ノート:エホバの証人/archive8

最新のコメント:16 年前 | トピック:記事の役割分担について | 投稿者:Siyajkak

外部リンク 編集

WP:ELを根拠として公式サイト以外のリンクを全て削除されている方がいらっしゃいますが、WP:ELは公式サイト以外へのリンクを禁じるガイドラインではないはずです。むしろ中立的な観点から、公式サイト以外のリンクも掲載すべきです。 Ôtsuka 2007年3月29日 (木) 19:44 (UTC)

中立であるなら問題ないと思います。しかし、何も知らない人が閲覧した場合に事実と異なることが掲載されているとどうでしょうか。WP:ELの「中立的観点、検証可能性、独自の研究を載せない」という文言に抵触すると考えます。例えば、鞭の使い方にしても、教理を誤ってとらえた一部の信者が子供を虐待したとのことで訴えられたことも過去にはきっとあるでしょう。しかし、それは実際あったこととして載せるのは問題ありませんが、それが教理であり道であるかのように記載するのは問題だと思います。外部リンクにはそのようなものでいっぱいです。ですから、外部リンクも内容を確認し掲載しすべきだと思います。現状では、イメージダウンもしくアップするためにウソ偽りだらけのサイトを作り、外部リンクとして掲載することも容易な状況です。誰が、正しい観点から外部リンクを選別することができるのでしょうか? Memphis19 2007年4月4日 (水) 20:34 (UTC)

もちろん一部の信者による適応が間違っていた事件もあるとは思いますが、そういった事が全くの作り話でなければ、記録としてユーザーが調べられるようにしておくのは社会的責任だとおもいます。以上の署名の無いコメントは、76.167.232.172会話/whois)氏が[2007年4月14日 (土) 05:31(UTC)]に投稿したものです。

反論・批評サイトを外部リンクに載せることは間違いではないと思います。ただ、反論・批評サイトを一番上に掲載するのは、ユーザーの誤解を招くのでやめて欲しいと思います。125.196.96.168 2007年6月8日 (金) 03:35 (UTC)

外部リンクにエホバの証人に対して批判的な人々のホームページを貼ることは必要だと思います。不適当なサイトもあるかもしれませんが、一切載せていない、というのは、逆に非中立的ではないでしょうか?少なくともものみの塔の公式サイトは載っているわけですから。ここはものみの塔の宣伝の為にあるスペースではありません。しかも、公式サイトは新たな信者獲得の窓口も兼ねていますよ!それこそ中立性を欠くのでは?外部リンク、というのは、百科事典では取り扱えない多くの情報を閲覧する機会をユーザーに与えるものではないでしょうか。様々な合矛盾する情報を知らずして、どのようにしてユーザーは何が客観的で中立的であるかを知り得るのでしょうか?そしてその判断はユーザーに任せられるべきです。ルールにも、『中立的な観点は必ず守られるべき方針ですが、これは、ある特定の観点から書かれた言説への言及を禁止するものではありません。すなわち、ある特定の観点を主張する外部サイトへのリンクを禁止する根拠とはなりません。しかしながら、外部リンクの選択においては、中立的な観点を確保するために、ある特定の観点から作られたサイトに偏って外部リンクを掲載すべきではありません。外部リンクの選択に当たっては、ある観点から書かれたサイトへのリンクを掲載するときは、別の観点から書かれたサイトへのリンクや参考文献も同じぐらい多く掲載するべきです。』と書かれています。今の状態は偏っていると思います。


--Yamkaori 2007年9月6日 (木) 02:33 (UTC)

慈善活動に関する記述 編集

阪神大震災時における慈善活動の記述がありましたが、とりあえずコメントアウトしました。事実の可能性はあるので削除はしていません。日本のキリスト教会もおこなっていることであり、エホバの証人だけがおこなっているわけではありませんのであえて書くことに疑問を感じます。信者よりの記述が書き込まれるのに非常にストレスと怒りさえ感じますが、徳を建てることにはならないのでがまんしています。わたしは、アメリカにおける信教の自由を獲得した裁判(バーネット判決)とか、戦前の日本における灯台社の弾圧にたいする抵抗については評価していますので、がまんしていますが編集合戦を誘発しかねないことが繰り返されるなら対処を考えます。Siyajkak 2007年6月19日 (火) 16:55 (UTC)
なお、Memphis19氏が「一切行なわない」を「行なうことはない」と訂正した部分は、「一切」というのが強い表現であるため、訂正に同意するのでrvしないでそのままにしてあります。Siyajkak 2007年6月19日 (火) 17:11 (UTC)

POV記事について 編集

「ブルックリンの本部の「統治体」や日本支部で和訳された印刷物は絶対であり、信者は教理問答(カテキズム)の徹底した訓練を受け」ている、と言うくだりは事実無根であり、削除を求めます。125.196.96.168 2007年6月20日 (水) 14:40 (UTC)

印刷物が絶対でないなら何を基準にしているのですか?教理問答の訓練を受けていないならどうやって家庭訪問して相手を説得するのですか。たまたま教団内部での言い方が違うだけでれっきとした事実です。Siyajkak 2007年6月20日 (水) 15:00 (UTC)
「聖書」を絶対基準としています。宣教訓練学校と言う学校で教わっております。教理問答などはしておりません。125.196.96.168 2007年6月20日 (水) 15:04 (UTC)

じゃあ新世界訳聖書を絶対基準とし、宣教訓練学校で家庭訪問して相手を説得し論破するための教理問答を訓練していることを認めるわけですね。「統治体」や日本支部で和訳された印刷物は絶対でないならあなた方の信仰の根拠がなくなってしまいますが...。Siyajkak 2007年6月20日 (水) 15:10 (UTC)

あの・・・慣習の項目は読まれていますか?125.196.96.168 2007年6月21日 (木) 00:32 (UTC)

う~ん、
>新世界訳聖書を絶対基準とし、宣教訓練学校で家庭訪問して相手を説得し論破するための教理問答を訓練していることを認めるわけですね。

この返事はどうなったでしょうか?認めますと答えられれば正直ですばらしいと期待しているのですが...

わたしが聞きたいのは実態がどうかということです。教団が何を言っているか(多少の参考にはなりますが)、あなたがたが何を「慣習」として取り扱っているかではありません。あなたがたの「教理問答」(このことばを使わないということだけはわかりました。)にあたるものや訓練の実態が結果として「家庭訪問して相手を説得し論破するための」ものであれば事実なのですから。あなたの主観や、教団の表向きの説明で認めていなくても実態がそうであれば間違いではありません。別に誹謗中傷しているわけではないのですから恥ずかしがったりして消すことはなく、事実を事実と認めればいいことなのですが...wikipediaは布教や宣伝の場ではないので、POVは教団に必ずしも有利なことではないことをご自覚いただきたいのですがSiyajkak 2007年6月21日 (木) 09:48 (UTC)

↑いずれにしても、記事を保護ページにして、強制的に自分の見解を通すと言うやり方は、管理人の権限乱用ですな。断固抗議します。別に戸別宣教はあなたの言うように「家庭訪問して相手を説得し論破する」ことは目的とはしていませんよ。それはあなたの偏見でしょ。事実ではありません。あなたが「教理問答」にこだわる理由が知りたいですな。125.196.96.168 2007年6月21日 (木) 13:01 (UTC)

論理をすりかえているだけで、私の質問に答えていませんが。この記事の編集要約欄に誤操作してしまったり、あなたの利用者ページに誤ってかきこんだ(これについてはおわびしますが)ように、保護テンプレを保護依頼テンプレと誤って投稿したに過ぎないのですが...。わたしは、実態がどうかきいているだけで、自分の意見を通そうとか教理問答にこだわってなんていませんが。「統治体」や日本支部で和訳された印刷物のことも含めて実態として絶対であることを確認したいのですが、予想した通りで残念ですがお答えにいただけないようです。それに管理人ママだったらあなたがもし多重アカウントやソックパペットで投稿しているならそれもわかっているはずなので、それを承知の上で書き込んだほうがいいと思いますよ。Siyajkak 2007年6月21日 (木) 16:15 (UTC)

ブルックリンの本部の「統治体」や日本支部で和訳された印刷物は絶対であり、信者は教理問答(カテキズム)の徹底した訓練を受け」と言う記述の、具体的な証拠を挙げていただけなければ、こちらも反証しようがありませんが。多重アカウント云々は濡れ衣です。125.195.29.225 2007年6月22日 (金) 02:14 (UTC)

いろいろ準備していたのですが、紳士的で建設的なお返事をいただいたことを拝見し、ちょっと後悔しています。違うIPになっちゃってますし、多重アカウント云々の話はきりがなくなるのでおっしゃるようにやめましょう。不快な想いをさせたことに対しお詫びします。 話し合いが建設的に進められる方向へもってきていただいていることに敬意を表します。

ところで、お尋ねの件ですが、わたしは、繰り返し実態をおききしたいと申し上げているように、実態を知りたいのは私のほうなので議論が堂々巡りになってしまっているのです。ようするにエホバの証人を教団外から客観的中立的に誹謗中傷なしにみたらそのように見えると言うだけのことなので、実態を正直にお話いただければいいだけのことなのですが、話をしていて発想の仕方とか言葉の表現の仕方とかが違うので話がいつまでもかみ合わないのです。つまりお互いに日本語を使っているのに外国人と話しているような翻訳が必要な変な感じです。教理問答についてもキリスト教史を振り返れば普通に「ウェストミンスター小教理問答」とか歴史的な教理問答が多数あります。ですから教理問答と言う言葉が決して悪意のある言葉ではないことはご理解ください。むしろ一般的なキリスト教会では、教理問答をしっかりやっていること自体は評価すべきことと考えられています。

実は、「教団内ではこう認識されているが教団外からはこう認識されている」という文を作ってみましたが、125.195.29.225さんが読んだ場合、その落差にショックを受け不快な想いをさせることになるので控えてきました。教団外からの見方はいくら不快でもPOVを振りかざしても教団外の方の認識ですから直しようがありません。125.195.29.225さんさえ良ければ比較してもいいのですが、「新世界訳聖書を絶対基準とし、宣教訓練学校で家庭訪問して相手を説得し論破するための教理問答を訓練している」よりももっと不快で情け容赦ない表現が文中に入ってくることになり怒り狂ってもおかしくないし、仮に125.195.29.225さんががまんできても再び編集合戦を誘発しかねないため、「ブルックリンの本部の「統治体」や日本支部で和訳された印刷物は絶対であり、信者は教理問答(カテキズム)の徹底した訓練を受け」は、最低限のラインなのです。せいぜい「教理問答」を「何々(一種の教理問答)」と言い換えるくらいが落としどころかなと感じています。Siyajkak 2007年6月22日 (金) 11:51 (UTC)

