トルコ学

トルコを含むテュルク語、テュルク民族などに関する研究分野

トルコ学: Turkology)は、トルコ人: Turks)を扱う科学の一分野である。最も広い意味では、トルコ人と関係するあらゆる事柄を扱うが、通常はより狭い意味で、トルコ人の言語歴史文学その他の文化的活動を扱う[1]

チュルク語族の分布

トルコ学の対象編集

通常、トルコ人: Turk)という言葉には二つの意味がある。狭い意味ではトルコ共和国トルコ語話者のことである(便宜上、: Turkishなどと表記される)。広い意味ではチュルク語族に属する言語を話すすべての人を指す(テュルク系民族: Turkicなどと表記される)。ただしこれは過去数十年といった単位での比較的新しい考え方であり、かつてはTurkishに相当する語でチュルク諸語もしくはテュルク諸民族をも指していた[1]。トルコ学が実際には広くテュルク系民族を対象としているにもかかわらず、テュルク学(TurkicologyもしくはTurkic studies)と呼ばれていないのはこの名残である。

テュルク系民族の地理的範囲は、移住によってここ数十年で大幅に拡大したが、それ以前でも東は中華人民共和国から西は東南ヨーロッパ、北はロシア(シベリア)から南は中東の国々にまで及んでいた。

トルコ語圏のすべての国、民族グループ、少数民族の人口は現在、少なくとも3億人に達する。 1980年代、ユネスコは、第2言語または第3言語としてチュルク語族を話す人々の数を加味すればチュルク語話者は約2億人と推定した。今日、人口の増加により、より多くの数を推定できる。が、トルコ語話者とトルコ民族とは必ずしも一致しない(テュルク系民族を参照)。最古の文献は西暦600年から800年ごろの物である。

さまざまなテュルク系の人々がさまざまな宗教に属している。最も重要な宗教には、イスラム教キリスト教仏教ユダヤ教先住民の宗教などがある。マニ教も歴史的に大きな役割を果たした。

現在のテュルク系の人々の大多数はイスラム教徒、特にスンニ派である。仏教徒の集団としてはユグル族トゥバ人がある。チュヴァシ人ガガウズ人キリスト教を主たる信仰としている。クリミア・カライム人カライ派ユダヤ教徒である。

トルコ学の主な研究対象は、トルコ共和国オスマン帝国テュルク諸国ドイツ語版中央アジアである。

歴史編集

古代から、旅行家地理学者外交使節などは、西アジア中央アジアなどを訪問した際、トルコ諸族の独特な風俗習慣について、ヨーロッパの世界に報告し紹介しようとした[2]。その著名な例としては、マルコ・ポーロによる旅行記東方見聞録」がある[2]。このような慣例によって、欧米において「トルコ学」が生まれたとされる[2]

オスマン帝国とヨーロッパ諸国との外交貿易による関係は、15世紀16世紀以降により密接なものとなったが、旅行家や外交使節などによる前述の報告も、学問的、体系的なものとなっていった。風俗や習慣についてはもちろんのこと、オスマン帝国における宮廷制度国家機構法制度や社会・経済機構などについても報告されるようになった[2]

フランスにおけるトルコ学編集

トルコ学者で歴史家のジル・ヴェンステイフランス語版 [3] によれば、フランスのトルコ学の起源は16世紀に遡る。当時のトルコは最強の軍事力を有していた。1538年、学識に優れ多言語をマスターしたギョーム・ポステルフランス語版は「王の教授(後のコレージュ・ド・フランス)」で最初の東洋言語の教授となった(ギリシャ語、ヘブライ語、アラビア語をマスター)。彼はトルコにも興味を持っていた。彼は2回、オスマン帝国を訪れた。一度目は1535年で、このときはフランソワ1世の派遣した大使、ジャン・デ・ラ・フォーレフランス語版に同行した。その後1549年にも訪問し、その後、彼はトルコで目にしたことをまとめてDe la République des Turcs1560年)と題した本を書いた。言語への情熱から彼はトルコ語を学び、本の1575年版には、11ページ分のトルコ語-フランス語-ラテン語の辞書と、9ページ分の文法に関する覚え書きを追加した。この種の物としては、16世紀にフランス語で書かれた物としては唯一だった[3]

西ヨーロッパの国々では17世紀半ばからトルコ語の文書が蓄積されはじめた。理由は主に実践的なもの(外交だったり、キリスト教世界を守るためだったり、18世紀に南フランスのマルセイユを経由する東地中海貿易が繁栄していた)だった。特にフランス、ヴェネツィア、ハプスブルク帝国、ポーランドなどでは、トリセマ(: truchements)またはドラゴマン英語版と呼ばれるトルコ語の通訳が養成されていた。これらの翻訳者は、理想的にはトルコ語だけでなく、アラビア語とペルシア語も理解する必要があった。これらはすべてオスマン帝国の影響下にある地域で話されていた[3]

1551年、イスタンブールに: Scuola dei Giovani di Linguaという学校が設立された。直訳すれば「若者の言語学校」であり、通訳見習いを養成するものだった(学校名はトルコ語: dil oğlanıイタリア語: giovani di linguaに直訳したものだった)[3]。1669年、コルベールはイスタンブールにフランス学校を設立し、1700年からフランス王国は若手の東洋学者をパリ(リセ・ルイ=ル=グラン)に招くようになった。

日本におけるトルコ学編集

三沢 伸生によれば、日本におけるトルコ学は地域及び典拠から大きく2つのグループに分かれている。中国(漢文)資料に基づく周辺地域のチュルク系民族に対する研究が比較的古くからある一方で、欧米のトルコ学で枢要を占める、アナトリア半島周辺のトルコを対象とした研究は新規分野である[4]

関連項目 編集

脚注編集

  1. ^ a b Róna-Tas, András. (1991年). “An introduction to Turkology.”. Studia uralo-altaica 33. University of Szeged, Department of Altaic Studies and Department of Finno-Ugrian Philology. p. 9. 2020年9月24日閲覧。 “Turkology is a branch of science which deals with the Turks. In the broadest sense it is interested in any fact which is connected with the Turks, but in a narrower sense it deals with their language, history, literature and other cultural activities.....In the usage of the present times the name Turk is used to denote two different groups of people.”
  2. ^ a b c d 世界大百科事典 第2版
  3. ^ a b c d Leçon inaugurale au Collège de France, pour la chaire d'histoire turque et ottomane, vendredi 3 décembre 1999
  4. ^ NOBUO MISAWA (2010年). “Japonya'daki Türkoloji Araştırmaları: Anadolu Türkleri Üzerine Araştırmalar”. Türkiye Araştırmaları Literatür Dergisi (TALID). 2020年9月23日閲覧。 “日本におけるトルコ学は地域及び典拠から大きく2つのグループに分かれている。第一のグループは北アジアおよび中央アジア、つまり中国周辺地域のテュルク民族を対象としており、主に中国語の資料に基づいている。第二のグループはトルコ、つまり北アジアおよび中央アジアからアナトリアへと歴史的に移動した、セルジューク朝やオスマン朝に代表される存在を対象としており、アラビア語やペルシア語やオスマン語の資料に基づいている。第二のグループは日本の学術界に現れたばかりである。アナトリアのトルコと日本の関係は歴史的に見ても限られたものしかなく、アラビア語やペルシア語やオスマン語に基づく日本のトルコ学は、欧州諸国と比較しても新参である。”

外部リンク 編集