されすぎるかもしれない。造形の機微といったものは見られない。実際のところカールトン・ハウス・テラスは完全に、それをデザインした素晴らしい老人の代表作であるが、彼のこの建設への貢献はおそらく、彼のリージェント・ストリートの大邸宅にある輝かしいギャラリーの中か、ワイト島の彼の城 (イースト・カウズ城 (英語版)) の花が香る高級感の中のいずれかで描かれた、わずかな小さなスケッチの提供だけである [3] :3
 
カールトン・ハウス・テラス最後のブロックとヨーク公の階段

一方、サーベイ・オブ・ロンドン [注 7] の著者達は、好意的な立場を取っている。

邸宅はヨーク公記念柱の両側に、2つのグループを形成している。公園に面している建築主体として設計された邸宅は、コリント式柱の範囲を広げたことに代表される、包括的街路建築の素晴らしい事例である。その新鮮なファサードにより大幅に強化された効果。それぞれのブロックの端の邸宅は、メインファサードの上に置かれ、その結果パビリオンの配置の処理に成功している。階段に面している邸宅の正面も、相補的な方法で効果的に扱われている [10]

ナッシュは建設の監督をジェームズ・ペネトーン (英語版) に任せたが、自分の領域は自身の手で固く守った。王室に支払う賃借料は、間口1フィート当たり4ギニーと高額に設定されていた。ナッシュ自身はNo.11から15の5区画をリースしており、オープンマーケットでかなりの利益を得ようとしていた。結局彼は全てのコストをまかなうことができず、この取引でわずかな損失を生じさせた [3] :3

後史編集

カールトン・ハウス・テラスは20世紀に入ると、当時のカントリー・ハウスと同様、部分的あるいは完全な解体と再開発の脅威にさらされた。1930年代にはロンドン中心部の大邸宅に対する需要はほとんどなく、王領地委員会 (: Commissioners of Crown Lands (英語版) 、後のクラウン・エステート) は、不動産を賃貸するのが困難だった。2つの区画がクラブに貸し出されており、No.1がサベージ・クラブ (: Savage Club) (英語版) 、No.16がクロックフォーズ・クラブ (: Crockford's) (英語版) だった。しかしながら住宅の賃借人を探すのは難しくなった [3] :3 。建築家のレジナルド・ブルームフィールド (: Reginald Blomfield) (英語版) が再開発の提案書を出した。彼は以前ナッシュのリージェント・ストリートの建物を、エドワード朝新古典主義建築による、より大きな建物へ置き換える責任者の一人だった。ブルームフィールドは「ホテル・大企業のオフィス等に適した方法で」再建することを提案した [12] 。提案された新しい建物は、ナッシュが建てたテラスよりさらに2階高くなければならず、委員会がその計画を進めないことを求める抗議の声が上がった [13]

カールトン・ハウス・テラスは第二次世界大戦中のドイツ軍の爆撃により、深刻な被害を受けた。1950年代イギリス政府は、新しい外務・英連邦省本庁の拠点としてテラスを取得することを検討した。ナッシュのファサードは保存されるべきであったが、再開発による高さは容認できないと広く考えられた [14]

現在編集

 
ウェスト・テラス
No.6-9 は以前はドイツ大使館、現在は王立協会が入居している。

2018年現在、カールトン・ハウス・テラスのほとんどのブロックは、企業や研究所、学術学会により占められている。

  • No.1 : 材料・鉱物・鉱業学会 (: Institute of Materials, Minerals and Mining) (英語版)
  • No.2 : 英国病理学会 (: Royal College of Pathologists) (英語版)
  • No.3-4 : 王立工学アカデミー (: Royal Academy of Engineering) (英語版)
  • No.5 : ターフ・クラブ (: Turf Club) (英語版)
  • No.6-9 : 王立協会 (以前は駐英ドイツ大使館があった。現在同大使館はベルグレイヴ・スクエアにある。)
  • No.10-11 : イギリス学士院
  • No.12 : 現代美術研究所 (: Institute of Contemporary Arts) (英語版) (同研究所はイースト・テラスの地下室のほとんどを占有している。)
  • No.13-15 : ヒンドゥージャ・グループ (: Hinduja Group) (英語版) の4人の兄弟により個人的に所有されている [15]
  • No.16 : アレンスキー家が個人的に所有している。
  • No.17 : フェデレーション・オブ・ブリティッシュ・アーティスト (: Federation of British Artists) (英語版)
  • No.20 : アングロ・アメリカン本社

クラウン・エステートはカールトン・ハウス・テラスのNo.13から16に長い間本部を置いていたが、2006年にリージェント・ストリートの路地にあるニュー・バーリントン・プレイスの所有地に移転した。その後ヒンドゥージャ家がNo.13から15を5800万ポンドで購入した[16]