多重アカウントについて:私は無線LANを使っているので、LAN機によりIPが作成されています。それで、IPが自動変更されているようです。別に悪意はないのでご容赦を。
「新世界訳聖書を絶対基準としている」と言う点は間違いないようです。「宣教訓練学校で家庭訪問して相手を説得し論破するための教理問答を訓練している」と言う点ですが、確かにエホバの証人でない人の中にはそう考えておられる方がいるようです。
エホバの証人が家々を訪問するのはいわゆる「論破」や「改宗」が目的ではなく、あくまで「神と隣人への愛」に基づいています。(マタイ 22:36-40)神がイエスを通して与えられた命令は「良いたよりをまず宣べ伝える」ことでした。(マルコ 13:10)このおきてを守ることが神への愛だと聖書は説いています。(ヨハネ第一 5:3)神のご意思はあらゆる人が救われて、真理の正確な知識にいたることでした。(テモテ第二 2:4)「宣べ伝える者がいなければ」、聞くことはできません。(ローマ10:14)
エホバの証人はこの活動には人の命が懸かっていると考えています。望む者は命の水を価なくして受けますが(啓示22:17)、神の記憶にない者は永遠の滅びを被るからです。(啓示 20:15)
また、エホバの証人には良いたよりを宣明する必要が課せられています。(コリント第一 9:16)そうしなければ、証言しなかった相手の「血の罪」を負うことになります。(エゼキエル 3:17-21)
ですから、エホバの証人は論破などをやる必要はないのです。目的は「音信」を伝えることです。
さらに気になったのですが、「エホバの証人の見解は~」、「部外者の見解は~」と言っておられますが、そもそもWikipediaは「百科事典」だと言うことをご理解いただいているのでしょうか?百科事典は見解を書くところではないと思いますが、いかがでしょう?125.195.29.225 2007年6月22日 (金) 13:49 (UTC)
Wikipediaは何ではないか参照。

>「新世界訳聖書を絶対基準としている」と言う点は間違いないようです。

あなたの発言からは、あなたがエホバの証人のようにも、そうでないようにも見えるのですが、いったいどちらなのでしょう?。そんな事実はどこにもありませんよ?(理由については下の方の説明を参照してください)。

Siyajkak さんは管理者ではありません(特別:Listusersにてグループを「管理者」に指定すると吉)。まぁ、それはそれでおいといて、家庭訪問の目的は説得ではありません。一般に「証言」と呼ばれるこうした活動は、マタイ24章14節、他類似の聖句に示される預言を成就するための活動です。

そして,王国のこの良いたよりは,
 あらゆる国民に対する証しのために,
  人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。
   それから終わりが来るのです。 - マタイ24章14節(新世界訳)

イザヤ6章8節から12節もこれにやや似ていますが、イザヤの預言がイエスの時代に成就した(マタイ13:14-15参照)のに対し、マタイの聖句はイエス自身が語った「臨在(再臨)のしるし」(マタイ24:3)のうちの一つ、つまりはさらに将来の出来事であるという違いがあります。

で、エホバの証人というのは、こうした未だ成就したとはいえない預言のうちの幾つかを、単なる「将来成就するであろう出来事の説明」であるとは考えず、「自分達で成就させるべき預言」であると捉えます。ですから、イザヤ2章の「剣をすきの刃に…」を今日に当てはめた結果、兵役拒否や武道の授業を拒否することに繋がり、ローマ10章13-15節等を根拠に上記のマタイの聖句を今日に当てはめた結果、宣教に勤しむことに繋がるのです。

ところで、上記の Siyajkak さんの説明によれば、「説得」するためには「教理問答の訓練」が必要であるとのことですが、目的は「説得」ではありませんので「教理問答の訓練」というのは必要不可欠ではないようです。「教理問答」に該当しそうなものですぐに思いつくのは、初めて伝道者になる際、その資格があるかどうかを確かめるための一連の質問あたりです。伝道者の資格云々について知識を試されるのは、「訪問先で誤った証言をしないために」という理由だったと思うのですが、これがいわゆる「教理問答」なのでしょうか?。もしそうだとしても、たった一度きりですので「訓練」とは呼べないでしょう。また、「神権宣教学校」における訓練とは会話技術の訓練であって、教理の訓練ではありません(例として、「し」の音は語尾がかすれる傾向があるので発音の際には注意すべし、など)。そこでは、男性信者は公演者となるための訓練を受け、女性信者は様々な場面を想定しての証言シミュレーションを行うのですが、どちらも筋書きなどが用意されているわけではなく、実際に扱われる内容は、割り当てを受けた者による創作です。

そういった意味では、むしろ「ものみの塔研究」や「書籍研究」の方が「教理問答」に近いのでしょうけれども、これらの書籍は一般配布されていますし、内容も「教理」に留まらず多岐に及んでいるはずです。ですので実際に「教理問答」に該当しそうなのは「家庭聖書研究」のみになりますが、これが行われるのはバプテスマまでであり、「教理問答の訓練」と称する繰り返し受ける訓練とは違う気がします。教理を教わるのは研究生である期間のみであり、その後は知識を取り入れることよりもむしろ教理の実践こそが求められます(つまりは教理を深く学ぶことよりも宣教に赴くことが尊ばれる)。ですから、基礎的な知識から一歩進んでさらに深い教理を学ぶには、「ものみの塔研究」等で扱われるのを待つか、個人研究によって知識を増し加えるかの2つしかありません。それを裏付けるように、「バプテスマ以降のその人の成長は、その人自身の努力にかかっている」というような説明もあちらこちらに存在するはずです。

また、「繰り返し」というのは、「カルト」←「マインドコントロール」←「繰り返し」、という事柄から頭が離れない人たちによって量産された妄想の産物に過ぎませんので、情報源をきちんと選んだ方がよろしいかと(まぁ、それに限らず「絶対」などの強い表現からも、その出典の種類がどんなものか明白なのですが…)。Rigel 2007年6月22日 (金) 14:36 (UTC)

信徒自身しか知らないような内部事情までは知りませんので、教理問答の定義がどうしてもあいまいになってしまいます。わたしがイメージしているのは、Rigelさんがおっしゃる「ものみの塔研究」や「書籍研究」、「家庭聖書研究」、「「神権宣教学校」における訓練」、「様々な場面を想定しての証言シミュレーション」をひっくるめた概念と言い換えることができるかもしれません。その意味で表現が不適当だったことを認めることはやぶさかではありません。詳細で正確な情報が記述されたほうが良いので「教理問答の訓練」については取り下げますので、適切な表現にあらためていいただければと思います。お手数おかけしました。
ただし、
>妄想の産物に過ぎませんので、情報源をきちんと選んだ方がよろしいかと(まぁ、それに限らず「絶対」などの強い表現からも、その出典の種類がどんなものか明白なのですが…)
これについては、ご自分がいやだと思ったら信用できない情報源だという言い方だけはやめていただきたいです。Siyajkak 2007年6月23日 (土) 08:56 (UTC)

あ、それから、「その出典の種類がどんなものか明白」と言い出したのはあなたのほうなので、その点ご承知ください。Siyajkak 2007年6月23日 (土) 10:34 (UTC)

私個人の見解としてはRigelさんの仰るとおりだと思います。別に「宣教で新世界訳のみを使え」、と言うものみの塔協会からの指示はなかったような気がしますね。私自身も新世界訳以外の聖書を宣教で用いることもあります。ただ、「聖書を規準としている」と書くとPOVになりそうな気がしたので、「新世界訳聖書を規準としている」で妥協したまでのことです。(100%うそではないので)宣教が「教理問答」に当たらないのはいうまでもないことだと思います。いずれにしてもWikipediaというのは百科事典なので事実を書く所であって、個人の見解を書く所ではないのではないか、というのが持論です。125.195.29.225 2007年6月23日 (土) 00:33 (UTC) この返事は#見解の相違をなぜ記述するかに書きました。Siyajkak

冒頭部分の代案について 編集

補足説明(記述すべきかどうか迷った部分なのですが…):

  • 原典では、王国行間逐語訳聖書、日本語訳では、現在新世界訳聖書を最も適した翻訳とし
    実際のところ、そうした事実はありません(要出典)。というか『王国行間逐語訳』はあくまで「逐語訳」であり、原典ではないと思う。
  • ニカイア・コンスタンティノポリス信条や使徒信条、三位一体が聖書の教理と矛盾していると信じている
    「三位一体」については「聖書の教理と矛盾していると信じている」と言えますが、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条や使徒信条」については、その内容が具体的にはどのようなものであるかを知っている信者は皆無に等しく、「矛盾していると信じている」という事実は無いでしょう(最初はまともな文章だったようですが、版を重ねるうちに奇怪な文章に変貌してしまったようです)。
  • いわゆるブルックリンの本部の「統治体」や日本支部で和訳された印刷物は絶対であり
    カルト論者の主張そのままで事実無根(よって当然ながらPOV)。これが事実であるというならば、協会の発行した「印刷物」も引用しながら、その事実を証明する必要があるでしょう(要出典)。
  • 信者は教理問答(カテキズム)の徹底した訓練を受け
    上記の Siyajkak さんの説明から悪意に基づいた編集ではないことは理解しましたが、「徹底した」とのフレーズは不要でしょう。「印刷物は絶対であり…徹底した訓練を受け」という文脈による説明は、カルト論者のそれと瓜二つなのです。

Siyajkak さんにとっては耳の痛い内容かもしれませんが、現在の文面からはこのような印象を受けます。「否定的な記述をする際には注意深くあるべし」、というのは編集における基本の一つであったと思うのですが、これだけ事実無根の事柄が並べられていると、とてもではありませんがそうしたルールを考慮しているようには見えないのです。上記で指摘した問題のある記述をすべて取り除くと、残されるのは意味不明な文章でしかないので、冒頭の定義部分はSiyajkak さんの編集される前の版の内容に戻すことを提案致します。その上で定義の最後に「三位一体の教理を退けるため、伝統的キリスト教徒からは異端視される事が多い。」との一文を付け加えれば定義としては事足りると思うのですがいかがでしょう?。三位一体の教理を退けることがなぜ異端視されることに繋がるのかは、あちらの記事を読めば理解できるでしょうから。Rigel 2007年6月23日 (土) 14:43 (UTC)


大変申し訳ありませんが、わたしの編集する以前の版の冒頭の記述

>ヘブライ語聖書(旧約聖書)をギリシャ語聖書(新約聖書)と同列に扱い原典を字義どおり忠実に解釈しようとする、米国に特徴的なキリスト教の原理主義的性格をもつ新興宗教。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動している。

