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ナヘラの戦い(ナヘラのたたかい、英語: Battle of Nájera)は、 1367年4月3日にカスティーリャ王国ラ・リオハ地方ナヘラで起こった、カスティーリャ王ペドロ1世(残酷王)とトラスタマラ伯エンリケ(後のカスティーリャ王エンリケ2世、恩寵王)の間の、カスティーリャ軍同士の戦いである。イングランド王国エドワード黒太子と共に戦ったペドロ1世がフランス人傭兵の支援を受けたエンリケを破ったが、この勝利は逆にペドロ1世を破滅的な結末に導くことになる。第一次カスティーリャ継承戦争における最初の大規模な戦いであると共に、両軍に英仏はじめ各勢力が加担したため、百年戦争の一環としてもとらえられている。

ナヘラの戦い
Battle najera froissart.jpg
ナヘラの戦い
戦争第一次カスティーリャ継承戦争
年月日1367年4月3日
場所ナヘラカスティーリャ王国ラ・リオハ地方
結果ペドロ1世の勝利
交戦勢力
Escudo Corona de Castilla.png カスティーリャ王国
Royal Arms of England (1399-1603).svg イングランド王国
Arms of Aquitaine and Guyenne.svg アキテーヌ公国
Armoiries Majorque.svg マヨルカ王国
Armoiries Bretagne - Arms of Brittany.svg ブルターニュ公国
Blason Royaume Navarre.svg ナバラ王国
Escudo Corona de Castilla.png カスティーリャ王国
指導者・指揮官
Escudo Corona de Castilla.png ペドロ1世
Arms of the Prince of Wales (Ancient).svg エドワード黒太子
Arms of John of Gaunt, 1st Duke of Lancaster.svg ジョン・オブ・ゴーント
Coat of Arms of Sir John Chandos, KG.png ジョン・チャンドス英語版
Blason province fr Gascogne.svg アルマニャック伯ジャン1世
Armoiries Majorque.svg ジャウメ4世英語版
Escudo Corona de Castilla.png トラスタマラ伯エンリケ
Blason du Guesclin.svg ベルトラン・デュ・ゲクラン
Arms of Alfonso IV of Ribagorza, Marquis of Villena.svg ガンディア公アルフォンソ1世英語版
戦力
合計 10,000以上
傭兵 6,000
アキテーヌ兵 2,000
イングランド兵 1,000
カスティーリャ兵 800
イングランド長弓兵 500
ナバラ兵 300
合計 4,500以上
カスティーリャ兵 2,500
フランス人傭兵 1,000
アラゴン兵 1,000
損害
不明(軽微) およそ半数が戦死または捕虜

目次

背景編集

カスティーリャ継承戦争編集

 
エドワード黒太子

1350年、ペドロ1世がカスティーリャ王に即位すると、異母兄で庶子のトラスタマラ伯エンリケはたびたびペドロと争い、1360年にはフランスに亡命した。ペドロは王権強化策をとり弾圧された貴族たちの間で不満が高まったため、エンリケは国外から反乱を煽動した。フランス王国、ローマ教皇庁アラゴン王国の支援を取り付けたエンリケは1366年、ペドロを廃位して即位を宣言した。ペドロはイングランドが支配するフランス南部のアキテーヌに逃げ、ボルドーの宮廷でエドワード黒太子に助けを求めた(第一次カスティーリャ継承戦争)。

百年戦争編集

こうして始まったカスティーリャ継承戦争に先立ち、イングランド王国フランス王国の間では1337年から百年戦争が続いていた。フランス軍はクレシーポワティエで大敗を喫するなど、戦況はイングランド優位に進んでいた。1360年ブレティニー仮和平条約が結ばれ、アキテーヌカレーなどのイングランドへの割譲などが決まった。イングランドの捕虜となったジャン2世の後を継いで即位したフランス王シャルル5世はこれまでの戦略を転換し、外交努力でフランスに有利な情勢に持って行こうとカスティーリャ王国接近を図った。

