サーロー節子
サーロー 節子(サーロー せつこ、英語: Setsuko Thurlow、1932年1月3日 - )は、広島県広島市南区出身[2]でカナダのトロント市在住[2]の被爆者、反核運動家[5]。セツコ・サーロー[1][3]の日本語表記もある。
サーロー せつこ / Setsuko Thurlow サーロー 節子 / セツコ・サーロー | |
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![]() サーロー節子 | |
生誕 |
中村 節子[1] 1932年1月3日(87歳)[1] ![]() |
出身校 |
広島女学院大学[3] リンチバーグ大学[1] トロント大学[3] |
宗教 | キリスト教[4](プロテスタント[4]) |
配偶者 | カナダ出身の英語教師[1] |
子供 | 息子2人[1] |
受賞 |
2007年、カナダ勲章[3] 2014年、第26回谷本清平和賞 |
経歴編集
中村節子として[1]、広島市南区で生まれた。父はドイツ人の共同経営者とともにアメリカ合衆国(米国)カリフォルニア州で「西部フルーツ会社」を起業し果実業を営んでいた[1]。姉の息子に、俳優のジョージ・タケイがいる[6]。
広島女学院(現広島女学院中学校・高等学校)に進学、後に学徒勤労動員され、大日本帝国陸軍第2総軍司令部[7]で暗号解読作業の訓練を受けた[1][3]。正規の暗号解読助手になって最初の日である1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により爆心地から1.8㎞離れた同司令部で被爆、建物の下敷きになったが九死に一生を得た[1][3]。このとき8人の親族や多くの同窓生を失った[5]。
広島女学院大学卒業[3]後、1954年米国に留学[5]、リンチバーグ大学で1年間社会学を学んだ[1]。1955年、ワシントンD.C.でカナダ出身の関西学院の英語教師と結婚[1][3]。夫婦でトロントに移住し、トロント大学で社会福祉事業の修士号を取得、ソーシャルワーカーになった[1][3]。
当地の友人らとともに、広島・長崎の被爆写真パネルの展示など世論を喚起する活動を始め、後にカナダ・米国・イギリス・日本などで、被爆体験を語り核兵器廃絶を訴えてきた[1][5]。核兵器禁止条約採択に際して、多くの国の代表が彼女の演説によって心を動かされたと述べており、中には彼女が特別な役割を果たしてきたと発言する者もあった[5]。
2017年12月のノーベル平和賞授賞式では、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)事務局長のベアトリス・フィンとともに記念のメダルと賞状を受け取り、受賞講演を行った[8][9][10][2]。
著作編集
- サーロー節子・金崎由美『光に向かって這っていけ 核なき世界を追い求めて』岩波書店、2019年7月23日
外部リンク編集
- [リンク切れ]ノーベル平和賞 サーロー節子さん演説全文 - 東京新聞(2017年12月11日 夕刊)
脚注編集
- ^ a b c d e f g h i j k l m n “沈黙の閃光/セツコ・サーロー”. 原水爆禁止日本協議会 2017年12月3日閲覧。
- ^ a b c d “平和賞受賞式でサーローさん演説”. 中国新聞 (中国新聞社). (2017年12月12日) 2017年12月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “セツコ サーロー Setsuko Thurlow”. 現代外国人名録2012 (日外アソシエーツ) 2017年12月3日閲覧。
- ^ a b “広島で被爆後、受洗、渡米… サーロー節子さん来日 〝核廃絶に向け祈りと共に行動を〟 2019年1月21日」”. キリスト新聞 (キリスト新聞社). (2019年1月21日) 2019年7月30日閲覧。
- ^ a b c d e “2017年8月12日放送「明日世界が終わるとしても『核なき世界へ ことばを探す サーロー節子』」”. 日本放送協会 2017年12月3日閲覧。
- ^ “『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <2> 移民” (日本語). ヒロシマ平和メディアセンター. 2019年8月30日閲覧。
- ^ 広島駅北西約500m、現在の広島市東区二葉の里に位置していた。
- ^ “授賞式でサーローさんら演説 ICANにノーベル平和賞”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2017年12月10日) 2017年12月14日閲覧。
- ^ “サーローさん「核兵器は絶対悪」…平和賞授賞式”. 読売新聞 (読売新聞社). (2017年12月11日) 2017年12月14日閲覧。
- ^ “ノーベル平和賞 授賞式 サーローさん「核兵器は絶対悪」”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2017年12月10日) 2017年12月14日閲覧。