は不正確なので戻すことはできません。

理由は、教団としてのエホバの証人、「ものみの塔聖書冊子協会」は、チャールズ・ラッセルが1870年代はじめごろにピッツバーグ市ではじめた聖書研究会が起源で、1879年に「ものみの塔」誌の前身となる定期刊行物を発行し、その聖書研究会が1881年に「シオンものみの塔冊子協会」となり、1884年に法人化されたのがはじまりです。キリスト教根本主義が一種の社会現象となるくらいに台頭してきたのは、レーガン政権誕生前後で、100年近く遅れており、一緒に論じるのは文脈上歴史認識として誤りであることがなぜお分かりいただけないのか不思議でなりません。なぜレーガンかというと、南部バプテスト連盟に属していた福音派左派ジミー・カーターホワイトハウス入りしたことに象徴されるように、1976年が、「エヴァンジェリカルの年」といわれたものの、キリスト教根本主義者は、大多数が共和党支持であり本格的な台頭がエポックメイキング的に注目されたのは、レーガン政権以降なのは良く知られているところではないでしょうか?(まさか、ここでソースはなんて言わないでしょうね?これは常識の範疇です。)

それから、「原典を字義通りに」というのは、証人たちがそう主観的に思い込んでいるだけで、キリスト教会の側はそう見ていません。POVな記述です。ですから王国行間逐語訳としました。しかし、実は非常に迷いました。Rigelさんのご指摘のとおりで「逐語訳」であって、原典といえるのかというのはたしかにそのとおりだからです。しかし、通常のキリスト教会が原典として同じものを使っていると誤解されてしまうこと、王国行間逐語訳なり新世界訳について膨大な細かい点(原典に忠実と言うことならばそれについて当然細かくなる)についてキリスト教会の側から反論する出版物が多数でていることからはっきりさせたほうがよいと思って迷いながらも原典扱いとしました。通常のキリスト教会は、原典そのものか、ほかの訳の行間逐語訳(インターリニアー)を用いています。ただし、混乱を招く記述であるのも確かであることは認めます。

「ギリシャ語聖書」を記述するならRigelさんがご指摘のとおり、「クリスチャン・ギリシャ語聖書」とするのが良いと思います。そういわないと、新約聖書はギリシャ語でかかれているので、なんのことやらさっぱりわかりません。ヘブライ語聖書も特殊な呼び名があったら訂正したほうがいいと思います(ちょっと調べましたがわかりませんでした。)

それから、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条や使徒信条、三位一体が聖書の教理と矛盾していると信じている」 ですが、これは証人がたまたま知らされていないと言うだけのことで、事実無根と言うことはないでしょう。キリスト教会と「ものみの塔聖書冊子協会」を区別する重要な相違点です。

Rigelさん、あなたは、「「絶対」などの強い表現」はおかしい、「「徹底した」というフレーズは不要」、といいながら、あなた自身が「事実はありません。」との強い表現を使い、私に対して「事実無根」、「カルト論者そのもの」、「その出典の種類がどんなものか明白」とか、耳が痛いとかさかんに決め付けているではないですか?わたしはカルトではありません。あなたが出典の種類は明白といいだしたのだから何を読んでいるか挙げられるでしょう。

ただ、そうしたら、あなたが恥をかくだけですし、「現在の記事へのコメント」のような建設的な話ができる方だとおもうので、わたし自身も現時点ではそのようなことは望みません。ただし、あまりしつこいようだと出典の種類は明白と決め付けたことに対し釈明ないしお詫びしていただくことになります。

批判だけして、代案を提示しないのは無責任とおもわれるので、代案を提示します。

現在新世界訳聖書を最も適した翻訳とし、英訳の新世界訳聖書を底本として各国語訳の聖書が刊行されている。しかし、時に理解しづらい表現がある場合などは、ジェームズ王欽定訳アメリカ標準訳など他の翻訳聖書、またカトリック百科事典等も参考にすることがある。ニカイア・コンスタンティノポリス信条使徒信条三位一体が聖書の教理と矛盾していると信じている。信者はほぼ全世界で活動している。

又は、おっしゃる記述を参考にして、

現在新世界訳聖書を最も適した翻訳とし、日本語訳を含め各国語訳は英訳の新世界訳聖書を底本としている。しかし、時に理解しづらい表現がある場合などは、ジェームズ王欽定訳アメリカ標準訳など他の翻訳聖書、またカトリック百科事典等も参考にすることがある。三位一体の教理を退けるため、伝統的キリスト教徒からは異端視される事が多い。

Siyajkak 2007年6月24日 (日) 10:39 (UTC)

私はそこまで博識なわけではありませんので、上で説明された内容の真偽はほとんど分かりません(ただし、言わんとしている事柄は理解したつもりです)。以下個別に解説します。
  • ヘブライ語聖書(旧約聖書)をギリシャ語聖書(新約聖書)と同列に扱い
    私としても、「同列に扱い」というのは変な表現だな~とは思うのですが、版を戻すことを提案した理由というのは、現在の版よりも編集合戦を呼び込む可能性が小さい、という理由によります(それくらい現在の定義は酷い内容に写る、ということです)。もっと正確に表現するならば、旧約・新約、どちらも「神の言葉」であり、新約の正しい理解のためには旧約の正しい理解が不可欠であると考える、といった感じになるでしょう(ただし、それはキリスト教のどの教派でも同じかと思われます。少なくとも名目上は)。雑誌や書籍中では、ユダヤ教文書を引用しての解説がなされることもあるくらいです。一例を挙げると、『ものみの塔』97年12月1日号20ページでは、マタイ18章21節(人の違反を何度まで許すべきか)の説明として、タルムードのヨマー86bを引用して、3度目までは許し4度目は許さない、というのが当時の一般的な慣習であったことを説明しています。
  • 原典を字義どおり忠実に解釈しようとする
    私がこの部分から受ける印象はちょっと異なりまして、続く「解釈しようとする」との部分から、ちょっと揶揄が入っているかな?と感じます(輸血拒否など)。従って、別にこの部分を取り除くことに異議を唱えるつもりはありません。そうそう、少なくとも「忠実」のフレーズは不要でしょう。
  • 米国に特徴的なキリスト教の原理主義的性格をもつ新興宗教
    この部分についても受ける印象が異なりまして、「原理主義」ではなく「原理主義的性格」ですから、それほど表現にこだわる必要性というものを感じなかったのですが…。まあ、この部分を取り除くことにも異議を唱えるものではありません。むしろ、こうした表現を用いたいのは「新興宗教」の文字をどうしても入れたい反対者たちでしょうから(「原理主義的性格をもつ」との語句はそのための前振りに過ぎないようにも感じます)。
  • 現在新世界訳聖書を最も適した翻訳とし
    何度も言うように、「最も適した翻訳とし」というのは事実とは異なります。雑誌等で、新世界訳のことを「優れている」と紹介することは多々あります。が、それはきちんと理由を示した上で紹介しているに過ぎません。一例として、『ものみの塔』95年4月15日号32ページ(裏表紙)の概略を示すと、ラケル・テン・ケイト博士(古典ギリシャ語学者)の言として、ルカ福音書2章に出現するイエスの成長過程を表す「ブレフォス、パイディオン、パイス」という3つの単語、これを正確に訳し分けているオランダ語の翻訳聖書は、彼女(?聖書の「ラケル」は女性なので)の知る限り「存在しない」とのこと、後にオランダ語の新世界訳を見せられた博士は、新世界訳が正確に訳し分けていることに驚きを示した、との内容となっています。そして、「時に理解しづらい表現がある場合などは」というのも事実ではなく、様々な聖書を比較検討することは「聖書のより深い理解に繋がる」が故に、むしろ積極的に勧められているのです。なお、テン・ケイト博士の発言に関する記事(95年)ですが、そこには新世界訳が「12の言語」で入手可能とあり、現在の記事中にある「53の言語」とは大きな差があります。つまり、元々全ての言語で『新世界訳』が入手できたわけではなく、順次翻訳されていったのが実情です。ですから過去においては「新世界訳聖書を最も適した翻訳とし」というのは完全な誤りです(12の言語程度では、良くて地域POVでしょう)。では現在は?というと、「現在新世界訳聖書を最も適した翻訳とし」とすれば、一見正しそうにも見えますが、過去においては違ったのに現在はそうであるならば、その途中で何らかの変化が起こったとしか考えられません。「最も適した翻訳とし」という表現からは、エホバの証人の新世界訳に対する見解が示唆されるのですが、エホバの証人が新世界訳に対する見方を変えたのでしょうか?。であるならば、その見方を変えざるを得ないような出来事が起こったのでしょう。それは雑誌でなされたのかもしれませんし、あるいは大会での発表であるかもしれません。つまり、それが本当に事実であるならば、その事実を示す何らかの証拠が存在するはずであり、これが先に出典を求めた理由です。現在は確かに、ほとんどのエホバの証人が自分の言語の新世界訳を入手することが可能となりました。しかしそれは、単に状況が変わっただけであり、見解の変化ではないでしょう。見解の変化でないのなら、「現在」との表現はそもそも不要のはずですので…。つまり私が言いたいのはそういうことなのです。なお、勘違いしてほしくない点なのですが、主要な教理と呼べるものは新世界訳が作成される遥か昔からすでに存在していた、ということです。
ついでですので解説しておきます。『王国行間逐語訳聖書』とはどのようなものか、具体的にはご存じないと思いますので説明しますと、底本には1948年に再版された、「ウェストコットとホートによって校訂されたギリシャ語本文」を使用し、ギリシャ語と英語を行単位で交互に記述しています。そしてそのギリシャ語の単語には、一字一句に対応する英単語が示されています。もちろんこれだけでは単なる英単語の羅列に過ぎないため、あまり役に立つものとはいえませんが、その横にはきちんとした英文が載せられています。何を隠そう、この英文は『新世界訳』そのものなのです(もちろん、羅列された英単語と英文が全く同一であるというわけではなく、文章化するにあたっての単語の置き換えもなされています)。つまり、『王国行間逐語訳』に対する反論と『新世界訳』に対する反論とは実質的に同じものであると考えた方が良いです。もとより、伝統的キリスト教徒によるエホバの証人に対する反感というのは自明の事柄なので、批判本の多さというのは別に驚くことでもなんでもありません。
本題に戻って、↓こんな感じでどうでしょう?。
エホバの証人とは、輸血拒否に代表されるように、聖書の字句を字義どおりに解釈しようとすることで知られる、キリスト教系新興宗教。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることでも知られる。三位一体の教理を退けるため、ニカイア・コンスタンティノポリス信条や使徒信条に従っていないとして、伝統的キリスト教徒からは異端視される事多い。
「~信条」について具体的に知っているわけではないので日本語的に間違っているかもしれませんし、全ての聖句を「字義どおりに解釈しようとする」のではなく、比喩は比喩として退けるので、そのあたりのツッコミを入れられる可能性はありますが…。ちなみに、「クリスチャン・ギリシャ語聖書」の件ですが、私は修正ではなく、「教理ではない→不要→撤去するのが妥当」ということを主張しています。Rigel 2007年6月25日 (月) 12:16 (UTC)

