小松政夫

日本のコメディアン、俳優 (1942-2020)

小松 政夫(こまつ まさお、本名:松崎 雅臣(まつざき まさおみ)、1942年[1]1月10日 - 2020年12月7日)は、日本コメディアンタレント俳優声優社団法人日本喜劇人協会会長(第10代)。福岡県福岡市瓦町(現:博多区上川端町)出身[2]

小松 政夫
Masao Komatsu.jpg
『週刊平凡』第9巻第29号(1967年)より
本名 松崎 雅臣[1]
ニックネーム 親分さん
小松の親分
小松与太八左エ門
生年月日 (1942-01-10) 1942年1月10日
没年月日 (2020-12-07) 2020年12月7日(78歳没)
出身地 日本の旗 日本福岡県福岡市瓦町(現博多区
血液型 A型
言語 日本語
方言 博多弁
標準語
最終学歴 福岡市立博多第二中学校
師匠 植木等
出身 RKB放送劇団
芸風 コント
ものまね
活動時期 1962年 - 2020年
過去の代表番組シャボン玉ホリデー
笑って!笑って!!60分
みごろ!たべごろ!笑いごろ!』 など
作品総理と呼ばないで
ハケンの品格』(第1シリーズ)
他の活動 俳優
社団法人日本喜劇人協会会長(第10代)
公式サイト https://ph-aun.net/alliance/
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愛称は「親分さん」「小松の親分(自らのコントから)」「小松与太八左エ門」。所属事務所は有限会社ドン・タック。プロデューサーハウスあ・うんとスケジュール窓口で業務提携。

来歴・人物編集

生い立ち編集

7人兄妹の5番目として[3]櫛田神社の前および鐘紡福岡工場(現:キャナルシティ博多)の近くで育つ(博多の総鎮守である櫛田神社の前が自宅であることを博多の仲間たちにも自慢していたことがあった[4])。子供の頃から“がまの油売り”“バナナの叩き売り”といった香具師の口上を覚えては、友達の前で披露していた[5]

実父は地元の実業家で名士だったが、小松が13歳の時に病死し[6]、以後家族は貧窮を極めた。この頃、小松は自宅前の焼け跡で行われていた露天商の口上をよく見聞しており、サクラがいるのを知っていたという。それらが自然と身に付き、学生時代から現在に至るまでの小松の明るさや笑いのセンスは作られた[7]

福岡県立福岡高等学校定時制課程普通科中退。高校時代の小松は陽気で努力家だったという。この頃は、亡父が懇意にしていた菓子店・石村萬盛堂で働くなどして生計を支える[8][注 1]RKB毎日放送の劇団に所属後、1961年俳優を目指し、一番年上の兄を頼って横浜へ出て来る[9]。2つか3つの劇団を受験し、俳優座も受けて合格した[5]が入学金4,000円など月謝が高かったことで諦める[4][9]

その後花屋、印章店、薬のセールスマン、横浜市中央卸売市場本場のマグロ店などさまざまなアルバイトを経験した後[4][9]コピー機会社勤務を経て[9]横浜トヨペットのセールスマンになる[10]。セールスマン時代、週刊誌の小さな枠(三行広告)に載っていた植木等の付き人募集の公募の広告を見てこれに応募して、約600人の応募者の中から選ばれ[4][11]1964年1月より正式に植木の付き人兼運転手となり[12]、その後、元々役者志望だったことを知った植木やクレージーキャッツのメンバーの助けもあって[13] 芸能界入りした。

芸能界入りする前にはさまざまな営業職を転々としたが、自動車セールスマンの職は他業種から引き抜かれて就職したものだった。自動車セールスマン時代の小松はセールストークに長けていたようで、教習所と交渉し、受講者に免許を5日で取得させる手筈まで整えて、免許を持たない人にまで車を買わせるなどし[14]、自動車がまだ高嶺の花だった当時に、月22台も売ったこともあった[11]。持ち前の話術てトップセールスマンとなり、大卒の初任給1万円の時代に月給12万円を稼いでいた[5]。そういった顧客とのセールストークや会社内での上司との丁々発止のやりとりにより、小松は周囲から人気を獲得。周囲から押し上げられる形で、小松はコメディアンを志す。その一方、知人の中には「セールスマンで稼いでるのに今更“カバン持ち”になるの?」と言う者も少なくなかったが、芸能界への夢を諦め切れなかった[5]