 
郷里ディナン市にあるベルトラン・デュ・ゲクランの銅像

フランス国内では百年戦争の戦闘に従事していたフリーカンパニー傭兵団)が和平によって職を失い盗賊化して略奪を働き、問題となった。シャルル5世は教皇ウルバヌス5世の協力を得て、イベリア半島南端にあるムーア人グラナダ王国を討伐する十字軍という名目で、傭兵たちを体よく追い払い、エンリケ陣営に送り込んだ。傭兵団を率いたのは「鎧を着た豚」の異名を持つフランス軍人ベルトラン・デュ・ゲクラン。また、カスティーリャの貴族や騎士修道会、ペドロと対立していたアラゴン王国の貴族たちも参加した。

ペドロから助けを求められたイングランド王国は、カスティーリャの富の略奪を餌に大傭兵団を募った。エドワード黒太子の下にはガスコーニュ、イングランドの貴族らや、当時のヨーロッパで最も名の知られた傭兵隊長たちが参集した。傭兵らの出自は様々で、フランスやイングランド、ネーデルラントドイツなど、ヨーロッパ中から集まった。戦力の合計は8,000〜10,000で、黒太子の弟のランカスター公ジョン・オブ・ゴーント麾下のイングランド長弓兵400人やマヨルカ王国軍も参加していた。

開戦まで編集

カスティーリャ侵攻編集

1366年8月、 バスク地方のバイヨンヌで合流したペドロと黒太子はナバラ王カルロス2世と会談し、カスティーリャ侵攻の際の条件について話し合った。カルロス2世はペドロからたっぷりと報酬を受け取り、イングランド軍のナバラ通過を許可した。なりふり構っていられないペドロはナバラ王への支払いのほかに、黒太子が募った傭兵への報酬の支払いや、カスティーリャの領土割譲さえも約束した。

一方のエンリケは、ペドロを追放したまではよかったが、挙兵のため集めた傭兵の報酬があまりに高額だったため、やむなく兵を解散してしまっていた。エンリケ陣営を離れた傭兵はカスティーリャを荒らし回ったり、敵方のペドロの軍に加わったりした。1367年2月、イングランド軍がピレネー山脈を越えてカスティーリャに侵攻すると、エンリケは集められるだけの兵を集め、ベルトラン・デュ・ゲクランをサラゴサからカスティーリャに呼び戻した。ゲクランが率いる1,000人足らずの装甲兵士英語版とアラゴン貴族らがエンリケの陣に加わったが、兵力の大部分はアラゴンを防衛のために残さざるを得なかった。エンリケ軍の兵力は、フランス人傭兵1,000人を含む4,500人だった。[1][2]

前哨戦編集

3月になると、重装歩兵重騎兵で名高い黒太子のイングランド軍に対し、軽装で機動力に優れるエンリケのカスティーリャ軍はゲリラ戦術を駆使して戦果を挙げていた。エンリケ自身がフランスで傭兵隊長としてイングランド軍と戦った経験があり、重武装の敵に対して最も効果的な戦い方を心得ていた。重装備の騎兵が主流の中世ヨーロッパにおいて、軽騎兵は時代遅れだったが、ムーア人との小競り合いが絶えないイベリア半島ではこの軽騎兵はヒネーテ(Jinete)と呼ばれ、伝統的かつ極めて有効な兵種だった。

ビトリア=ガステイス近郊で起きた「イングランド人の山の戦い」と呼ばれる前哨戦では、ヒネーテから成るエンリケのカスティーリャ軍が黒太子軍を破り、有名な傭兵隊長が何人も戦死したり捕虜になったりした。百年戦争で不敗を誇っていた黒太子軍にとっては初めての敗戦であり、士気の低下を懸念した黒太子は軍をカスティーリャ王国の首都ブルゴスに向けた。