>過去においては違ったのに現在はそうであるならば、その途中で何らかの変化が起こったとしか考えられません。「最も適した翻訳とし」という表現からは、エホバの証人の新世界訳に対する見解が示唆されるのですが、エホバの証人が新世界訳に対する見方を変えたのでしょうか?。であるならば、その見方を変えざるを得ないような出来事が起こったのでしょう。

>それが本当に事実であるならば、その事実を示す何らかの証拠が存在するはずであり、これが先に出典を求めた理由です。現在は確かに、ほとんどのエホバの証人が自分の言語の新世界訳を入手することが可能となりました。しかしそれは、単に状況が変わっただけであり、見解の変化ではないでしょう。

う~ん、これはRigelさんが教理や見解の変化と新世界訳をご自身で関連付けてお考えになっているだけで、わたしは、「過去には新世界訳はなかったが、現在は新世界訳があるのでもっとも適した訳としてエホバの証人が用いている」という単純な事実を述べたというだけのことです。ですから、なぜ出典が必要とおっしゃるのか理解に苦しみました。

それから輸血拒否ですが、これはレビ記17章と使徒行伝15章の解釈からきていますが、レビ記17章11,12節には、確かに「肉のいのちは血の中にあるからである。」(注1)「だれも血を食べてはならない。」(注2)と書いてありますが、レビ記3章17節には「脂肪も血もいっさい食べてはならない。」(注3)とあり、7章22~27には、「脂肪をいっさい食べてはならない。」(注4)「主にささげる動物の脂肪を食べる者、これを食べる者は、その民から断ち切られるからである。」(注5)と血とともに脂肪を食べてはならないとあります。それから少なくとも、過ぎ越しの祭りの際の子羊以外は肉はゆでて食べるのが一般的であり(注6)、また脂肪がなくなるまで焼き尽くしてから食べたので(注7)、今日本で食べているように普通にステーキは食べられないはずで、たとえば毛細血管に残っている血は大丈夫ということはありません。 それから使徒行伝15章のエルサレム会議の記述ですが、29節には、血以外に、είδωλοθύτων(偶像にささげたもの)やπνικτων「絞殺された;ユダヤ教で規定通りに屠殺されなかった動物」(注8)についても食べないことにしたこと、同時に不品行を避けるようにというすすめが書かれています。しかもこれについては、どの訳にかぎらず、29節のみを読むのではなく聖書全体の文脈よく読めば、初代教会においてユダヤ人とそれ以外のキリスト教徒がふえてきたため、ユダヤ律法の影響が強いユダヤ人クリスチャンたちをつまずかせないために会議で決定したということがわかります。ですから「輸血拒否に代表されるように、聖書の字句を字義どおりに解釈しようとすることで知られる、」の部分は、聖書を字義通りに解釈した場合、中東で行なわれているように(又はかって行なわれていたように)血を抜いて脂肪も食べないという解釈が成り立ちうること、新世界訳聖書が日本語訳を含め各国語訳は英訳の新世界訳聖書を底本としていて本当に字義通りといえるのか疑問をもたれていること、輸血という治療法が当時行なわれていて、してはならないと考えられていたかどうかまで厳密に考える必要があるためPOV的に問題があります。なお新世界訳聖書をどうしても取り除きたいというのでしたら、

エホバの証人は、キリスト教系新興宗教とされる。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることでも知られる。三位一体の教理を退けるため、ニカイア・コンスタンティノポリス信条や使徒信条に従っていないとして、伝統的キリスト教徒からは異端視される事も多い。

とすることを提案します。Siyajkak 2007年6月25日 (月) 15:04 (UTC)

<<引用参考文献>>
(注1)『新改訳聖書』日本聖書刊行会,1970,p.185(旧約聖書レビ記17章11節)
(注2)前掲書,p.185(旧約聖書レビ記17章12節)
(注3)前掲書,p.159(旧約聖書レビ記3章17節)
(注4)前掲書,p.165(旧約聖書レビ記7章23節)
(注5)前掲書,pp.165-6(旧約聖書レビ記7章25節)
(注6)ジョン・ドレイン『ビジュアル聖書百科』いのちのことば社1999,p106/Iサムエル記(サムエル記上)2章13節
(注7)Iサムエル記(サムエル記上)2章15節,16節など
(注8)岩隈直1982『増補改訂新約ギリシャ語辞典』山本書店,p.389

原典では、王国行間逐語訳聖書、日本語訳では、現在新世界訳聖書を最も適した翻訳とし:「王国行間逐語訳」はウエストコットとホート著「ギリシャ語原語による新約聖書」に英語の字義訳を当てたものですので、原典ではないです。また、何度もいうように新世界訳を最適な訳だと主張したことはありません。
聖書を読む個人にとって,また聖書を用いて他の人々を教える人たちにとって何を意味するでしょうか。広く使われているほとんどの言語では,聖書翻訳が二つ以上あり,選ぶことができます。自分の使う聖書を選ぶ際には識別力を働かせてください。(箴言 19:8)もし訳文が,どんな口実があるにせよ神の霊感のもとに記された言葉からみ名を取り除くことにより神ご自身の実体についてありのままを示していないのであれば,その翻訳者たちは聖書本文の他の部分にも勝手に手を加えているということはないでしょうか。訳の有効性に疑問を感じるときは,より古い翻訳と比較するよう努めてください。神の言葉を教える立場にある方なら,元のヘブライ語およびギリシャ語本文にある事柄にしっかり付き従っている訳を用いてください。(「ものみの塔」1997年10月1日号p20)とはありましたが…
特にこの見解が過去に変更されたと言う証拠は調べましたがありませんでした。
キリスト教系新興宗教と言う表現は明確にPOVですね。なぜなら、ものみの塔協会自体自分たちがキリスト教だと言っているのですから。
例:今日の真のクリスチャンも,キリスト教の原則に反する偽りの宗教の考えに基づく,一般に受け入れられている習慣を避ける必要があります。(「ものみの塔」2006年1月1日号p27)
ギリシャ語聖書について:エホバの証人は「ギリシャ語聖書」という表現と「クリスチャン・ギリシャ語聖書」と表現を両方用いています。たとえば、『王国行間逐語訳』の正式名称は『ギリシャ語聖書王国行間逐語訳(The Kingdom Interlinear Translation of the Greek Scriptures)』です。エホバの証人は契約によらず、書かれている言語により分類分けしています。ちなみに「ヘブライ語聖書」の別名は「ヘブライ語・アラム語聖書」です。なお、「ヘブライ語聖書」と言う表現はエホバの証人以外の人も用いています。たとえば、新世界訳聖書のヘブライ語部分の底本となった「ビブリア・ヘブライカ」は、文字通りには「ヘブライ語聖書」という意味です。
また、血の禁令に関することですが、今日本で食べているように普通にステーキは食べられないはずで、たとえば毛細血管に残っている血は大丈夫ということはありませんとかありましたが、とんでもない誤解です。この禁令は血抜きをされていない肉を食べることを禁ずる律法です。(創世記9章4節、レビ記17章13節)今日肉屋で売っている肉はほとんどが血抜きされた食品です。もちろん、明らかに血抜きされていない肉は食べませんが、普通の肉は食べても大丈夫です。たとえば、鯨肉などは血抜きされないことが多いため、食べないようにと言う警告が以前出されました。(「御国奉仕」1967年3月号8ページ)
また初代教会においてユダヤ人とそれ以外のキリスト教徒がふえてきたため、ユダヤ律法の影響が強いユダヤ人クリスチャンたちをつまずかせないために会議で決定したと言うのは嘘でしょう。なぜなら、使徒15章29節の禁令は「諸国民(異邦人)の」信者に宛てて書かれています。(使徒15章23節)
脂肪の禁令ですが、これは「ユダヤ人に対し」モーセの律法で述べられている禁令で、今日エホバの証人はこの禁令を守る必要はありません。(ローマ7章6節;ガラテア3章23-25節;ヘブライ10章1-10節)その証拠に、大洪水後、ノアとその家族に対して肉を食物に加えてよいとの許しが与えられた時、脂肪については何も述べられませんでした。(創世記 9章3,4節)使徒15章でも脂肪に関する禁令は述べられていません。125.192.181.21 2007年6月26日 (火) 09:29 (UTC)

キリスト教系新興宗教と言う表現は明確にPOVですね。なぜなら、ものみの塔協会自体自分たちがキリスト教だと言っているのですから。
>例:今日の真のクリスチャンも,,キリスト教の原則に反する偽りの宗教の考えに基づく,一般に受け入れられている習慣を避ける必要があります。

だから、これもPOVなのですが...新興宗教と書いていけないのなら冒頭は両論併記しかありません。 それから、護教のための巧みな論点そらしをしていますが、レビ記の規定にある脂肪はなぜ避けないのか答えていないし、それから使徒行伝の「絞殺された;ユダヤ教で規定通りに屠殺されなかった動物」についてはどうなのかまったく答えていません。わたしは、中東での調理法について述べているのですが、徹底的に血をさけるなら同じ調理法をとらなければならないのですが、本当に中東での調理法のように血をさけて肉を食べているのですか?普通にステーキ食べてるんだからそうじゃないですよねえ。レビ記の規定を全部守るなら、血だけを避けるんじゃなくて、エビ、カニの類や豚肉など食べれなくなりますが...キリスト教の原則に反する偽りの宗教の考えに基づく,一般に受け入れられている習慣を避ける必要があるんですよねえ...Siyajkak 2007年6月27日 (水) 16:56 (UTC)