セールスマン時代の体験は、後に数々のギャグの礎となった。なお、植木の付き人兼運転手時代の月給はわずか7,000円だった[注 2] 上、1週間の睡眠時間の合計が10時間しかないほど多忙なこともあったものの「全然つらくなかった」「尊敬する一流の師のそばにいて、お世話ができる。それだけで幸せでした」という[11]

植木からは付き人として入門する際に「お父さんを早くに亡くされたそうだが、これからは僕を父と思えばいい」と声を掛けられたという[15]。また「おい、オレのことを何と呼ぶ?」「いいか、“先生”なんて呼んだら張っ倒すからな」とも言われ、小松が前の一言も考慮して「オヤジさん」という呼び方を提案したところ「それはいいな」と目を細めたとも語っている。

運転手として東京オリンピックの開会式に招かれた植木を国立競技場に送った際には、植木の配慮で急遽小松の席も用意され、「錚々たる名士が居並ぶ中」開会式を見ることができた[11]。その後34歳で結婚した時は、植木が仲人を務めた[5]

芸能界デビュー編集

小松のコメディアンとしてのデビューは、付き人時に出演した『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)であった。この番組に出演したきっかけは、同番組に出演していた植木に付いていった際、休憩中にメンバー及びスタッフと談笑していた際にふとしたことからセールスマン時代のエピソードを披露したことによる。その時に当時の課長(50歳ぐらいで、威張りくさって小松に活を入れるが逆にその様子を見ていた34歳の部長に一喝され、途端にシュンとしてしまう)の真似をして「見ろ!お前のせいで怒られちゃったじゃないか。もう、知らない、知らない、知らなぁーい、もー!」とオカマっぽく体をクネクネさせながら言った芝居がプロデューサーの目に留まり、翌日の収録時には台本に小松の出番が設けられていたという[16]

また、付き人だった当時は『シャボン玉ホリデー』に松崎真がレギュラーで出演しており、植木が「松崎ー!」と呼ぶと、本名が松崎の小松も一緒に返事をしてしまうケースが多々あったことから「さいほうの崎」という意味で「小松」と呼ばれるようになり、やがてメンバーやスタッフの間で定着した[17]。そのうちに前座や端役などで出演が増えて視聴者にも顔を覚えられるようになり植木より正式に「小松政夫」(当初は「雅夫」)と芸名を命名されることになった。なお、この芸名を考えたのは姓名判断に凝っていたという植木の祖母であり、小松という苗字に合うということで下の名前を決めたという[18]。ただ、小松は当初「コメディアンなのに、こんな二枚目みたいな名前でいいのか」と一瞬当惑したという。

なお、芸名の候補としては植木と同じクレージーキャッツのメンバーだった犬塚弘が考えた「どん・たくお」(博多どんたくから)や、自身がコントで演じた外国帰りの怪しげな美容師の役名だった「ジェームス本堂」などがあり、小松もそれなりに気に入っていたが、植木に相談した際「将来大河ドラマの主役を張るようになるかもしれないのに、そんな名前じゃ苦労するだろう!」と却下になったという。

クレージーキャッツのリーダー・ハナ肇からもたいへん可愛がられ、1967年にクレージーが梅田コマ劇場での公演に出演した際、途中15分の休憩を嫌ったハナから「5分つないでくれ」と命じられたことがあった。しかし2日目までの出し物がまったく客に受けず、背水の陣で挑んだ3日目に生まれたのが今日まで小松の十八番となっている淀川長治物真似である。この時はハナや植木のみならず苦労を知っていた舞台裏のスタッフも一緒になって喜び、翌日以降にメガネ(ひもを引くとピクピク動く眉毛が付いている)やテレビフレームなど芸を盛り上げる小道具・大道具をわざわざ作って用意してくれたといい、それらを活用することでさらに客からのウケが良くなったと述懐している[19]