ただ、政治情勢は異なっていた。イングランド軍との直接対決を避けるエンリケの戦略はカスティーリャ貴族の目には弱腰に映り、ペドロ陣営に加わる勢力が日増しに増えていた。ここに至りエンリケは会戦を決意し、ナヘリリャ川の防衛線を越えてナヘラの東岸に布陣した。ヨーロッパ最強の傭兵を集めた数に勝るイングランド軍と、川を背に平野で対峙することにゲクランと野戦指揮官たちは反対したが、聞き入れられなかった。[3]

戦闘編集

布陣編集

エンリケ率いるカスティーリャ・フランス軍は、イングランド軍がナバレテ英語版から西進してくると想定し、ナヘリリャ川を背に東向きに布陣していた。しかし、イングランド軍はナバレテから北方を迂回して、夜明けと共に北東から現れた。[4][5] カスティーリャ・フランス軍は、最前線にゲクラン率いるフランス装甲兵士と石弓兵の精鋭部隊、中軍はエンリケ自らが率いるカスティーリャ重騎兵で両翼に軽騎兵(ヒネーテ)を配置し、後衛に歩兵が控えた。対するイングランド軍の先鋒はランカスター公とチャンドスが率いる歩兵長弓兵、中央に黒太子とペドロが率いる歩兵と長弓兵、後衛にアルマニャックジャン1世マヨルカ王ジャウメ4世英語版率いる歩兵と長弓兵が配置された。また、両翼には装甲兵士と長弓兵からなる部隊が並んだ。布陣が終わると、黒太子は全軍に下馬を命じた。

激戦編集

ゲクランは予想外の方角から現れた敵軍に対峙するために陣形を変更した。ゲクラン麾下の精鋭はこれに対応できたが、後続部隊には混乱が生じた。恐慌状態に陥ったカスティーリャ騎兵や歩兵の一部が戦線を離脱し始めたため、ゲクランはこれ以上の戦列崩壊を防ぐために防御陣形を捨ててイングランド軍先鋒へ襲いかかった。[6] 両軍はを捨てて戦斧ダガー(短剣)を振るっての白兵戦に突入した。[7][8] イングランド軍両翼のガスコーニュ装甲兵はゲクランの部隊を包囲する動きを見せ、これを阻止しようとしたカスティーリャ軽騎兵(ヒネーテ)はイングランドとウェールズの長弓兵の猛烈な射撃で粉砕された。[9][10]

カスティーリャ重騎兵を率いるエンリケはゲクランを助けようとガスコーニュ兵に何度も突撃を試みたが、騎兵の馬が長弓で打ち倒されて近づくことさえできなかった。カスティーリャ騎兵にとって下馬することは屈辱とされていたため、彼らは馬から降りようとせず、歩兵戦という選択肢は無かった。[11][12][13] イングランド軍両翼のガスコーニュ兵はカスティーリャ軽騎兵を追い払うと、ゲクランを両側から包囲した。黒太子直属の兵も前進してきたので、フランス軍先鋒は孤立し損耗した。

敗色が濃厚になるとカスティーリャの騎兵は戦場から逃げ去ったが、歩兵は背後の川にかかる狭い橋しか逃げ道がなかった。[14] エンリケの叱咤を無視して橋や川に殺到した歩兵たちに、イングランド軍後衛のアルマニャック伯とマヨルカ王の騎兵が襲いかかった。多くが討ち取られ、川で溺れ死んだ。ゲクランは捕虜となり、エンリケは戦場から離脱したが、兵の大半を失った。黒太子の軍はナヘラの町で敗残兵を掃討し、町を略奪して住民の大半を殺害した。[15]

戦後編集

エンリケが逃げたことを知った黒太子は、ガスコーニュ訛りで「Non ay res fait(それでは何にもならないではないか)」と言ったという。軽微な損害で敵に大打撃を与えたにもかかわらず、エンリケを取り逃がしたことはペドロや黒太子にとっては致命的なミスとなった。エンリケはピレネー山脈を越えてフランスに逃れ、ペドロに対して戦いを継続した。ナヘラの戦いで捕虜となった貴族や装甲兵士たちも、身代金を支払って戦列に復帰した。