以前ネット上で Siyajkak さんの説明する内容に近い主張に遭遇したことがあるので、きっとこれにも出典が存在するのだとは思うのですが、… 順次説明するとこうなります。
使徒15章29節にはクリスチャンが避けるべき事柄として、「偶像に捧げられたもの、血、絞め殺されたもの、淫行」の4つが挙げられています。ではこの聖句が意味するところは?というと、元々は「クリスチャンに転向した非ユダヤ人は割礼を受けるべきか?」、というところから議論が開始されたことが分かります(15:1-6)。つまりここで論じられているのは「モーセの律法をどの程度守るべきか?」(15:5)ということであり、最終的には「割礼」に関する律法をはじめとする(上記4つ以外の)「ユダヤ人の掟」を守る義務は存在しないことが宣言されました。これを補足するものとして、別の聖句では、「キリストの死」が律法を守り行う義務からの解放を意味することを説明していますので、クリスチャンはモーセの律法を守り行う義務はないとの認識が生まれます(エフェソス2:15)。「脂肪」その他についてはここまでの説明だけで十分なはずです(本音では「Siyajkak さんには説明するまでもない事柄なのでは?」とは思っているのですが…)。
「輸血拒否」についてですが、直接の根拠となるのは上記の使徒の聖句だけであり、レビ記(律法)は関係ありません。ただし、Siyajkak さんのおっしゃる通り、説明の際にレビ記に言及するのは確かです。が、その場合には Rantaro 氏が述べるように創世記(律法)のノアへの命令にも言及しているはずです。これは、聖書全体で血がどのように扱われているかを示すためのもので、「血」に関する聖書の記述は一つの例外を除いて他は利用を禁止している、とエホバの証人の書籍は説明します。その例外とは「神への犠牲」であり、その目的を「神の目的のために取り分けられた」(=「神聖な」)ものであると解します。クリスチャンであるならば、文字通りの「神への犠牲」は捧げないことでしょう。しかし、キリスト・イエスの流した血を「(罪の)なだめの捧げ物」とみなすことには同意するはずです(ローマ3:25)。このイエスの流した血こそ「古代世界において唯一許された血の利用」、つまりは「神への犠牲」であると考え、キリストが流したその血を神聖視するが故に他の利用を拒む、といった内容がこの件に関するエホバの証人の主張の真相です。
まあどちらにしても、この解釈についての論議が記事の改善に役立つとも思えませんので、この話題は幕引きにしませんか?。Rigel 2007年6月28日 (木) 10:29 (UTC)

今日は仕事をしながら、この内容について考えを巡らせていました。上のように提案したものの、「輸血拒否」は刺激が強すぎるように感じたからです。それを緩和するためには「兵役拒否」も併記したほうが良いかな?とは考えていたのですが、取り除いても良いのであれば取り除くことにしましょうか。

もう一点、使徒信条についてですが、ここから三位一体の概念を連想することは私にはできませんでした。「内容」の節には「一方で三位一体はまだ定式化されていない。」とあるので、これは私の勘違いというわけでもなさそうです。「日本語(口語)」の部分から引っかかる表現を挙げても、「十字架」、「陰府」、「普遍」の3つの単語くらいなのですが、「普遍」は別にしても、「十字架」を「杭」に、「陰府」を「ハデス」にそれぞれ置き換えれば、受け入れ難いというほどの内容でもないように感じます。従って、三位一体とは別の意味で証人が退ける、ということであればその(三位一体以外の)理由を加えて解説するべきですし、そうでないのなら取り除く必要がありそうです。

なお、"「過去には新世界訳はなかったが、現在は新世界訳があるのでもっとも適した訳としてエホバの証人が用いている」という単純な事実を述べたというだけのことです。"とのことですが、実際には新世界訳を用いる機会が多いだけのことです。理由は単純で、『ものみの塔』の研究記事が新世界訳からの引用が多いのと、簡単に入手できることによるのでしょう(しかも無料で。私の近所の田舎の小さな本屋では「新約聖書、詩篇付き」くらいしか手に入りません)。また、実情もそれほど単純なものではなく、Siyajkak さんのおっしゃるとおり、新世界訳に対する批判本というのはそこかしこに溢れ返っています。そしてそれを根拠として人々は言います、曰く「改竄聖書である」と。さらに続けて「自らの教理を証明したいがために改竄聖書を作成した」とも言うのです。こうした現実をふまえて現在の文面を読み解くと、やれ「マインドコントロール」だ何だと騒ぐ人たちの主張を裏付ける内容であるかの如く、… 後はご想像にお任せ致します。

125.192.181.21さんによる「キリスト教系新興宗教と言う表現は明確にPOVですね。なぜなら、ものみの塔協会自体自分たちがキリスト教だと言っているのですから。」とのご発言ですが、協会の主張のみ取り入れることこそPOV(Point of view:全体像の一部分)なのである、という点をまずご理解下さい。「エホバの証人」の定義は、歴史家や批評家など、いわゆる「協会の部外者」によるものも存在するはずなのですから。さて、前半の「キリスト教系」との表記ですが、実はこの表記に対する議論が過去にあり、ノート:エホバの証人/archive3にある Tomos さんによるまとめによれば、表記を「キリスト教」とするか「キリスト教系」とするかについての議論は決着していないようです。「~系」と表記した場合、生まれる差異というのはせいぜい直系と傍系の違いでしょう。「キリスト教系」とした場合に「キリスト教」ではなくなってしまうのか?。最初はそんなことはないはずだと考えていたのですが、考えているうちに分からなくなってきました。今週末までには何らかの回答をしたいと思いますので、しばしご猶予を…。後半の「新興宗教」ですが、実際の記事には「西洋では19世紀末以降のものを言う場合が多い。」とあり、一般論として、たまたまこれに当てはまるだけのことなのです。少なくともこちらはNPOVであると言えるしょう。

別にものみの塔協会の見解のみを取り上げようといっているのではないのですがね…もし、「新興宗教」という用語にこだわって中立記述にするなら、「多くの批評家はエホバの証人を新興宗教とみなしている」という記述にすべきじゃないかと。「エホバの証人は…新興宗教である」という表現は批評家の意見を事実表記しているので中立ではないと申し上げているのです。125.193.23.145

125.192.181.21さんにはお願いがあり、議論に参加するにあたって、まずは他者の発言をよく読んでください。『行間逐語訳』の説明のように、一旦収束した議論を繰り返し主張されると、議論が停滞しかねません。また、ノートは記事を改善するためのものであって、主義主張を喧伝する場ではありません。従って、教理の解釈がどうこうという話題は本来行うべきではないのです。この点、どうかご協力お願い致します。Rigel 2007年6月26日 (火) 12:23 (UTC)

『行間逐語訳』の説明のように、一旦収束した議論を繰り返し主張されると、議論が停滞しかねません。:あなたとSiyajkak氏で勝手に議論を収束しただけだとお見受けしますが…。しかも、両者ともエホバの証人の見解とは違ってますので補足が必要かと…125.192.181.21 2007年6月26日 (火) 13:08 (UTC)
IPから知ることができる活動地域の「福岡県」、最初はここから「もしや…」とは思っており、(1)議論の流れの中で自然な位置にコメントするのではなく議論の途中に強引に割り込む、(2)直接編集の特徴の一つである他者の発言の改竄の存在(このノートの履歴から分かるように、今回は私の発言が書き換えられています)、(3)自分の間違いはなかなか認めず他者の発言の否定に熱心である、などの特徴がそっくりであるのでその疑問は大きくなっていったのですが、上記へのコメントを示すためにいろいろ調べていくうちに、(4)5/13の時点ですでに「キリスト教系」との表現にこだわりを見せていたことまで分かりました。あまりにも良く似ているとは思ったのですが、どうやらビンゴだったようです。あなたは Rantaro 氏、かつて K.M. のアカウントで活動し、永久ブロックの処遇を受けた人物です(証拠はこれ)。揚げ足取りによって議論の邪魔をすることはやめて下さい。私があなたに言いたいことは以上です。Rigel 2007年6月27日 (水) 13:03 (UTC)
勝手に第三者と同一視されるのも不愉快ですが、それ以上に勝手に二人だけで合意するというのはもっと不愉快ですね。しかも、管理人の権限の悪用乱発・・・これには頭にきています125.193.23.145 2007年12月3日 (月) 03:59 (UTC)

「キリスト教系」との表記と冒頭部分の記述について 編集

「キリスト教系」についての解答です。上記で、私が何をどう考えどのように迷ったのかを記述すると、その私の解説を読んだ人が混乱するだけのような気がしますので、その部分の解説は割愛させて頂きます。手っ取り早く、「キリスト教系」の語を Google にかけたところ、以下のような語句が抽出できました。

キリスト教系の出版社、キリスト教系の小売業者、キリスト教系高等学校、キリスト教系SNSサイト、キリスト教系書店、キリスト教系の月刊誌、キリスト教系課目、キリスト教系の大学、キリスト教系NGO、キリスト教系新聞、キリスト教系中学校、ユダヤ・キリスト教系の神学部、キリスト教系野党勢力、キリスト教系の幼稚園(以上、検索上位50件から抽出)

この結果からは、「キリスト教系」と表現することが「キリスト教であることを否定」することに繋がるという事実は存在しないように思えます。問題があるとすれば、検索結果の2番目にヒットした「キリスト教系の新宗教」という記事の内容との関連によるのでしょう(検索結果によってその存在を初めて知りました…いや、一連の著作権侵害の調査過程から知っていて然るべきなのですが、当時は全く眼中にありませんでした)。その内容が正しいことを前提に、その記事に「エホバの証人」を当てはめると、その位置づけは以下のようになります。

  • (1)「ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白する宗教集団がキリスト教であり」とあるので、「伝統宗教としてのキリスト教内部」からは「キリスト教ではない」とされる。
  • (2)「この中にあって…逸脱するものを異端…と呼ぶ。」とあるので、「この中」つまり「ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白」していないので「異端」ではないようです。この記事内に以前に「異端ですらない」と書かれたことがありましたが、その意味では正しかったようです。
  • (3)「これに対して宗教学の立場からは、広義のキリスト教、すなわち聖書を経典としキリストを唯一の救世主と認める宗教を一般にキリスト教と認めようとする立場もある。」とあるので、「宗教学」の見解では「広義のキリスト教」として認められそうです。
  • (4)「後者の立場からは、…キリスト教系の新宗教であると表現される。」とありますが、「後者」とは「聖書より上位の立場にある経典をもつ教団」のことなので、そうした上位の経典が存在しないエホバの証人は「キリスト教系の新宗教」ではないようです。

しかし、「エホバの証人」は、その記事の日本語版だけでなく英語版でもリストされており、もしかして日本語版の記事内容がどこか間違ってるのか?。と一瞬考えたのですが、英語版の記事名は "Restorationism" (復古主義?両者の内容はだいぶ異なる)なので、「記事内容に誤りが含まれている」とは一概に言えないようです。従って、「キリスト教系の新宗教」の記事内容が正しいと仮定した場合、「「広義のキリスト教」に属する新宗教」といったあたりが正しい描写になりそうです。また、「異端視される事も多い」との表現についても「批判される事も多い」などのように変更する必要があるかと。

