スプーン一杯の幸せ』(スプーンいっぱいのしあわせ)は、ポエム・エッセイ・小説を集めた落合恵子の小説のシリーズ。1973年から3年間、祥伝社「ノン・ブック」より6冊のシリーズが刊行された。および、同作を原作とし、1975年に製作・公開された日本映画

シリーズ

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  • スプーン一杯の幸せ 愛を語る三つの形(1973年)
  • 続・スプーン一杯の幸せ 愛と生のメルヘン(1973年)
  • 続々・スプーン一杯の幸せ おとなの愛の処方箋(1974年
  • 恋・スプーン一杯の幸せ 愛の日々はシーソーゲーム(1975年)
  • 愛・スプーン一杯の幸せ ぶきっちょな恋の日々に(1975年)
  • 新・スプーン一杯の幸せ 愛と不安の春夏秋冬(1976年

すべてのシリーズのブックカバーには当時の人気女性アイドル歌手による推薦文が掲載された。

映画

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スプーン一杯の幸せ
監督 広瀬襄
脚本 山根成之
南部英夫
落合恵子
製作 樋口清
出演者 桜田淳子
浜木綿子
黒沢年男
早乙女愛
坂上二郎
音楽 高田弘
主題歌 桜田淳子ひとり歩き
撮影 竹村博
編集 太田和夫
製作会社 松竹
サン・ミュージック
配給 松竹
公開   1975年4月26日
上映時間 90分
製作国   日本
言語 日本語
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松竹サンミュージック提携作品[1][2]。当時のトップアイドル桜田淳子の初主演映画[2][3]。監督は広瀬襄(第一回監督作品)。

キャスト

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主題歌

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スタッフ

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製作

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山口百恵の初主演映画『伊豆の踊子』は突貫撮影で、百恵の撮影日数が一週間程度だったのは有名な話であるが[4]、桜田淳子の初主演映画は1974年秋から構想として挙がり[3]、1975年の2ー3月頃の撮影を予定して[3]、1974年11月からサンミュージックと松竹の間で、スケジュール調整が行われ、超売れっ子アイドルの映画撮影に充てる日数としては珍しく[3][5]、当然テレビや雑誌取材等と掛け持ち、さらに高校の期末試験5日間をこなしながら、撮影に20日間も捻出していた[3][5][6]

映画関係者は実際には花の高一トリオに興行価値があるのか判断しかねていたが[7]1974年12月28日東宝系に封切られた山口百恵の初主演映画『伊豆の踊子』の大ヒット発進を見た松竹は、東宝がすぐに百恵の主演第二弾として『野菊の墓』や『たけくらべ』を候補に挙げているという情報をキャッチし[7]、百恵のライバルで親友でもある桜田を主演に立て、百恵の主演第二弾映画に興行をぶつけることを1975年正月の幹部会議で決めた[7]。桜田はチョイ役でそれまで二本の映画出演はあるが、主演は初めてであった[2][3]。松竹は"女優王国"の看板を掲げるだけに[8]、東宝百恵に負けられない意地があった[8]。宮本実松竹宣伝部長は「うちは"モモからサクラへ"を狙っての企画です。百恵ちゃんも相当強いですが、少女から女へ成長していく桜田淳子の爽やかな魅力を売りものにしたい。『愛と誠』の7億円は挙げたい」などと述べた[9]。また松竹は十八番でもある青春映画を本作を含め、計11本の青春映画製作を1975年のプログラムに乗せるとこの正月に発表した[3][10]、この淳子・百恵対決を「時すでにモモからサクラへ移った」と呼号し盛んに煽った[6]

企画

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桜田の初主演映画として落合恵子の小説『スプーン一杯の幸せ』の映画化が正式に決定したのは、1975年1月後半[3]。遅くなったのは百恵の主演第二弾が先に挙げたような文芸作品になるのか、オリジナル作品になるのか東宝が決めかねていたためで[3]、松竹としては文芸作品で実績を作った百恵と同じ文芸作品で勝負を挑むのは得策でないという計算があった[3]。この時点では監督は未定で[3]、監督は南部英夫、脚本・山根成之という報道もあったが[5]、南部は山根、落合恵子と共同脚本、監督は広瀬襄になった[1]

キャスティング

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企画段階では、相手役は黒沢年男ではなく夏木陽介だった。ちなみに太川陽介が相手役に応募していた。桜田自身は『われら青春!』(日本テレビ)で中村雅俊演じる沖田先生が好きで、中村が相手役ならいいのにと期待してたが[5]、中村は同時上映の方に主演した。

月刊明星』で「淳子ちゃんと一緒に春休みに映画に出よう」と共演者募集の告知があり[10]、応募33592人の中から選ばれた3人が映画に出演した[10]