付き人兼運転手を約4年間[注 3] 務め上げた。独り立ちの際に植木からかけられた言葉は、「お前、明日からもう俺のところには来なくていいからな」というあまりに突然なものだった。この言葉に小松は驚くとともにクビなのかと一瞬当惑したが、続けて植木は「実はな、社長と話してお前を正式にタレントとして一本立ちさせてやりたいってお願いしたんだ」、「そうしたら社長も大賛成でな、お前のマネージャーも給料も、全部決めてきたから」とその真意を語った。「そろそろデビューする頃か」などの前フリも無く、何年ぐらいで独り立ちできるかも知らず、覚悟すら出来ていなかった時期での発言であった。植木から言葉をかけられ、運転中に涙がボロボロとこぼれて運転ができなくなってしまい、一度路肩に車を停めて大泣きしながらそれを植木に謝る有様だったが、植木は「うん、べつに急いでないけど、そろそろ行こうか」と優しく宥めたという。この時のことを、小松は「目にワイパーが欲しいぐらいだった」と後に述懐している[11]

その後は学校の担任やキャバレーでのホステスの会話など、これまで接してきた人たちからヒントを得たギャグや、レギュラー番組のコーナーからヒットした「電線音頭」(1976年発売)、「しらけ鳥音頭」(1978年発売、30万枚超え[20]、または60万枚[21] を売り上げた)、「タコフン音頭」(1980年発売)、淀川長治の物真似などで一躍人気コメディアンとなる。植木も認める観察眼の持ち主だったといい、それが数多くのギャグや物真似芸を生み出した原動力であったと評される。

正式なコンビというわけではなかったが、伊東四朗との息の合ったコンビ芸は、1970年代を代表するギャグの一つとして今もなお語り継がれている。1975年の『笑って!笑って!!60分』、1976年の『みごろ!食べごろ!笑いごろ!』の両バラエティ番組では、「小松の親分さん」、「悪ガキ一家の鬼かあちゃん」など数々の名コントを演じた(先のデンセンマンによる「電線音頭」や「ずんずんずんずん〜小松の親分さん♪」、「ニンドスハッカッカ マー、ヒジリキホッキョッキョ」など)。また前述の身近な人にヒントを得たギャグの誕生には伊東も大きく貢献しており、楽屋で伊東は「てんぷくトリオ時代の地方回りでこんな面白い人がいたよ」と話した。すると小松は「面白いですね。それいただきます!」と言って、その人の会話などをヒントにギャグのフレーズを作り出した[5][注 4]。ちなみに『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』では「しらけ鳥音頭」[注 5]が一斉を風靡したが、放送中これを真似した子供たちがこたつの上で踊りだして、親に叱られるという事態が全国で頻発したという[5]

一方で、東八郎とも植木のもとから独立して以降共演の機会がある毎に交遊を深め、後年東が東八郎劇団を立ち上げた際には、「お前を副座長として迎えたい」と直々に口説き落とされ、東が逝去する当年まで下北沢・本多劇場新宿コマ劇場での公演にて、息の合った共演をみせ人気を博した。小松は東のことを「植木等が小松政夫の生みの親なら、育ての親は東八郎」と述懐している[22]

「お呼びでない」誕生秘話と、植木との師弟関係編集

植木は、自身の代表的なギャグ「お呼びでない」について、多くのインタビューでは次のような趣旨の発言をしていた。

小松が植木の付き人時代、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)でのショートコントの最中に勘違いをして、出番前ではないのに「出番です」と植木に言ってしまい、植木がつい舞台に出てしまった。当然、周囲は植木の場違いな登場に唖然としたが、その瞬間に植木は機転を利かせて「お呼びでない……? ……こりゃまた失礼致しました!」とアドリブを放った[23]。傍で見ていたプロデューサーはこのアドリブに大笑いし、以後、「お呼びでない」は毎回のように使われるギャグとなった。

青島幸男も引用していたこのエピソードについて小松自身は、「自分は(付き人になる以前の)サラリーマン時代にあのギャグで大笑いしていた」[24]「あの聡明な植木等が、いくら私に言われたからといって、自分の出番を間違えるはずがありません」と語るなどして否定している。植木の「お別れの会」での弔辞でも、「『お呼びでない』は小松がきっかけだとオヤジさん(植木)はおっしゃっていたようですが、私はオヤジさんの出番を間違えるようなことはしていないと思うのです」と述べている。そして、「事実でなくても、自分のため(小松を売り出すため)に作ってくれたエピソードであり、本当に感謝している」とも語っている[25]