エホバの証人は、宗教学上「広義のキリスト教」に分類される新宗教である。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることでも知られる。三位一体の教理を退けるため、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないとして、伝統的キリスト教徒(もしくは「伝統的キリスト教を擁護する立場」)からは批判される事も多い。

まとめると、こんな感じになりますが…。Rigel 2007年6月29日 (金) 12:50 (UTC)


確認可能な百科辞典類の記述を洗ってみました。

  • 平凡社『世界大百科事典』28,2005年(改訂)
    ものみの塔;「一般に<エホバの証人Jehovah’s Witness>として知られるキリスト教の一派、および<ものみの塔聖書冊子協会Watch Tower Bible and Tract Society>の機関誌名.」(p.258)
  • 平凡社『世界大百科事典』1,2005年(改訂)
    アリウス;「キリスト論に関する異端アリウス主義Arianismの主唱者・・・(中略)・・・近代のキリスト教諸宗派のなかでアリウス派に近いものは<エホバの証人>(ものみの塔)である。(p.561)
  • 山折哲雄監修『世界宗教大事典』平凡社,1991年
    ものみの塔;「一般に<エホバの証人Jehovah’s Witness>として知られるキリスト教の一派で、・・(以下略)」(p.1919)
    アリウス;「キリスト論に関する異端アリウス主義Arianismの主唱者・・・(中略)・・・近代のキリスト教諸宗派のなかでアリウス派に近いものは<エホバの証人>(ものみの塔)である。」(p.100)
  • 井上順孝中牧弘允外『新宗教教団・人物事典』弘文堂,1996年
    定義なし。「ラッセル(一八五二~一九一六)は、・・・(中略)・・・十八歳の頃聖書研究のグループを作る。・・・(中略)・・・「シオンものみの塔冊子協会」(英語名。中略)が組織される。」(p.304)
  • ジョン・R・ヒネルズ編/佐藤正英訳『世界宗教事典』青土社,1999年
    「チャールズ・テーズ・ラッセル・・・(英語名、生没年。中略)・・・が、この至福千年運動ないしセクトの創始者。」(p.67)「エホバの証人は、・・・(中略)・・・三位一体をしりぞけ、イエス・キリストをアリウス主義的に理解する。」(pp.67-68)
  • 山折哲雄他編『日本「宗教」総覧』新人物往来社,1992年
    第四部諸教編「神道仏教、キリスト教以外の系統の教団」を収める。
「ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)」の独立項目あり。
定義なし。「チャールズ・T・ラッセルは、・・・(中略)・・・聖書研究の集まりを始める。・・・(中略)・・・ものみの塔冊子協会を設立。」(p.308)
第9部新宗教
独立した定義項目なし。
「古代ユダヤ教のメシア待望の運動や原始キリスト教のキリスト再臨の運動、・・・(中略)・・・新宗教運動の特定の潮流のなかには、この特徴を見いだすことは可能である。・・・(中略)・・・「再臨のキリスト」による「最後の審判」や地上的な「神の王国」の間近な到来を告げ歩くキリスト教系のエホバの証人」(p.755)
「仏基両教の系譜をひくメシア的救済運動の創始者・・・(中略)・・・たとえば、ラッセル・・・(中略)・・・キリスト再臨の年を予言してきたエホバの証人の運動や、・・・(以下略)」(p.764)
カーゴ・カルトなどと同じ千年王国運動の文脈で説明している。
  • 村上重良『世界宗教事典』講談社,1986年,1990年(改訂)
※「プロテスタント(新教)諸派」(ルーテルからセブンスディー・アドヴェンティストまで一緒にしている。)と別項目で「エホバの証人・ものみの塔」の項目を立てる。
「エホバの証人は、・・・(中略)・・・キリスト教新教系の教派で、・・・(以下略)」(p.250)
※以下略には再臨や終末にかんする主張などの記述がある。
  • 松野純孝編『新宗教辞典』東京堂出版,1984年
「チャールズ・T・ラッセルが、・・・(中略)・・・始めた聖書研究グループが組織化されたもの。」(pp.424~425)
「イエス・キリストはエホバによって最初に創造されたのである。」(p.425)
※キリスト教の章があるがエホバの証人に関する記述は一切なく、巻末の語句解説に項目がある。
定義として「布教伝道活動で知られるキリスト教の教派。」(p.393)以下、会員数や創設に関する記述、再臨や終末にかんする記述がつづく。
  • ジョン・ボウカー編松村一男監修『ケンブリッジ世界宗教百科』原書房,2006年
キリスト教(Chistianity)の小項目アメリカの部分に記述あり。独立した定義項目なし。「歴史的伝統を持つ教派が異端とみなした新しい運動・・・(中略)・・・エホバの証人は、初期キリスト教徒が待望したように終末は近い、と主張し、・・・(以下略)」(p.258)

これをみてみると、「キリスト教の一派」、「キリスト教新教系の教派」との記述が見られる 一方、わざわざ、新宗教や諸教に分類する事典も見られます。ですから宗教学上、宗教人類学上の記述をするなら、 宗教学上は、キリスト教の一派とみなされることもあるが、そのキリストの再臨や終末論の強調から千年王国運動の系譜を引く新宗教とみなされている。 という記述になります。はっきり書いてはいませんが、カーゴ・カルトゴースト・ダンスなどのメシア待望信仰は、文化人類学上は千年王国運動と一括して呼ばれます。時期的にも世界史的に新宗教が興隆した19世紀終わりごろであることからも、歴史認識上合致します。

それから、Rigelさんの
>伝統的キリスト教徒(もしくは「伝統的キリスト教を擁護する立場」)からは批判される事も多い。 ですが、伝統的キリスト教徒の立場からすれば、はっきり異端として位置づけています。教理の観点から異端としているわけですが、そのことは、前述した百科辞典類の引用をご覧になればわかるように、三位一体の否定が、アリウス派的な理解、すなわち「イエス・キリストはエホバによって最初に創造された」というキリスト論の考え方が教理上あるのであるならば、異端という位置づけになります。それから、例のキリスト教系の新宗教の記事ですが、フレーズだけでなく文全体を引用すると
--- 伝統宗教としてのキリスト教内部では、ニカイア・コンスタンティノポリス信条告白する宗教集団がキリスト教であり、この中にあってキリスト教としての自己認識を保ちつつ正統教義から自覚的に逸脱するものを異端、教団外部にあるものを異教と呼ぶ。 ---
となります。ここで125.192.181.21.氏の
キリスト教系新興宗教と言う表現は明確にPOVですね。なぜなら、ものみの塔協会自体自分たちがキリスト教だと言っているのですから。
という発言が思いだされるのですが、異端の定義は、「キリスト教としての自己認識を保ちつつ正統教義(つまり、ニカイア・コンスタンティノポリス信条)から自覚的に逸脱するもの」であり、「この中にあって」という記述に引きずられないで、アリウス派的な教理から考えて異端そのものです。ただし、異端だと考えているのは「伝統的キリスト教徒」の側であり、エホバの証人、すなわちものみの塔冊子協会の会員は、125.192.181.21.氏が言うように、自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の使信を忠実につたえているという認識です。なお、アリウス派ないしは、アリウス派に近い立場というのは、「伝統的キリスト教徒」の立場からすれば、基本信条から外れているのですから、わざわざ、(もしくは「伝統的キリスト教を擁護する立場」)との言い換えは不要です。よって冒頭部分は下記のようになります。

エホバの証人とは、(チャールズ・T・ラッセルがピッツバーグ市に開いた聖書研究グループが教団化した)「ものみの塔聖書冊子協会」の会員ないし信者のことをいい、しばしば、「ものみの塔聖書冊子協会」の会員を集合的に指す場合の呼称である。宗教学上は、キリスト教の一派とみな[or「広義のキリスト教」に分類]されることもあるが、そのキリストの再臨や終末論の強調から千年王国運動の系譜を引く新宗教とみなされている。また、ニカイア・コンスタンティノポリス信条及び三位一体を否定(し、イエス・キリストを被造物と)する教理などから、伝統的キリスト教徒からは異端であるとされるが、エホバの証人の立場は、自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の使信を忠実につたえていると信じている。

または、

エホバの証人とは、(チャールズ・T・ラッセルがピッツバーグ市に開いた聖書研究グループが教団化した)「ものみの塔聖書冊子協会の会員ないし信者のことをいい、しばしば、ものみの塔聖書冊子協会の会員を集合的に指す場合の呼称である。宗教学上は、キリスト教の一派とみな[or「広義のキリスト教」に分類]されたり、キリストの再臨や終末論の強調から千年王国運動の系譜を引く新宗教とみなされている。また、ニカイア・コンスタンティノポリス信条及び三位一体を否定(し、イエス・キリストを被造物と)する教理などから、伝統的キリスト教徒からは異端であるとされるが、エホバの証人の立場は、いまや新世界訳聖書という最も適した翻訳を持っている自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の使信を忠実につたえているという認識をもっている。

  • (注)()は省略可能部分、[or ]は、入れ替え可能部分。

書いていてRigelさんが以前提案したように「ものみの塔聖書冊子協会」と「エホバの証人」を分割するか「ものみの塔聖書冊子協会」に改名する必要がある気がしてきました。というのは、百科辞典類が教団名を項目にしているからです。 Siyajkak 2007年7月5日 (木) 09:08 (UTC)---一部加筆及び修正Siyajkak 2007年7月5日 (木) 17:26 (UTC)

なるほど~(詳細な調査、ご苦労様です)。
この中」とは「伝統宗教としてのキリスト教内部」なんでしょうね。この点は完全に私の読み違えだったようです。ところで、その「教団名」が何なのか?というと、信者自身であっても分からないと思います。この点、私はノート:ものみの塔聖書冊子協会にある Hasec さんの「そもそも、この教団に、「教団」としての正式名称があるのでしょうか?」という発言と意見を同じにします。「ものみの塔聖書冊子協会」が単なる一法人に過ぎないのも確かなのですが、「エホバの証人」が教団名、もしくはグループ名なのかというと、…

