スペシャル・デリバリー・ジョーンズ
スペシャル・デリバリー・ジョーンズ(Special Delivery Jones、本名:Conrad Efraim、1945年3月30日 - 2008年10月26日)は、アフリカ系アメリカ人のプロレスラー。西インド諸島アンティグア島生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークシティ育ち。
S・D・ジョーンズ | |
---|---|
プロフィール | |
リングネーム |
スペシャル・デリバリー・ジョーンズ S・D・ジョーンズ ルーズベルト・ジョーンズ |
本名 | コンラッド・エフレイム |
ニックネーム | 黒い速射砲 |
身長 | 185cm |
体重 | 110kg(全盛時) |
誕生日 | 1945年3月30日 |
死亡日 | 2008年10月26日(63歳没) |
出身地 |
アンティグア・バーブーダ 西インド諸島アンティグア島 |
トレーナー | ジョニー・ロッズ |
デビュー | 1971年 |
引退 | 1991年 |
S・D・ジョーンズ(S.D. Jones)の略称で知られる。「スペシャル・デリバリー」とは速達郵便の意味であり、その異名通りのスピーディーなファイトスタイルが身上[1]。1970年代後半から1990年代初頭にかけて、地元ニューヨークのWWWF / WWFを主戦場に、MSG定期戦の前座に欠かせない名ジョバーとして活躍した[2][3]。
来歴
編集イギリス領のアンティグア島に生まれ、幼少時に家族でニューヨークに移住[1]。ボディビルやウエイトリフティングで体を鍛え[1]、ニューヨーク出身のプエルトリコ系黒人選手ジョニー・ロッズのトレーニングのもと、1971年にデビュー。S・D・ジョーンズ(Special Delivery Jones)のリングネームでWWWFにて活動後、NWAのミッドアトランティック地区では黒人レスラーの先輩ルーファス・ジョーンズの「従兄弟」としてルーズベルト・ジョーンズ(Roosevelt Jones)と名乗り、ルーファスのパートナーとなってミネソタ・レッキング・クルー(ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソン)と抗争した[4]。
1975年よりロサンゼルスのNWAハリウッド・レスリングに参戦し、1月17日にポークチョップ・キャッシュとの黒人コンビでハリウッド・ブロンズ(ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)からNWAアメリカス・タッグ王座を奪取[5]。同年の末から1976年にかけてはフロリダ地区にてトム・ジョーンズと組んで活動した[6][7]。トムとはロサンゼルスでもタッグを組み、1977年にブラック・ゴールドマン&エル・ゴリアスを破ってアメリカス・タッグ王座に2回返り咲いている[5]。
本拠地のWWWFではボボ・ブラジルのパートナーに起用され、1976年下期にジ・エクスキューショナーズ(1号=キラー・コワルスキー、2号=ビッグ・ジョン・スタッド)のWWWF世界タッグ王座に幾度となく挑戦[8]。当時WWWFをサーキットしていたスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ(後のミラクルパワーコンビ)とも対戦した[8]。1978年頃よりWWWF / WWFに定着し、ベビーフェイスの中堅としてミッドカード戦線で活躍。1981年下期には、当時の黒人レスラーのホープだったトニー・アトラスと組んでミスター・サイトー&ミスター・フジのWWFタッグ王座に再三挑戦した[9]。
1982年1月、新日本プロレス『新春黄金シリーズ』において初来日[10]。アブドーラ・ザ・ブッチャー&バッドニュース・アレンとトリオを組み、ブッチャー軍団の一員となってヒールを演じた[11]。同年は4月と10月にも新日本プロレスに来日して、4月開幕の『ビッグ・ファイト・シリーズ』ではハルク・ホーガンとも対戦[12]。また、10月8日の『闘魂シリーズ』開幕戦では長州力の「かませ犬発言」の元となったメインイベントの6人タッグマッチに出場している(アントニオ猪木、藤波辰巳、長州vsブッチャー、アレン、ジョーンズ)[13]。
この時期より、WWFではジョバーを専門に務めるようになり、ヒール選手の引き立て役に徹する。当時のWWFでは、王者ボブ・バックランドの首を狙ってニューヨークに乗り込んできたヒールは、マディソン・スクエア・ガーデンでのデビュー戦でジョーンズを叩きのめし、その強さと悪さを観衆に見せつける…という展開がルーティン化されていた[2]。
1984年に入りビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でWWFの全米侵攻が始まってからもその仕事ぶりは変わらず、1985年3月31日のレッスルマニア第1回大会でキングコング・バンディに9秒で秒殺された試合は、ジョバーを全うした彼のベストワークとして語り草となった[14]。
WWFには1980年代末までレギュラー出場し、1991年に引退した。タイトル戦線に絡むことはもちろん、特定のアングルが用意されることもなく、ひたすらヒール勢の「やられ役」を担い続けたジョーンズだが、その存在感はファンに強く支持され、1990年代にはアクションフィギュアも発売されている[15]。2006年4月1日には、盟友アトラスのWWE殿堂入りのインダクターを務めた[4]。
2008年10月26日、生誕地アンティグア島のセントジョンズにて脳卒中により死去[4]。63歳没。WWEでは、彼を「WWEの影のヒーロー」(WWE’s Unsung Heroes)の一人として称えている[3]。2019年、WWE殿堂のレガシー部門に迎えられた[3]。
得意技
編集獲得タイトル
編集- NWAアメリカス・タッグ王座:3回(w / ポークチョップ・キャッシュ×1、トム・ジョーンズ×2) [5]
脚注
編集- ^ a b c 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P73(2002年、日本スポーツ出版社)
- ^ a b “Jobbers of the Eighties".”. Online World of Wrestling. 2009年9月24日閲覧。
- ^ a b c d “WWE Alumni”. WWE.com. 2009年9月24日閲覧。
- ^ a b c “SD Jones”. Online World of Wrestling. 2016年1月21日閲覧。
- ^ a b c “NWA Americas Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月19日閲覧。
- ^ “The CWF matches fought by Special Delivery Jones in 1975”. Wrestlingdata.com. 2016年1月21日閲覧。
- ^ “The CWF matches fought by Special Delivery Jones in 1976”. Wrestlingdata.com. 2016年1月21日閲覧。
- ^ a b “WWE Yearly Results 1976”. The History of WWE. 2009年9月24日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1981”. The History of WWE. 2009年9月24日閲覧。
- ^ “The NJPW matches fought by Special Delivery Jones in 1982”. Wrestlingdata.com. 2016年1月21日閲覧。
- ^ “NJPW 1982 New Year Golden Series”. Puroresu.com. 2016年1月21日閲覧。
- ^ “NJPW 1982 Big Fight Series”. Puroresu.com. 2016年1月21日閲覧。
- ^ “NJPW Toukon Series 1982 - Tag 1”. Cagematch.net. 2016年1月21日閲覧。
- ^ “S.D. Jones dies in Antigua”. SLAM! Wrestling. 2009年9月24日閲覧。
- ^ “S.D. Jones: An unforgotten gladiator”. SLAM! Wrestling. 2009年9月24日閲覧。