植木の死後、TBSテレビで放送された追悼特番で小松は、付き人時代から小松単独での番組出演オファーがあった時期のことを「自分は当時まだ勉強中の身でありながら、番組に出るなんてとんでもないと思っていたんです。しかしそれを植木さんに相談したら、すごく喜んで頂いて『結構なことじゃないか。行って来い。行って勉強してきなさい』と、笑顔で背中を押してもらいました。一人で番組に出ることを咎められたことはありませんでした。あの優しさは今も忘れられませんね」と懐古している。

ほかにも小松は、

  • 植木と一緒に蕎麦屋に食事に入った際、付き人の小松は植木への謙遜と、時間がかからないものとしてかけそばを注文する傍ら、植木は天丼カツ丼を注文したが、いざ運ばれてくると植木は天丼を半分ほど食べたところで「あぁ、そういや俺、医者から脂っこいもの止められてたんだった。悪いけど、これお前が食べてくれ」とカツ丼をスッと小松の前に差し出した[26]
  • 実際の芝居の際にも本番後に植木から「どうだった?」と尋ねられ、“植木の演技は良かったが周囲のリアクションが弱かった”という旨を素直に伝えると、植木は監督のもとに出向いて撮り直しを申し出た[27]
  • 持ちネタが受けずに焦った小松が慌てた末に大失敗をしでかし、収録に遅れを生じさせる失敗をした際、植木が「うちの松崎(小松の本名)が大変なご迷惑をお掛けしてすみませんでした」と自ら進んでスタッフに謝ってくれた[28]
  • 独立後、植木と同席した仕事でお得意の「淀川長治の物真似」を披露した際に「私、いっつもこればっかりですねえ」と自虐的に言ったところ、出番が終わった途端に植木から舞台袖に呼ばれ「これは君が苦労して作り上げた芸だろう!それを“こればっかり”なんて言うことはない。自信を持ってやりなさい」と説教された。
  • 小松が渡辺プロから独立する際、植木は渡辺プロ関係者に「もし(小松を)邪魔したり嫌がらせしたりするようなことがあれば、俺が黙っちゃいないぞ」と釘を刺し、小松には「何かあったら、いつでも俺のところに相談に来いよ」とその背中を押して快く送り出した。
  • 小松の人気が爆発していた当時、一方で人気に陰りがみえて仕事が激減した植木を心配して自宅を訪ねたところ、逆に「最近はヒマでテレビばかり見てるんだ。お前の活躍を見てパワーをもらっているんだ。オレももう一花咲かせないといけないな[注 6]」と優しい一言を掛けられ、小松はトイレに駆け込んでひとり泣いた。

など、芸には厳しいがその一方では立場に関係なく真摯しんしに向き合い、なおかつ面倒見が良くて優しく温かい植木の人柄ぶりをインタビューや著書で語っている。

なお、植木の死去に際して、小松は地方公演のため東京を留守にしており臨終には間に合わず、出発直前には植木の自宅にあいさつに出向いて植木本人と会ったのが最後となった。それでも、入院後の容態については植木の妻から逐一電話連絡を受けており、公演終了直後に急いで帰京して植木のもとに駆け付け、納棺に際して遺体の衣服を着替えさせるという弟子としての最後の仕事を務め上げた。

その後編集

その後も小松はバラエティ番組テレビドラマ舞台など多方面で活躍した。1970年代後半から1990年代にかけては、『パナソニック ドラマシアター』(旧『ナショナル劇場』)や『月曜ドラマランド』の常連キャストでもあった。時代劇では悪党の子分役などが多かったが、後に善人役を多く演じるようになった。伊東は小松のことを「こんなに引き出しのある人はいないんだから」と評し[29]、引き続き数多くのギャグの引き出しを保った。

地元の博多祇園山笠には出身の岡流に属してしばしば参加ていたが、岡流が途絶えた後は知り合いの多い中洲流に参加した[30]

1995年の朝ドラ『走らんか!』では、頑固なラーメン屋の主人を演じ、大量の塩を舐めて味覚障害を治そうとする演技が話題となった[5]

2011年6月20日には、社団法人日本喜劇人協会の第10代会長に選出された[31][32]

2006年から2007年にかけて自伝的小説『のぼせもんやけん』を上梓、2017年には同作を原案として『植木等とのぼせもん』と題しテレビドラマ化された[33]

