ダシュマン (ケレイト部)

ダシュマンモンゴル語: Dašman定宗3年(1248年) - 大徳8年7月25日1304年8月26日))は、モンゴル帝国に仕えたムスリムの一人。

元史』には簡略な記述しかないが、『牧庵集』巻13「皇元高昌忠恵王神道碑銘」に詳細な事績が記されている。ただし、『牧庵集』は清代乾隆帝によって固有名詞が改変された版本しかのこっておらず、ダシュマンのことは「達実密」と表記されている[1]。『新元史』には皇元高昌忠恵王神道碑銘を元にした列伝が記されている。

概要

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ダシュマンはモンゴル帝国草創期から仕えるシラ・オグルの孫で、第4代皇帝モンケの治世に事実上の宰相であったブルガイの息子の一人であった[2]

ダシュマンは幼い頃よりクビライに仕えており、当初は建国の功臣ボロクルの末裔であるオチチェルと同じケシク班に属していたが、後に「第一宿衛(イェケ・ケシク)」を管轄し斡脱総管府を兼ねるようになったという。オルトク(斡脱)とはモンゴル帝国初期から存在する、モンゴル貴族と結びついて商業を行うウイグル/ムスリム商人集団の呼称であり、1252年壬子)に宰相のブルガイが一括管理するようになったもの[3]を更に制度化を進めたのが 「斡脱総管府」 であった[4]。ダシュマンの管理する斡脱総管府は南海交易に進出するオルトクたちに資本金のみならず、「海船(=官本船)」も貸与していたという[5][6]

至元17年(1280年)、「斡脱総管府」は「泉府司」に昇格となった[7]が、至元21年(1284年)には「泉府司の商販する者が民を苦しめている」ことを理由にチンキムの側近であったコルコスンの提言で省かれて戸部の属下に入った[8][4]。しかし翌年8月にはダシュマンの再度の申請によって泉府司は再設置されたが、秩は従二品に下がっていた[9][10][11]。なお、ペルシア語史料の『集史』クビライ・カアン紀には大元ウルスの官署が列挙されており、そこでsuanwīši(سنویشه)という官署名が挙げられるが、これは泉府司(tsven-hvu-shi)のことを指すと考えられる[12]。実際に、suanwīšiは「あらゆる使臣たち(īlčiyān)、商賈たち(bāzargānān)、来往のものたち(āyanda wa šawanda)がいる第六の衙門」と紹介されており、オルトク商人と諸外国からの使臣・隊商を管轄していた泉府司の役職とより合致する[13]。なにより、その長官の名がダシュマン(Dāšman)であると記されることが、ダシュマン(答失蛮)が統轄していた「泉府司」と「suanwīši」が同一の存在であることを裏付けている[13]。また、『集史』クビライ・カアン紀の別の箇所でダシュマンは「(成宗テムル治世でも)なお信任され、勅書・牌子・オルトクたちおよび出入するものの案件を管轄している」と記されている[13]

至元23年(1286年)、ナヤンを中心とする東方三王家を引き起こし、クビライ自らが軍勢を率いて叛乱鎮圧に向かったため、ダシュマンもこれに従軍し矛をふるって活躍したという。ナヤン率いる本軍はクビライ自らの攻撃によって瓦解したが、叛乱に加担した諸王の一人のカダアン・トゥルゲンは抗戦を続けたため、帰還したクビライに代わって皇孫のテムルがカダアン討伐を担当することになった。ダシュマンはテムルの命を受けて衛士1000人を率い、カダアンの軍団を破って数えきれぬほどの輜重を得たという。また、至元27年(1290年)には西方からカイドゥ率いる軍団が侵攻したため再びテムルが出陣し、ダシュマンはテムルの下で勝利を重ねた。カイドゥが退却した後、ダシュマンは現地の民を撫育し、駅伝を整備した上で帰還したという[14][15]

元貞元年(1295年)、テムルがオルジェイトゥ・カアンとして即位すると、代替わり後の混乱を狙って西方のカイドゥがイリンチンを派遣してチベット方面に侵攻してきた。そこでダシュマンが召し出され、皇帝自ら出征の意志を問うたが、 ダシュマンは陛下の命ならば死も恐れないとして出征を受諾した[16]。そこでダシュマンは同年10月に出征し、便宜総帥率いる1千の兵を傘下に入れてイリンチンを討伐した[17][18]

大徳元年(1297年)頃[19]、国庫より購入した宝石が定価の倍額で買い取ったものであり、その差額分をダシュマンら高官が賄賂として受けとったことが判明するという疑獄事件が起こった[11]。かつてサンガと組んでいたために失脚していたシハーブッディーンが会計監査を行い、宝石を売却した商人を始め、ダシュマンら高官12名が捕らえられた。オルジェイトゥ・カアンの母のココジンが減免をはたらきかけたこと、またオルジェイトゥ・カアンの尊崇を受けるチベット仏教僧タムパが彗星を理由に免囚運動を行ったことによりダシュマンらは釈放されたという。なお、この疑獄事件はなぜか『元史』をはじめ漢文史料には一切言及されておらず、『集史』テムル・カアン紀にのみ記されている。

大徳3年(1299年)には翰林学士承旨を兼ね、泉府司事を領した。大徳8年(1304年)7月に57歳で死去。遺体は狼山水峪に葬られた[20]