ペドロが黒太子との約束を守らず傭兵への莫大な報酬を支払わなかったため、ペドロと黒太子の関係は破綻し、カスティーリャ王国とイングランド王国の関係も悪化した。これにより、ペドロはイングランドの支援を求めることができなくなり、黒太子も経済的・政治的に大打撃を被った。これを境に黒太子の輝かしい戦績は陰をひそめ、1376年に病死した。ペドロは国際的に孤立していき、1369年モンティエルの戦いでエンリケに敗れて殺害された。

脚注編集

  1. ^ Cáceres, Fernando Castillo (1991-01-01). “Análisis de una batalla: Najera (1367)”. Cuadernos de historia de España (73): 105–146. https://dialnet.unirioja.es/servlet/articulo?codigo=2006020. 
  2. ^ Sumption, Jonathon (2001). Trial by Fire. faber & faber. ISBN 0-571-20737-5. 
  3. ^ Ayala, Pero López de; Amirola, Llaguno (1779-01-01) (スペイン語). Cronicas de los Reyes de Castilla Don Pedro, Don Enrique II, Don Juan I, Don Enrique III, por D. Pedro López de Ayala,... con las enmiendas del secretario Gerónimo Zurita y las correcciones y notas añadidas por Don Eugenio de Llaguno Amirola,.... Don A. de Sancho. p. 453. https://books.google.com/books?id=thfHvTTgWzEC. "El Rey Don Enrique, segun dicho avemos, tenía su Real asentado en guisa que el rio Najerilla estaba entre el, é el logar por dó avian de venir el Rey Don Pedro é el Príncipe, é ovo su acuerdo de pasar el rio, é poner la batalla en una grand plaza que es contra Navarrete, por dó los otros venían, é fizolo asi. E desto pesó a muchos de los que con él estaban, ca tenian primero su Real á mayor ventaja que despues le asentaron;" 
  4. ^ Chandos Herald, fl 1350-1380; Pope, Mildred Katharine; Lodge, Eleanor Constance (1910-01-01). Life of the Black Prince. Oxford, Clarendon press. p. 231. http://archive.org/details/cu31924013109149. "But the true-hearted Prince did not go the most direct road, but took the road to the right hand. They descended a mountain and a big valley, all on horseback, so nobly arrayed and in such fair close order that it was marvellous to behold." 
  5. ^ The Chronicles of Sir Jean Froissart”. www.maisonstclaire.org. 2016年5月22日閲覧。 “The prince of Wales, as it has been before related, drew up his army in the manner he intended they should engage, whilst he lay before Vittoria, when the enemy did not appear according to his expectations. He had not since then made any alterations concerning it, and had always marched in this order. At break of day, therefore, the prince’s army took the field, marching in battle-array, as expecting to meet the Spaniards. No one advanced before the battalion of the marshals excepting those who received orders, as scouts; and the two leaders, as well as both the armies, knew, from the intelligence of the scouts, that they should shortly meet: they therefore marched forward with a gentle pace. When the sun was risen it was a beautiful sight to view these battalions, with their brilliant armour glittering with its beams. In this manner, they nearly approached to each other. The prince, with a few attendants, mounted a small hill, and saw very clearly the enemy marching straight towards them. Upon descending this hill, he extended his line of battle in the plain, and then halted. The Spaniards, seeing the English had halted, did the same in order of battle; then each man tightened his armour, and made ready as for instant combat.”
  6. ^ Ayala, Pero López de; Amirola, Llaguno (1779-01-01). “AÑO DECIMOCTAVO. 1367. Capítulo XII” (スペイン語). Cronicas de los Reyes de Castilla Don Pedro, Don Enrique II, Don Juan I, Don Enrique III, por D. Pedro López de Ayala,... con las enmiendas del secretario Gerónimo Zurita y las correcciones y notas añadidas por Don Eugenio de Llaguno Amirola,.... Don A. de Sancho. p. 454. https://books.google.com/books?id=thfHvTTgWzEC. "Y antes que las batallas se juntasen, algunos ginetes, y el pendón de San Esteban del Puerto, con los del dicho logar que allí eran con el Rey Don Enrique, pasáronse a la parte del Rey Don Pedro." 