2018年7月2日から10月6日まで中日新聞東京新聞 夕刊 『この道』に連載されたコラムをもとに、2019年3月さくら舎から『ひょうげもん ―コメディアン奮戦!』が刊行された[34]

2019年4月5日に封切られた映画『麻雀放浪記2020』(東映)では伝説の雀士・出目徳を演じたほか、スペシャル予告映像では淀川長治に扮し、往年の日曜洋画劇場解説モノマネを披露した[35]

同年10月31日からは自身の芸能人生の集大成として舞台「『うつつ』小松政夫の大生前葬」を中目黒キンケロ・シアターで上演。大生前葬というタイトルになぞらえ、制作発表会見では小松を除く6名の役者は喪服姿で登場した[36]。だが、この公演後に受診した定期健診で肝細胞がんが発覚、その後は入退院を繰り返し、抗がん剤治療を受けながらも仕事を続けた[37]

2020年8月18日、6月に起こした人生初の物損事故を理由に運転免許を自主返納した[38]

2020年11月14日、容態悪化のため再入院[37]。12月7日午前6時51分、小松は肝細胞癌のため東京都三鷹市の病院で死去[39][40]。78歳没。伊東によると、小松とは亡くなる数か月前にも何度もあっていたが、全く病気の事も聞かされておらず、いつもの飄々とした様子で変わらなかった為に突然の訃報だったという[41]

2021年、しらけ鳥のパペットを含む小松の遺品が、遺族や関係者により福岡市博物館に寄贈された[42]

エピソード編集

仕事に対する考え方編集

人間観察に優れ、植木等の付き人時代に彼の演技やコメディの動きなどを身近で学び、独立後はユニークなギャグで時代の寵児となった[5]。その後も周りで見聞きした人の面白い会話や個性的な仕草の特徴を掴み、それを誇張してギャグに活かした[5]。 伊東四朗は後年、小松について「プライベートでも常に笑いのアンテナを張っていて、よく『満足なんかしたら終わりだ』と言っていた」と回想している[5]。また伊東は、「彼は練り上げた『しらけ鳥』などのギャグを私の前で歌ってみせ、ウケるかどうかを判断してからテレビで披露していた」とのこと[注 7]

ドラマ『前略おふくろ様』で共演経験のある女優・丘みつ子は、小松について以下のように語っている。「本番前に共演者たちと世間話をしていると、小松さんは輪の中に入るけど決して自分から発言することはありませんでした。いつも聞き役に徹して、人々の会話のやり取りからネタや演技のヒントを探していました」[5]

一部マスコミからはドラマやコントで演じる小松のキャラクターについて、「ひょうきんだが哀愁が漂い、どこか憎めない所がある」と評される[5]。本人は、インタビュー本『小松政夫 遺言』の中で以下のように語っている。「笑いの裏にある人間の哀しみを表現することこそ大事と気がついたのです。哀愁こそ人間が背負う人生そのものと思ったのです」[5]

その他編集

若い頃は喫煙者だったが、植木等の付き人時代に「明日からタバコをやめろ」と言われ、以後吸わなくなった[5]

喜劇人のジェリー・ルイスや俳優のジャック・レモンに憧れていた[5]

お笑いタレントのタモリとは彼の無名時代に新宿のバーで出会い、「福岡出身」、「面白いことが好き」、「(この時までに)様々な職業を経験した」という共通点から意気投合し、以降長年にわたり親交があった[5]。その後1982年にスタートしたフジテレビのバラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』において、プロデューサーの横澤彪から「タモリと二人で司会を」というオファーがあった。しかし、当時ゴルフに熱中していた小松は、「(平日毎日の生放送に出演していたら)ゴルフに行けなくなっちゃう」として断ったということがあった[43]

伊東四朗とバラエティ番組で共演していた頃、小松はネタ作りに真面目に取り組む一方、時々ダブルブッキングをして生放送に現れず、急遽他のタレントを呼ぶなど周りを困らせたことがあった。

結婚後に出演番組のスタッフなどを30人ほど毎日家に連れて帰って妻に面倒をかけることもあった[注 8]