  • 私はエホバの証人です o
  • 私達はエホバの証人です o
  • 私はエホバの証人の信者です x
  • 私達はエホバの証人の信者です x

やはり違うと思うのです。他、

  • ものみの塔聖書冊子協会の会員ないし信者のことをいい
    「協会」という言葉が本来持つ意味からすると、「会員」などはなるほどと思うのですが、「…協会の会員」、「…協会の信者」と呼ばれることに対する反論が現役信者から起こるような予感があります(違和感を覚える表現ですので)。編集合戦を招かないためにもこうした表現は出来る限り避けるべきかと思います。
  • 「広義のキリスト教」
    元々は私の提案ですが、Google で検索をかけたところ、最初は「約 731 件」とあったのが、次の検索結果を表示すると17件にまで激減してしまいました。うち2つは Wikipedia 自身の記事で、そのクローンも5件含まれるため、あまり一般的な呼称ではないようです。また、そのうちの1つは内村鑑三氏への言及であり、その文脈からすると、単に「伝統=狭義、他=広義」という分類用語ではなく、「キリスト教への固執=狭義、他宗教への寛容=広義」という思想的な意味合いを含んだ語であるようです。もしこうした定義が本当に存在するのであれば、軽々しく用いるべきではないように思います。
  • 伝統的キリスト教徒からは異端であるとされるが
    「教徒」=「信者」なので、このように断定調で用いるならば、もう少し表現に工夫が必要かと思われます。
  • 新世界訳聖書という最も適した翻訳を持っている
    「最も適した翻訳」とみなしているわけではないでしょう(大半は。一部、そう勘違いしている信者もいるであろう可能性については否定しません)し、新世界訳を用いなくとも宣教する際に困ることはないでしょう。

また、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の記事から分かることというのは、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」と「三位一体を信じていることを表明すること」は実質的に同一である、ということです。なので、「及び」(and)と表現して両者を別々のものであるかのように表すのはちょっと変です。

エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者、その一人ひとりを指す呼称。信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。宗教学上はキリスト教の一教派、もしくはキリストの再臨や終末論など教理的特長の類似から、千年王国運動の系譜を引く新宗教に分類される。
三位一体を否定し、キリスト教諸教派では最もアリウス派の解釈に近いとされる。このため、伝統的キリスト教会の定義に従うならば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになるが、彼ら自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。

細部の表現等もまとめて修正すると、こんな感じになります。↑は昨夜のうちに書き上げていたのですが、色々と調べ物をしているうちにこんな時間になってしまいました。C.T.ラッセルへの言及を含むと冗長な文章となってしまうと感じます。Rigel 2007年7月6日 (金) 09:44 (UTC)

コメントありがとうございます。当初から考えると的確な定義に仕上がってきて感動しています。お疲れ様です。わたし自身も「広義のキリスト教」と使うのは、首を傾げていましたので(実はRigelさんの記述を極端にいじりすぎた反省。)、ご自身で調査されて訂正されたことに敬意を表するとともに胸をなでおろしています。一方で、「教派」という語句ですが、宗教学上では、厳密な教理まではつきつめないため教派だろうと一派だろうと一緒くたでしょうから、教理的な性格が著しく異なることから「一派」くらいにしたいですね。また「伝統的キリスト教徒」というのも、Rigelさんの記述を尊重しようと意識しただけなので、「~教会」とされるならそのほうがいいです。
>また、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の記事から分かることというのは、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」と「三位一体を信じていることを表明すること」は実質的に同一である、ということです。なので、「及び」(and)と表現して両者を別々のものであるかのように表すのはちょっと変です。
これはおっしゃるとおりです。ちょっと安易でしたね。ただ定義なり教理的になにを根拠としているか挙げてみたかったということなので異論ありません。
>C.T.ラッセルへの言及を含むと冗長な文章となってしまうと感じます。
これもそう思いながらもラッセルの聖書研究会がもとになったと書いている辞典類の記述にならってみたものなので、省略可能を想定した()でくくってみました。冗長なら、ないほうがよいと思います。
ところで、
>三位一体を否定し、キリスト教諸教派では最もアリウス派の解釈に近いとされる。
についてですが、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白する宗教集団」こそが、伝統的なすべてのキリスト教会を包括する定義(いや本当に簡潔で的確な定義だ...)であるため、「キリスト教諸教派」でアリウス派ないしはアリウス派に近い立場というのは存在しないはずなので、「キリスト教諸教派」を「教理的に」に訂正させていただきます。(ただし、宗教学上~以下の記述には、キリスト教に属するもののように扱われるので、その趣旨を生かします。)
一方、
>伝統的キリスト教会の定義に従うならば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになるが
ですが、この「定義」は、教理じゃないかと一瞬思いましたが、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白する宗教集団」こそが「伝統的キリスト教会」ですので、やっぱり「定義」のほうが的確であることに同意します。
また、全体的に冒頭の二行は、一緒くたになる外部の者にとっては非常にわかりやすい的確な表現で感激しました。加えて「使信」が「音信」になっているのは、エホバの証人自身の主張の部分なので「音信」のほうが的確なのかと勉強になりました。
以上のことをまとめると、
エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者、その一人ひとりを指す呼称。信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。宗教学上はキリスト教の一派、もしくはキリストの再臨や終末論など教理的特長の類似から、千年王国運動の系譜を引く新宗教に分類される。
三位一体を否定し、教理的に最もアリウス派の解釈に近いとされる。このため、伝統的キリスト教会の定義に従うならば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになるが、彼ら自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。
となります。Siyajkak 2007年7月6日 (金) 12:30 (UTC)
上記に対しての異存はありません。後は#作業分担の問題を残すのみかと思われます。Rigel 2007年7月7日 (土) 03:20 (UTC)

議論終結後の書き込み 編集

エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者・・・なんというPOVな記述、あきれてものが言えませんね。エホバの証人が三位一体を受け入れていないのは、いわゆる「伝統的なキリスト教会」と解釈が違うからではないでしょう。いわゆる「伝統的なキリスト教会」が聖書よりも人間の哲学・伝統を重視しているからです。(マタイ15:3-9)上記の主張はいわゆる「正統派の」キリスト教会が自分たちの罪を言い逃れるための口実にすぎません。「正統派の」キリスト教会が受け入れている「三位一体」、「十字架崇拝」、「聖母マリア崇拝」、「クリスマス」、「復活祭」…など、聖書に書かれていないばかりか、聖書の教理と矛盾するでしょう。逆に聖書と調和する(聖書解釈である)というのなら、該当聖句を示して欲しいですね。125.193.23.145 2007年12月3日 (月) 04:11 (UTC)
逆に聞きますが教団のテキストや印刷物に一切頼らないで、「「三位一体」、「クリスマス」、「復活祭」…など、聖書に書かれていないばかりか、聖書の教理と矛盾する」ことを証明してみてください。聖書のどこにやってはいけないと書いてありますか?
イエスは被造物で聖霊は活動力というのを教団のテキストや印刷物に一切頼らないで証明してみてください。新世界訳以外の聖書もきちんと読んで、原語と対照して考えてくださいね。三位一体についていえばエホバの証人に対する反論本は出ていますし、そんなに自信があるなら、その著者と論争してみたらいかがですか。Siyajkak 2007年12月3日 (月) 17:24 (UTC)
それは可能ですが、いかんせん私の主張をものみの塔協会の出版物と結び付けて投稿ブロックにしたがる管理人がいらっしゃるので詳細はやめておきます。125.193.23.145
三位一体について
「…すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」(コリントの信徒への手紙一11:3;聖書 新共同訳)4節以降、女は男と対等ではないと言っているのですから、キリストと神が対等であるはずはありません。そもそも、聖書正典中、聖霊が神だ(ないしは、神と対等だ)と述べられている箇所はありません。ヨハネ1章1節も聖霊が神であるとは主張していません。また、「言葉を(全能の)神(God)」とする文法が正しいとするならば、悪魔サタンも全能の「神(God)」と訳さなければならなくなります。(二コリ4:4;同上)そうすると、神とキリストと聖霊のみが一体だとする三位一体の教理は成り立ちません。
クリスマスについて
12月25日が聖書と関係ない、異教に由来するという出版物は多数発行されています。(『クリスマスの起源』(O. クルマン 著, 土岐 健治 ・湯川 郁子 訳)、『クリスマスの文化史』(若林ひとみ著)など)イエスがお生まれになったときには「羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(ルカによる福音書2:8)ので、イエスが12月にお生まれになったはずはありません。また、クリスマス・イブに行われがちな「泥酔、酒宴」は、キリスト教徒は禁止されています。(ガラテヤの信徒への手紙5:20)また、クリスマス・イブにサンタクロースが煙突からやってくると言って、子どもたちに嘘をつくこともです。(エフェソの信徒への手紙4:25)そもそも聖書中、誕生日の祝いは処刑と結び付けられています。(創世記40:20;マタイによる福音書14:6)

>それは可能ですが、いかんせん私の主張をものみの塔協会の出版物と結び付けて投稿ブロックにしたがる管理人がいらっしゃるので詳細はやめておきます。

是非行って説得され、正しい信仰を持つことをおすすめします。わたしなどが言うよりはその方がよいと思うので。ちなみに「投稿ブロックにしたがる管理人」は何をさしているのか不明ですが、あなたの編集がそれほど頻繁でないために管理者のみなさんは、今のところブロック対象とはしていないということです。あまり頻繁に同じ傾向の編集を繰り返すとわかりませんが。

ほかの時にも伝道はしますが、別に伝道の機会にクリスマスを用いてまずい理由なんかありませんが?それじゃあ、それからエホバの証人以外で、クリスマス・イブに「泥酔、酒宴」をしているか他のキリスト教会へ行って確認したことがありますか?おそらく情報統制されて教団以外の印刷物を読まないように洗脳されているというのが事実であることをあなたの記述からひしひし感じますが。

>また、クリスマス・イブにサンタクロースが煙突からやってくると言って、子どもたちに嘘をつくこともです。


だれがうそをついているんですか?子どもの夢をかなえるために普通の人がしていることを否定しなくったっていいでしょう。もちろん、エホバの証人の方々がそのような信条を堅く守ること自体は立派なことですし、大歓迎ですが。

>そもそも聖書中、誕生日の祝いは処刑と結び付けられています。(創世記40:20;マタイによる福音書14:6)

おそらく世界中の牧師が失笑を抑えるのにたいへんだと思います。マタイの記述は、ヘロデの誕生日にヨハネを恨んでいたヘロデヤが娘にたまたまヨハネの処刑した首を持ってこさせたというエピソードの記述であって、それをもって誕生日が処刑と結びつくので避けるようにと聖書は教えているのではありません。前後の文脈を読めばはっきりしていますが...。創世記の記述にしても、王の誕生日の宴会を開くのが目的なのであって、給仕役と調理役のどちらかを処刑するのが目的じゃないでしょう。統治体や新世界訳の底本である英訳聖書が前提にあるので、考え方が本末転倒です。---Siyajkak 2007年12月23日 (日) 11:52 (UTC)---加筆Siyajkak 2007年12月23日 (日) 21:02 (UTC)