  7. ^ Ayala, Pero López de; Amirola, Llaguno (1779-01-01) (スペイン語). Cronicas de los Reyes de Castilla Don Pedro, Don Enrique II, Don Juan I, Don Enrique III, por D. Pedro López de Ayala,... con las enmiendas del secretario Gerónimo Zurita y las correcciones y notas añadidas por Don Eugenio de Llaguno Amirola,.... Don A. de Sancho. p. 454. https://books.google.com/books?id=thfHvTTgWzEC. "Y luego movieron los unos contra los otros,y el Conde Don Sancho hermano del Rey Don Enrique, y Mosen Beltran de Claquin, y los Caballeros que estaban con el pendón de la Vanda, y todos aquellos Caballeros que diximos que el Rey Don Enrique ordenara que estoviesen do pie fueronse juntar con la avanguarda de la parte do venían el Duque de Alencastre, y el Condestable de Guiana Mosen Juan Chandos, y otros muchos buenos Caballeros (...) Y tan recio se juntaron los unos con los otros, que a los de la una parte, y a los de la otra cayeron las lanzas en tierra: y juntáronse cuerpos con cuerpos, y luego se comenzaron a ferir de las espadas y hachas y dagas. (...) Y los de la avanguarda del Príncipe retraxeronse un poco quanto una pasada, en manera que los de la avanguarda del Rey Don Enrique cuidaron que vencían, y llegáronse más a ellos , y comenzáronse otra vez a ferír." 
  8. ^ The Chronicles of Sir Jean Froissart”. www.maisonstclaire.org. 2016年5月22日閲覧。 “During this time, the first battalion, commanded by the duke of Lancaster, sir John Chandos, and the two marshals, sir Guiscard d’Angle and sir Stephen Cossington, was warmly engaged with that of sir Bertrand du Guesclin and the other knights from Arragon and France. Many valorous actions were done; and each tried his strength to open a passage through the enemy. Several fought with their spears in both hands, with which they dealt about lustily their blows; others made use of short swords and daggers. At the commencement the French and Arragonians made a desperate resistance, and gave the good knights of England much trouble.”
  9. ^ Ayala, Pero López de; Amirola, Llaguno (1779-01-01) (スペイン語). Cronicas de los Reyes de Castilla Don Pedro, Don Enrique II, Don Juan I, Don Enrique III, por D. Pedro López de Ayala,... con las enmiendas del secretario Gerónimo Zurita y las correcciones y notas añadidas por Don Eugenio de Llaguno Amirola,.... Don A. de Sancho. p. 455. https://books.google.com/books?id=thfHvTTgWzEC. "Y Don Tello hermano del Rey Don Enrique, Señor de Lara y de Vizcaya, que estaba de caballo a la mano izquierda de la avanguarda del Rey Don Enrique, non movia para pelear; y los de la ala derecha de la avanguarda del Príncipe, que eran el Conde de Armiñaque, y los de Lebret, y otros muchos que venían en aquella haz, enderezaron a Don Tello; y el y los que con él estaban non los esperaron, y movieron del campo a todo romper huyendo." 
  10. ^ The Chronicles of Sir Jean Froissart”. www.maisonstclaire.org. 2016年5月22日閲覧。 “(...) a sudden panic seized don Tello, so that he wheeled about, and fled in disorder without striking a blow, carrying with him two thousand cavalry of his division. No one knew how to account for this conduct. (...) The English archers, according to their custom, shot sharply with their bows, to the great annoyance and death of the Spaniards.”
  11. ^ Ayala, Pero López de; Amirola, Llaguno (1779-01-01) (スペイン語). Cronicas de los Reyes de Castilla Don Pedro, Don Enrique II, Don Juan I, Don Enrique III, por D. Pedro López de Ayala,... con las enmiendas del secretario Gerónimo Zurita y las correcciones y notas añadidas por Don Eugenio de Llaguno Amirola,.... Don A. de Sancho. p. 455. https://books.google.com/books?id=thfHvTTgWzEC. "Y el Rey Don Enrique llegó dos o tres veces en su caballo armado de loriga por socorrer a los suyos que estaban de pie, teniendo que así lo harían todos los suyos que estaban con él de caballo, y llegó donde veía que el pendón de la Vanda estaba, que aún no era derribado: y cuando él llegó donde era la priesa de la batalla, y vio que los suyos no peleaban, hubo de volver." 