主なギャグ編集

小松は、これらの言葉を「ギャグ」とは言わず「はやり言葉」と呼んでいる。小松によれば、ギャグというのは「自分で考えて歳月を重ね練り上げてきたもの」とのことであり、小松の場合は周囲にその「はやり言葉」のモデルとなった人物がおり、あくまで拝借したに過ぎないからといい「世に出しては次々打ち捨ててきた」「長い芸能生活の中でたった数年しか使っていないのに、それを今でも皆さんに覚えて頂いていることが有難い」と語っている。またここに挙げたのはあくまで著名な一例で、実際世に送り出したギャグは80本以上ともいわれている。

  • 「知らない! 知らない! 知らない! もー」(セールスマン時代の厳つい上司の会話より。小松のギャグ第1号)
  • 「ハイ、またまたまたお会いしました」「まあ、怖いですね、怖いですね」(淀川長治のものまね)
  • 「どうして! どうしてなの! おせーて!」(焼き鳥屋のカウンターで別れ話をするカップルの会話より[注 9]
  • 「もーイヤ、もーイヤこんな生活!」(ホステスの会話より)
  • 「どーかひとつ」(女性専門に自動車を売り上げていた同僚のセールストークより。対面する相手の両肩に手を置き、膝を曲げて軽く押さえる)[9]
  • 「ながーい目で見てください」(オカマの独り言より。両目尻を手で横に引っ張り長く延ばしながら)
  • 「ニンドスハッカッカ、マー! ヒジリキホッキョッキョ! トーベトベトベガッチャマン[注 10]、ガ〜ッチャマンニマケルナ、マケルナガッチャマン、ワ〜!」(最初の2フレーズは小学校時代の担任の女の先生が小松を励ました時に使った。一種のおまじないより)[44]
  • 「表彰状、あんたはエライ! 以下同文…」(「あんたはエライ!」は、旧日本兵の小野田寛郎が戦後29年ぶりにフィリピンルバング島から帰国した際に、空港で小野田の母親がかけた言葉がヒントになったといわれる)
  • 「悪りーね、悪りーね、ワリーネ・デイートリヒ
  • 「よーやる、よーやる、よーやるゼリー
  • 「まー随分ね! 随分随分随分ね!」
  • 「上手だね、上手だね、西方じょうずだね。東方xxxxだね。福岡県出身、鼻くそ部屋」(xxxxはシーンによって異なる)
  • 「暗いね、暗いね、アイネ・クライネ・ナハトムジーク!」(モーツァルトの曲より)
  • 「そーでしょ? そーでしょ? そりゃそうだモン」
  • 「フワア~!」(相手から言葉で追及されたり、責め立てられたりして、返答に窮した時に)

出演編集

テレビドラマ編集

映画編集

Vシネマ編集

  • ジゴロ・コップ 六本木・赤坂 美少年倶楽部(1991年)

舞台編集

劇場アニメ編集

吹き替え編集

ラジオ編集

バラエティ編集

ドキュメンタリー編集

  • SLイギリスの旅(1987年、NHK総合テレビ)

CM編集

CD・レコード編集

  • デンセンマンの電線音頭/同カラオケ(1976年12月) ※伊東四朗と共演、テレビ朝日『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』より。
  • しらけ鳥音頭/哀愁の一丁がみ小唄(1977年11月) ※テレビ朝日『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』より。
  • タコフン音頭/同カラオケ(1980年11月) ※テレビ朝日『歌謡ドッキリ大放送』より。
  • 電線レゲエ/デンセンマンの電線音頭(1995年10月、ファンハウス)
  • 小松の親分(1995年12月、ファンハウス)
  • 親父の名字で生きてます(2016年10月26日、ワーナーミュージックジャパン) ※植木等に捧げた曲[48]
    • カップリング曲に園まりと植木等のデュエットソング「あんたなんか」を、園と小松のカバーバージョンで収録。