ケレイト部シラ・オグル家

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脚注

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  1. ^ 楊2003,432頁
  2. ^ 『元史』巻134列伝21也先不花伝,「也先不花、蒙古怯烈氏。祖曰昔剌斡忽勒。……昔剌斡忽勒早世、其子孛魯合幼事睿宗、入宿衛。……子四人。長曰也先不花。次曰木八剌、初立御史台、為中丞。次曰答失蛮、累官至銀青栄禄大夫」
  3. ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「[憲宗二年壬子]十二月……孛闌合剌孫掌斡脱」
  4. ^ a b 高2006,100頁
  5. ^ 四日市2006b, p. 138-139.
  6. ^ 『牧庵集』巻13皇元高昌忠恵王神道碑銘,「王自幼事世祖、初与今太師淇陽王伊徹察喇同掌奏記、後独掌第一宿衛・奏記、兼監斡脱総管府、持為国假貸権。歳出入恒数十万定、緡月取子八釐、寔軽民間緡取三分者幾四分三。与海舶市諸蕃者。兼戸部尚書、内八府宰相如馬湩・酹郊燔肉告神、皆大祀也。惟王司之又諸臣喪疾可通籍入与否必是焉。白詔凡祝釐金帛惟視其署有司始給」
  7. ^ 皇元高昌忠恵王神道碑は至元18年のこととするが、『元史』の記述(『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十七年十一月]乙巳、置泉府司、掌領御位下及皇太子・皇太后・諸王出納金銀事」)に従って至元17年に改めるべきである(楊2003,433頁)。
  8. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年夏四月]乙酉、省泉府司入戸部」
  9. ^ 高2006,100-101頁
  10. ^ 『牧庵集』巻13皇元高昌忠恵王神道碑銘,「十八年升総管府為泉府司、丞相哈喇哈遜嘗奏罷之。二十有五年、王請復立」
  11. ^ a b 宮2018,786頁
  12. ^ 宮2018,461頁
  13. ^ a b c 松井(2020), p. 73.
  14. ^ 『牧庵集』巻13皇元高昌忠恵王神道碑銘,「其年、東諸侯王納延叛、帝自将往征、王前矛而後殿之、詔諸侯王而下生殺惟命亦既底平。明年、其党一王哈丹又叛、成宗時皇孫、詔王将衛士千人、従討之大破其軍、獲輜重不可貲算。哈丹挺身走引分海隅帰。奏衛士疾戦之労請人賜白金為両五十制可及改制置」
  15. ^ 『牧庵集』巻13皇元高昌忠恵王神道碑銘,「為宣政院以王為使凡天下職僧之官何人宜為従所調奏祝髪之徒入罪罟者惟与是官同聴有司不得専决。二十七年、叛王罕都犯西北鄙、帝又自将往征、至杭海、王累戦皆捷。叛王遠遁、摭安辺兵、与置駅伝而還。明年、拝栄禄大夫・泉府大卿。凡諸侯王副車贄壌奠至庭者王則伝臚受之」
  16. ^ 『牧庵集』巻13皇元高昌忠恵王神道碑銘,「成宗元貞之元、罕都遣諸侯王額琳沁出兵犯西陲。帝召王曰『卿名素重、非身往不可、卿能行無』。対曰『効死臣職、惟陛下命』。加銀青平章軍国重事。十月獲額琳沁、与所部偕来」
  17. ^ 楊2003,434頁
  18. ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[元貞元年冬十月]癸丑、以西北叛王将入自土蕃、命平章軍国重事答失蛮往征之、仍勅便宜総帥発兵千人従行、聴其節度」
  19. ^ 『集史』テムル・カアン紀にはこの事件がいつ頃起こったか明記されていないが、「タムパが彗星を理由に祈祷した」との記述から、漢文史料で彗星を観測したと記される大徳元年2月27日よりほど遠くない時期に起こった事件であると考えられる(宮2018,351頁)
  20. ^ 『牧庵集』巻13皇元高昌忠恵王神道碑銘,「大徳三年、兼翰林学士承旨、領泉府司事。最其賜賚珠衣宝帯・海東青鶻・白鷹及豹。出中帑外坊者月異而歳新之不次計。以大徳八年七月二十有五日薨。享年五十七、葬狼山水峪」

参考文献

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  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年。ISBN 9784815809003NCID BB25701312全国書誌番号:23035507 
  • 松井太「宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』を読む(二)」『内陸アジア言語の研究』第35巻、中央ユーラシア学研究会、2020年10月、53-111頁、CRID 1050287619154523776ISSN 1341-5670 
  • 松田孝一「フラグ家の東方領」『東洋史研究』第39巻第1号、東洋史研究會、1980年6月。 
  • 四日市康博「元朝南海交易経営考 : 文書行政と銭貨の流れから」『九州大学東洋史論集』第34巻、九州大学文学部東洋史研究会、2006年、133-156頁、doi:10.15017/25833hdl:2324/25833ISSN 0286-5939 
  • 楊志玖『元代回族史稿』南开大学出版社、2003年。 NCID BA62094153https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-Ia1000089825-00 
  • 新元史』巻133列伝30孛魯歓伝