晶+⺣(しょうおう/じょうおう[1]、生年不詳 - 延元3年/暦応元年(1338年6月)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての皇族公卿。出自は明らかでないが、『本朝帝系抄』には高倉天皇の子・惟明親王の孫・大和宮天豊王(大豊王か)の子・照王に比定される。あるいは雅成親王の曾孫とする説がある。官位正三位弾正尹弾正尹宮とも号した。千種忠顕が奉じた「但馬宮」と同一人物であるという説がある[2]

経歴 編集

元弘3年/正慶2年(1333年)5月の後醍醐天皇伯耆国船上山からの帰京に伴って、 王は無位無官から一挙に従三位に直叙されて公卿に列す。同年6月弾正尹に任じられ、8月治部卿を兼任する。建武元年(1334年)12月に散位となるが、建武2年(1335年)正月に正三位に昇った。

中先代の乱鎮圧のため同年8月に鎌倉下向するも建武政権から離反した足利尊氏を討伐するため、同年11月に派遣された東征軍のうち搦手の副将として、大智院宮(一説では忠房親王)・洞院実世らとともに東山道を下る。しかし、12月に新田義貞率いる東海道軍の敗戦(箱根・竹ノ下の戦い)を受けて引き返し、翌建武3年(1336年)1月後醍醐天皇の避難していた近江東坂本に到着した[3]。さらに、同年8月には美濃国の関・迫・北野(現在の岐阜県関市および岐阜市)において足利方の鷲見忠保東常顕らと交戦するも、9月に本拠の八代城(岐阜市)が陥落して敗退している。同年12月以降の後醍醐天皇吉野潜幸の際、 王もこれに同行したらしく、延元3年/建武5年(1338年)6月に出家、同地で薨去した[4]

出自に関する異説 編集

 王は『公卿補任』にしか名が見えない皇族だが、同書によると「雅明親王曾孫」とされる。従来はこの「雅明」を「惟明」の誤写とみなし、『本朝皇胤紹運録[5]惟明親王の曾孫として見える尾崎宮や『太平記[6]に見える弾正尹宮を、 王に比定する『大日本史料』の説が有力であった。鎌倉時代末期に編纂された『一代要記』によれば、惟明親王には3人の男子がおり、それぞれ法印大僧都・聖海、大僧都・尊雲、大智院・国尊王である。その内国尊王には「大豊(おおとよ)王」という子がおり、大豊王には「字明(なあきら)王」という子がいた。また、注記によれば、字明王は実は国尊王の子であるとされる[7]。一方、室町時代前期に編纂された天皇系図『本朝皇胤紹運録』や『帝皇系図』には、惟明親王の第3子・交野宮やその子孫(交野宮の子・醍醐宮栗野宮、醍醐宮の子・高桑宮尾崎宮万寿宮)が記されており、国尊王は交野宮に、大豊王は醍醐宮に、字明王は栗野宮にあたると推定される[7]。醍醐宮の次男・尾崎宮は、父の代から美濃国に所縁があり、「尾崎」の名も美濃国の地名に由来する。また、『太平記』によれば、中先代の乱後も鎌倉に留まる足利尊氏を討伐するための東山道軍を「大智院宮」と共に率いたとされる[7]

  • 類従本『本朝皇胤紹運録』(抜粋)
 
 
 
惟明親王
 
交野宮
 
醍醐宮
 
高桑宮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
栗野宮
 
 
尾崎宮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
万寿
 

これに対して赤坂恒明は、 王の従三位直叙が破格の待遇であることから、建武政権の樹立に何かしらの大功があったと推測し、元弘期に活動が見られない尾崎宮を比定する通説に疑問を呈している。これに対して、 王への従三位叙位の直前に行われた六波羅攻めに功績があった但馬宮(四宮)[8]こそが比定され得るとし、その出自は承久の乱後に但馬国に移された雅成親王後鳥羽天皇第四皇子)の曾孫とする異説を提起している。

近年、『本朝帝系抄』という史料に、高倉天皇の子・惟明親王の孫・大和宮天豊王(大豊王か)の子・照王という人物が確認された[7]

官歴 編集

公卿補任』による。

脚注 編集

  1. ^  」の字はこの人名のために作字されたものらしく、字書類にも見出すことが出来ない字であるという(笹原宏之)。そのために本来の読みは不明とすべきであるが、 王を対象とした人名事典・索引においては「ショウ」ないし「ジョウ」という読みが与えられていることが多く、本項の記事名においてもこの慣例に倣うこととした。
  2. ^ 赤坂恒明 「但馬宮令旨考」
  3. ^ 太平記
  4. ^ 東京大学史料編纂所蔵の異本『南朝公卿補任』には、源氏賜姓されたことや享年が34であったことなどが記されるが、いずれも史料的根拠に欠ける。
  5. ^ 類従本『本朝皇胤紹運録』
  6. ^ 『太平記』巻14,15
  7. ^ a b c d 『王と呼ばれた皇族 古代中世皇統の末流』 赤坂恒明 2020年 吉川弘文館
  8. ^ 通説では、静尊法親王後醍醐天皇の皇子)に比定されている。

参考文献 編集

  • 大日本史料』6編3冊、延元元年8月10日条
  • 岸本愛彦 「高倉天皇皇子惟明親王の皇胤について」(『家系研究』第39号 家系研究協議会、2005年4月、NCID AN10258954
  • 笹原宏之 『日本の漢字』 岩波書店岩波新書〉、2006年、ISBN 9784004309918
  • 赤坂恒明 王考 ―建武期前後の傍流皇族をめぐって―」(阿部猛編 『中世政治史の研究』 日本史史料研究会企画部、2010年、ISBN 9784904315095
  • 日本史史料研究会監修、赤坂恒明著『「王」と呼ばれた皇族』吉川弘文館、2019年

外部リンク 編集