著書・連載編集

著書編集

  • 『目立たず隠れず そおーっとやって20年』(1985年4月、婦人生活社ISBN 978-4574700573
  • 『おもしろい人に会ったよ』(1993年1月、コスモの本) ISBN 978-4906380411
  • のぼせもんやけん 昭和三〇年代横浜〜セールスマン時代のこと。』(2006年6月、竹書房ISBN 978-4812427590
  • 『のぼせもんやけん2 植木等の付き人時代のこと。』(2007年12月、竹書房) ISBN 978-4812432730
  • 『時代とフザケた男 エノケンからAKB48までを笑わせ続ける喜劇人』(2017年8月、扶桑社ISBN 978-4594077679
  • 『昭和と師弟愛 植木等と歩いた43年』(2017年9月、KADOKAWAISBN 978-4048933506
  • 『ひょうげもん ―コメディアン奮戦!』(2019年3月、さくら舎) ISBN 978-4-86581-188-9
  • 『みーんなほんなごと!』(2020年3月、さくら舎) ISBN 978-4-86581-239-8
  • 『あんたはエライ!』(2021年6月、さくら舎) ISBN 978-4-86581-299-2
その他
  • 田村隆『伊東四朗・小松政夫の笑って!笑って60分』(1977年、ベストセラーズ)
  • 小菅宏『小松政夫 遺言』(2021年7月、青志社) ISBN 978-4-86590-119-1

インタビュー連載編集

演じた俳優編集

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ a b 同社の商品「塩豆大福」のCMに起用された際、小松がかつて同店に住み込みで働いていた旨が字幕で紹介された。以来、「塩豆大福」のCMに出演する。2009年1月の時点では字幕表示は消えたが、ロケの休憩中にほおばり続けるというものである。
  2. ^ 著書によれば、実際は多忙な植木と四六時中一緒だったため、食費も植木が出してくれるなど、ほとんどお金を使う機会自体がなく困ることはなかった。
  3. ^ 本人の記憶によれば、正確には3年10カ月であるという。
  4. ^ 反対に小松が「今日、こんなやつを見かけてさ…」と切り出すと伊東が「どんなやつ?なに言ってたの?」と興味津々に前のめりになり、スタッフとのやり取りなどでそのフレーズを小松に使わせるとその様子を見ていた伊東が「これ使えるね」と評価して本採用、というケースも多々あったという。
  5. ^ 小松演じる政太郎が茶の間のこたつの上でパペットを右手に装着してしらけ鳥を歌いながら踊るというもの。
  6. ^ その後植木は個性派俳優として活路を見出し、平成期に入ってから「スーダラ伝説」のヒットなどにより再ブレイクすることになる。
  7. ^ 当時を知る放送作家の田村隆も、「小松さんはネタを思いつくとまず番組スタッフなど仕事仲間に見せていました。そして反応が悪いと、ネタの後に「…なんちゃってネ!」と言ってその場を誤魔化していました」と回想している[5]
  8. ^ 小松の妻によると、「裏方さんを労いたい気持ちから自宅に招いたのだと思います。でも本人は酔っ払って先に寝ちゃうので、私が皆さんの食事を作ったり、知らない人の話し相手を朝までしたり大変でした」と回想している[5]
  9. ^ 女が男の背広の袖を引っ張りながら、「ねえ、どうしてなの?私の悪いところは全部直すわ。ねえ、教えて教えて」と言ったのをアレンジして持ちギャグにした[5]
  10. ^ 「ガ〜ッチャマン〜」の台詞を言う際には、両手の親指と人指し指で輪を作り、手を逆さに顔にマスクのように被せて言う。
  11. ^ 没後にWOWOWでカット部分を追加吹替して再放送された際は飛田展男が追加部分を担当。

出典編集

  1. ^ a b NHKクロニクル わたしが子どもだったころ コメディアン 小松政夫”. NHKアーカイブス. 日本放送協会 (2009年1月7日). 2013年5月1日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年3月3日閲覧。
  2. ^ 小松政夫 『のぼせもんやけん 昭和30年代横浜〜セールスマン時代のこと。』竹書房、2006年、14頁。ISBN 4-8124-2759-2 
  3. ^ 小松政夫 2006, p. 17
  4. ^ a b c d 林真理子「マリコのゲストコレクション」『週刊朝日』1月18日号、朝日新聞出版、2013年、 102 - 106頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 週刊現代2022年9月17日号「脇役稼業」第16回・小松政夫「ギャグと哀愁」p25-32
  6. ^ 小松政夫はなぜトップセールスマンからお笑いスターになったか”. NEWSポストセブン (2020年4月17日). 2020年4月17日閲覧。
  7. ^ 朝日新聞『人生の贈りもの』より
  8. ^ 小松政夫 2006, p. 19
  9. ^ a b c d e 阿川佐和子「阿川佐和子のこの人に会いたい」『週刊文春』10月19日号、文藝春秋、2006年、 128 - 132頁。
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関連項目編集

外部リンク編集