入居者編集

カールトン・ハウス・テラスには多くの著名な入居者がいた。

注釈編集

  1. ^ 自由保有権 (フリーホールド、Freehold) (英語版) とは、イギリス中世以来の自由保有条件による土地保有の形態で、不動産を世襲として終身保有できる権利をいう [1]
  2. ^ 1746年のジョン・ロックのロンドン地図 (英語版) には "Carlton House" と掲載されている。
  3. ^ コンサバトリー (: Conservatory) (英語版) とは、建物から張り出したガラスの部屋や観賞用の温室をいい、サンルームとしても使われる [6]
  4. ^ バード・ケージ・ウォーク (: Birdcage Walk) (英語版) とは、ロンドンシティ・オブ・ウェストミンスターにある通り。
  5. ^ ナッシュの計画には、西側のマールボロ・ハウス (英語版) を解体し、そこに第3のテラスを建てる計画が含まれていた。このアイディアはクリストファー・アンド・ジョン・グリーンウッド (英語版) による1830年のロンドン地図などのその時代のいくつかの地図に反映されていたが [7] 、この提案は実現しなかった。
  6. ^ ミューズ (: Mews) (英語版) とは、主にイギリスで使われる用語で、以前は、17世紀から18世紀にかけてロンドンなどにある大邸宅の裏の舗装された庭の周りや道路沿いに設けられた、馬小屋や馬丁の宿舎等を含む裏通りを指す言葉であった [9] 。今日その馬小屋は、ほとんどが住居に改築されている。
  7. ^ サーベイ・オブ・ロンドン (: Survey of London) (英語版) とは、以前のロンドン郡 (: County of London) (英語版) の総合的な建築調査を行うための研究プロジェクトである。当初はボランティアにより始められたが、2013年からはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのバートレット開発計画学院により実施される、政府主導のプロジェクトとなった [11]

脚注編集

[ヘルプ]
  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 フリーホルダー 2018年3月28日閲覧
  2. ^ a b 王立協会公式ウェブサイト about us. "History of 6–9 Carlton House Terrace" . 2018年4月6日閲覧
  3. ^ a b c d e f g h i Pithers, Margaret (2005). "A Short History of 13–16 Carlton House Terrace". London: The Crown Estate.
  4. ^ a b c d Gater, G. H.; Hiorns, F. R., eds. (1940). "Chapter 8: Carlton House". "Survey of London: Volume 20, St Martin-in-The-Fields, Pt III: Trafalgar Square & Neighbourhood". London . pp. 69–76. 2018年3月28日閲覧
  5. ^ Regent Street, Carlton Place Act 1826 (Act 7 Geo IV cap 77)
  6. ^ weblio辞書 コンサバトリー 2018年3月29日閲覧
  7. ^ "Greenwood Map of London 1830" . MOTCO – Image Database. 2018年3月29日閲覧
  8. ^ Bullus, Claire; Asprey, Ronald; Gilbert, Dennis (2008). "The Statues of London" . London: Perseus. ISBN 1858944724.
  9. ^ 平賀三郎. ホームズおもしろ事典. "シャーロックミューズ" 青弓社. 2018年4月4日閲覧
  10. ^ a b Gater, G. H.; Hiorns, F. R., eds. (1940). "Chapter 9: Carlton House Terrace and Carlton Gardens" . "Survey of London: Volume 20, St Martin-in-The-Fields, Pt III: Trafalgar Square & Neighbourhood" . London . pp. 77–87. 2018年4月4日閲覧
  11. ^ University College London公式ウェブサイト "Survey of London" 2018年4月5日閲覧
  12. ^ "Carlton House Terrace" . The Times. 16 December 1932. p. 10.
  13. ^ "The Crown Landlord" . The Times. 19 December 1932. p. 13.
  14. ^ "No F.O. at Carlton House Terrace" . The Times. 2 December 1960. p. 14.
  15. ^ Karmali, Naazneen (8 October 2013). フォーブス. "Carlton House Terrace: The Hindujas' New $500 Million Real Estate Masterpiece". 2018年4月10日閲覧
  16. ^ Nelson, Dean; Chittenden, Maurice (27 August 2006). "Hindujas to build 'palace' on the Mall". サンデー・タイムズ. 2018年4月10日閲覧
  17. ^ "Carlton House Terrace and Carlton Gardens". Survey of London, Volume 20 . British History Online. 2018年4月6日閲覧
  18. ^ Syal, Rajeev (5 October 2008). "Yard probes billionaire spy's death". "The Observer". London. 2018年4月6日閲覧
  19. ^ October 2008. Dorril, Stephen (2000). "MI6: Fifty Years of Special Operations" . London: Fourth Estate Ltd. ISBN 978-1-85702-093-9.

関連項目編集

  • 20世紀イギリスにおけるカントリー・ハウスの破壊 (英語版)

座標: 北緯51度30分22秒 西経00度07分54秒 / 北緯51.50611度 西経0.13167度 / 51.50611; -0.13167