  12. ^ Chandos Herald, fl 1350-1380; Pope, Mildred Katharine; Lodge, Eleanor Constance (1910-01-01). Life of the Black Prince. Oxford, Clarendon press. p. 233. http://archive.org/details/cu31924013109149. "The Spaniards hurled with might archegays, lances, and darts. Each one strove to acquit himself well, for archers shot thicker than rain falls in winter time. They wounded their horses and men, and the Spaniards perceived well that they could no longer endure ; they began to turn their horses and took to flight. When the Bastard Henry saw them he was filled with wrath. Three times he made them rally, saying, \Sirs, help, me, for God's sake, for you have made me king and have also made oath to help me loyally.' But his speech is of no avail, for the attack waxed ever stronger" 
  13. ^ The Chronicles of Sir Jean Froissart”. www.maisonstclaire.org. 2016年5月22日閲覧。 “Those who were near king Henry did their duty like men; for he had before entreated of them to behave courageously. He himself set the example, and performed such valorous acts as gave courage to all around him. He advanced before those who were beginning to give way and fly, calling to them: “My lords, I am your king. You have placed me upon the throne of Castille, and have sworn that you would die sooner than forsake me. For the love of God, preserve your oaths sacred which you have sworn to me, and behave yourselves handsomely in my cause. I will acquit myself towards you, for I will not fly one step as long as I shall see you combating by my side.” By these words, or others of a similar tendency, did king Henry thrice bring back his men to the combat. He himself behaved so valiantly, that he ought to be much honoured and respected. This battle was fought with great perils: many were slain, wounded, and put to flight.”
  14. ^ The Chronicles of Sir Jean Froissart”. www.maisonstclaire.org. 2016年5月22日閲覧。 “The English and Gascons now mounted their horses, and went in pursuit of the Spaniards, who were flying in dismay, as far as Najarra. There was much slaughter and effusion of blood at the entrance of the bridge: many were killed and drowned: for great numbers leaped into the river, which was both rapid and deep, preferring the being drowned to being murdered.”
  15. ^ The Chronicles of Sir Jean Froissart”. www.maisonstclaire.org. 2016年5月22日閲覧。 “In this flight, there were two valiant men of Spain, knights at arms, who wore, however, the dress of monks: one was called the grand prior of St. Jago, the other the grand master of the order of Calatrava: they and their attendants threw themselves for safety into the town of Najarra, but were so closely pursued by the English and Gascons, who were at their heels, that they won the bridge with great slaughter, and entered the town with them. They took possession of a strong house, which was well built with worked stone: but this was soon gained, the knights taken, many of the people killed, and the whole town pillaged. The English and Gascons gained considerable riches: they went to the lodgings of king Henry and the other Spanish lords, where the first comers found quantities of plate and jewels; for king Henry and his army had come thither with much splendour, and after the defeat had not leisure to return to place in security what they had left behind them in the morning.”

関連項目編集