製作発表

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1975年2月19日、東京日比谷公園内の日比谷パークセンターで製作発表会見があり[11]、桜田、落合恵子、広瀬監督らが出席[11]。人気者の初主演作とあって100人以上のマスメディアが押しかけた[11]。桜田はこの記者会見に前日眠れないほど極度に緊張して、唇がピクピク震え、同席した落合が「大勢の人の前でしょっちゅう歌っているのに何で?」と驚いた[12]記者から百恵と同時期封切に関する質問を繰り返し言われ、何とか百恵をライバル視しているという言葉を桜田から引き出そうとしたため、「『伊豆の踊子』も一緒に観に行きましたし、とても参考になりました。ライバルとは思っていません」などと盛んに仲の良さをアピールした[11]。しかし松竹はしきりに"激突"を強調して煽った[11]。落合は「16歳の少女の心象風景をポエティックに表現したい」などと述べた[11]

撮影

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1975年2月17日のクランクインを予定していたが[3][5]、同年3月3日、松竹大船撮影所でクランクイン[6]。桜田は中学時代に演劇部を創設し部長をやっていただけに[3][6]、初主演映画に強い意気込みを持って撮影に臨んだ[3]。しかし桜田以上に桜田のマネージャーが「百恵を抜くんだ」という気合が強く[13]、桜田自身は回りに気兼ねする結果になった[13]

ロケ地

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東京都上野駅前、不忍池神奈川県鎌倉市京浜女子大学静岡県下田市蓮台寺駅、静岡県石廊崎

宣伝

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桜田の白のノースリーブ、超ミニフレアスカートバドミントンルックが可愛く[6]、クランクインの日にマスメディアによる写真撮影が行われ、多くの新聞や雑誌に写真が掲載された[6][14]

桜田淳子の誕生日である4月14日に合わせ、1975年の同日、ファン1500人を集めて松竹大船撮影所で花見の交歓会が開かれた[15]

同時上映

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想い出のかたすみに

※1975年初めの段階では郷ひろみ主演もので、『スプーン一杯の幸せ』と合わせ、歌手主演による青春もの二本立てが企画されていたが[16]、郷のスケジュールが調整が出来ず変更された[16]。郷が中村にスライドしたのか、企画そのものが変更されたのかは分からない。

脚注

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  1. ^ a b スプーン一杯の幸せ松竹
  2. ^ a b c スプーン一杯の幸せWOWOW
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「百恵ちゃんには負けたくないヮ 準備バッチリ主演初めて 桜田淳子スクリーンで花の戦い 作者レモンちゃんも応援」『日刊スポーツ日刊スポーツ新聞社、1975年1月29日、13面。
  4. ^ 山根貞男「西河克己監督インタビュー」『キネマ旬報』1985年2月上旬号、キネマ旬報社、111-118頁。 
  5. ^ a b c d e 「ジュンコちゃんが主演する青春映画とは…? 2月17日クランクインが決まった『スプーン一杯の幸せ』(松竹映画)…」『近代映画』1975年4月号、近代映画社、82–83頁。 
  6. ^ a b c d e f “モモから桜へ 淳子 満開 映画初主演に打ち込む『スプーン一杯の幸せ』 60万ヒット曲に強い味方『水色の時』の主題歌…”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年3月4日) 
  7. ^ a b c 「新春ゴシップ 百恵と淳子"三度目の対決"」『内外タイムス』内外タイムス社、1975年1月3日、4面。
  8. ^ a b 「百恵ちゃん、友和君も頭に来ちゃった 不快指数99?淳子騒動 正月作品『若い人』めぐり 東宝、松竹が大激突 素顔の二人は仲良しなのに…」『報知新聞報知新聞社、1976年7月10日、15面。
  9. ^ “ときはサクラ!いやモモの"潮騒 "事前運動まっ盛り 黄金週間は頂き? 桜田淳子の『スプーン一杯の幸せ』 ミニチョロ作戦 山口百恵の『潮騒』 物量戦ポスター45万枚 7億円は堅い最も強力ライン”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年4月1日) 
  10. ^ a b c 「スプーン一杯の幸せ」『映画時報』1975年3月号、映画時報社、20–21頁。 
  11. ^ a b c d e f “桜田淳子が初主演 松竹 黄金週間で百恵と激突”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年2月20日) 
  12. ^ 「落合恵子連載対談第28回・ゲスト=桜田淳子 バレンタインデーにチョコレート12個もあげちゃった! 変装してこっそり映画見物」『近代映画』1975年6月号、近代映画社、92–95頁。 
  13. ^ a b 「インサイド 売り出し双六 桜田淳子」『週刊サンケイ』1980年10月2日号、産業経済新聞社、33頁。 
  14. ^ 「『スプーン一杯の幸せ』」『映画情報』1975年5月号、国際情報社、70頁。 
  15. ^ 「松竹・宮本宣伝部長"宣伝"に挑戦 撮影所・スタアをフルに使って全国的な組織動員を計る 語る人 宮本実(松竹・宣伝部長) 聞き手・北浦馨」『映画時報』1975年3月号、映画時報社、12-13頁。 
  16. ^ a b 「映画界東西南北談議 映画復興の二年目は厳しい年 新しい映画作りを中心に各社を展望」『映画時報』1975年2月号、映画時報社、36頁。 

外部リンク

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