復活祭について
これは『カトリック百科事典』自体が異教に由来すると言ってますし、そもそも聖書正典のなかにイエスの復活を祝ったとする記述はありません。
イエスの被造物性
「御子(=イエス・キリスト)は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(コロサイの信徒への手紙1:15)御子は「生まれた」とありので初めのある方です。これに対して、エホバ神は初めのない方です。(ヨハネの黙示録4:10)
聖霊
「…イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった」(マタイによる福音書3章16節)パウロは後に、この時イエスに降った「神の霊」が聖霊だったと述べています。(使徒言行録10:38)よって聖霊は神の霊であり、人格的なものではありません。確かに、聖書は聖霊を人格的に表現している箇所がありますが(ヨハネによる福音書14:26)、これは擬人法と取るべきです。第一、聖霊と神、または聖霊とキリストが同等であると述べている箇所はなく、むしろ「イエスより聖霊の方が偉大である」(マタイ12:32)、「イエスより御父の方が偉大である」(ヨハネ14:28)と聖書は教えています。125.193.23.145

これは、表面の記事の記述にしませんか。せっかく知識があるのにもったいないです。---Siyajkak 2007年12月23日 (日) 11:52 (UTC)

見解の相違をなぜ記述するか 編集

>さらに気になったのですが、「エホバの証人の見解は~」、「部外者の見解は~」と言っておられますが、そもそもWikipediaは「百科事典」だと言うことをご理解いただいているのでしょうか?百科事典は見解を書くところではないと思いますが、いかがでしょう?
>いずれにしてもWikipediaというのは百科事典なので事実を書く所であって、個人の見解を書く所ではないのではないか、というのが持論です。


後者に至っては巧妙な論理意見のすり替えですが、前者も学問をする者としては放置できない聞き捨てならない発言ですので、マヤ文明研究を例に反論させていただきます。

新しい考古学と古代マヤ文明のレビューをお読みいただければわかるように、いまだに日本の中では、マヤ文明について、「世界史上、神秘でユニークな謎の文明」「暦と儀礼に熱中していた文明」というイメージのみが一人歩きしているようですが、最近の研究では、普通に権力闘争がおこなわれ、戦争も行なわれたことがわかっています。コパンの祭壇Qは、天文学者の会議を描いたといわれていましたが、776年に神殿16の完成を祝いつつ、コパン王朝の権威を再確認させるためのものであったことがわかっています。祭壇の側面には初代のキニチ・ヤシュ・クック・モーから16代目のヤシュ・パサフに至るまでの16代の王の姿が刻まれ、ヤシュ・パサフの即位の日付が初代ヤシュ・クック・モーとの間の空間に刻まれて、王権の象徴としての儀杖を受け取る姿が描かれています。これは研究の進展にしたがってわかってきたことですが、発掘調査をおこなわず、具体的なデータが少なく、正確な判断が不可能な場合に二つの説(見解)として同時に並び立っていたらどうでしょうか?片方だけ記述することが適切なのでしょうか?

また、 マヤ文字解読 には、アメリカの威信を守るためにエリック・トンプソンが、解読のめざましい糸口となるユーリ・クノロゾフによるマヤ文字の音節文字の発見を認めなかった経緯を書いています。トンプソンの考え方をいつまでも固執していてマヤ文明研究が進展していたでしょうか?

メソアメリカの考古学 をわたしは優れた概説書だと思っていますが、その一番大きな理由は、遺跡の記述のみならず研究者間の見解の相違を客観的に書いている点です。それで現在の研究の状況を鳥瞰的につかめるので非常にありがたいです。たとえば、マイケル・コウ、ノーマン・ハモンドという研究者の著書はその研究者の見解しか書かれない傾向があるかその研究者の見解が色濃く出てきてしまい、研究の進展は全体としてどうなっているのかどうしても見えない部分がでてしまいます。マヤ文字解読マイケル・コウがトンプソンを批判している記述は非常に参考になります。そのことから考えても教団外の見解や見方を無視して、一方的に教団の都合の良い記述(見解)のみで記事を満たそうということでは、wikipediaが単なる護教的宣伝文書になってしまいます。両論併記する場合と比較してどちらが百科事典としてふさわしいか考えるまでもありません。Siyajkak 2007年6月23日 (土) 09:45 (UTC)

記事の投稿についてはWikipedia:ウィキペディアは何でないかを参照すべきでしょう。125.192.181.21 2007年6月26日 (火) 09:20 (UTC)

はい、広告の場ではない、布教の場ではない、団体の公式サイトではないと書いてありますが...Siyajkak 2007年6月27日 (水) 17:03 (UTC)

いわゆる「正統派の」キリスト教会の見解を事実として記述する場所でもないと思いますが…125.193.23.145 2007年12月3日 (月) 04:33 (UTC)

現在の記事に対するコメント 編集

長文になりますので、独立した節として投稿します。

「教義」の項

「教義」に対応する英語は、doctrine の他、dogma も含まれるようなので、「教義」よりも「教理」(doctrine のみ)の方が良さそうです。ちなみに、『新世界約聖書』本文には「教理」の語が5回出現しますが、「教義」は0回です。

また、「特徴的な教義」とある割には、教理が何でもかんでも列挙されすぎているような気がします。「特徴的」であるならば、他のキリスト教と異なる部分だけを記述すればよいのでは?。「終わりの日」の推定等の年代計算、つまりダニエル書4章の「七つの時」、9章の「70週」、12章の「1290日」「1335日」といったあたりの解釈は、再臨派系において先行して研究が進められていた(過去形、現在は不明)はずですし、道徳上の記述に関しても、清教徒的性質を色濃く受け継ぐ教派ではごく当たり前の事柄のはずです(エホバの証人以外のキリスト教徒はすべて不道徳であると皆が考えているならば、あえて記述することに反対はしませんが)。また、「原罪」に類する説明にしても、エホバの証人のオリジナルではないのでは?。

概説すると、主要な教義と呼べるものは、(1)聖書の真実性を唱えること、(2)三位一体の否定、(3)不滅の魂の否定、といったあたりであり、その他、特徴的な教義が(4)偶像崇拝を徹底的に避ける、(5)政治的中立、(6)非暴力、(7)輸血拒否。関連して、(1)創造論の支持、(2)父、子、聖霊について、(3)天国と地獄、復活について、(4)十字架、国歌斉唱・国旗敬礼、(5)法律の可能な限りな遵守、(6)兵役拒否、格闘技・護身術に対する見解、となり、その他ざっと見渡した感じ、クリスマスに関して、浸礼式のバプテスマ、簡単な臨在の説明(1914年の説明もここで)、称号を用いないこと … 記述するのはこれくらいで十分でしょう。

以下、個別のコメント:

  • 神は愛である
    う~ん、こうしたものが本当に「特徴的な教義」なのか?。
  • 新約聖書をギリシャ語聖書と呼ぶ
    不正確。「ギリシャ語聖書」では『七十人訳』等、他のギリシャ語訳聖書との区別がつかないため、書籍中では必ず「クリスチャン・ギリシャ語聖書」という長い呼称を用いているはず用いることが圧倒的に多いのです。が、この呼び名を強要しているわけでもなければ教理でもなく、不要な情報。 - 2007年6月29日 (金) 12:50 (UTC)修正
  • エホバと翻訳して用いている
    これも教理ではない。が、別項にて言語毎に異なる点を解説しても良いかも(ヤハウェである言語も存在する/『ふれ告げる人々』のどこかに一覧あり)。
  • 「年長者(長老)」と呼ばれる。彼らは「監督」とも呼ばれ
    「兄弟」としか呼ばないので説明が変。立場を説明するために長老であることを紹介することはあるが、「長老」と呼びかけることはない。「年長者」、「監督」も同様で、この語を用いているのは、雑誌・書籍の記事中において、対応する聖句と共に説明するような場合のみ。そもそも教理ではないし、エホバの証人の組織構造という別記事が存在するので不要な説明。
  • バプテスマを受けることにより、正式なエホバの証人となり、男性は「兄弟」、女性は「姉妹」と呼ばれる。
    現在、「兄弟・姉妹」と呼ばれることとバプテスマとの間には関連性がなく、10年以上前の古い情報(「王国宣教」96年4月号の質問箱)。また、全文にわたって教理とは呼べない内容。
  • 黙示録の大いなるバビロンはキリスト教世界 … 異端的教派と扱われている。
    不正確。「大いなるバビロン」は仏教、イスラム教など他の全ての宗教を包含していると解説しているはず。ただし、『聖書』という知識(真理)を授けられたが故に、その意味をねじ曲げて伝えてきたキリスト教系宗教の功罪が最も大きいと解説する。また、「異端的教派と扱われている」ではかなり変(要出典、公文書において「扱われている」事の証明)で、「伝統的キリスト教からは異端視される事が多い」くらいの表現であれば問題を感じない(実際問題として、エホバの証人に友好的に接する伝統的キリスト教の神父・牧師クラスの人物も少なからず存在するので)。もっとも、「異端」という言葉をこのようして無理やり「教義」に付け加えるのではなく、別項にて(POVに気をつけながら)堂々と記述すれば良いものと思われる。
「慣習」の項
新しい参加者は歓迎される。」の一文は不要でしょう。記述が禁止されている「宣伝」に該当する畏れあり。また、「最低月に一回は宣教活動に参加することが求められている」も多分嘘。英語版の古い版(今は記述が存在しない模様)によれば、毎月の「王国宣教」に掲載される伝道者としてカウントされるためには、毎月?時間の奉仕時間が求められる、との記述があったと記憶しています(つまり求められるのは回数ではなく時間であり、「カウント」というところもミソ)。「近年、宣教奉仕ではなるべく新世界訳聖書から証言することが強く勧められている。」の部分については聞いたことがありません(要出典、『新世界訳』ではなく「相手の望む訳」のはずだったのですが、いつの間に方針が正反対に変わってしまったのか?)。「交わり」への言及も不要でしょう。王国会館の記事と被る部分も多く、項目全体が不要と思われる。
「起源と歴史」の項
  • 「エホバの証人…」 … という名称を採択した。
    「オハイオ州シーダーポイントの大会において会場の満場一致で採択され、その後、世界各国で開かれた他の大会もこれに追随…」というのが定説だと思うのですが、現在の文面ではラザフォードの独断で採択されたという意味に受け取れます(要修正)。
  • フレデリック・ウイリアム・フランズ … 組織内の粛正に努めた。
    で、その「粛清」とやらでいったい何十人の犠牲者が出たのですか?。たった一人が排斥されただけでも「粛正に努めた」という表現が妥当なのでしょうか?。もしくは、広島会衆の「粛清」は同会長の指示によるのでしょうか?。そもそも「排斥」との説明が正しいならば、普通は「粛清」とは呼ばないでしょう。この表現はPOVかと思われますし、広島会衆の記述についても地域POV以外の何物でもないでしょう。
  • ヘンシェルが5代会長に就任する … 文字通り一「世代」のうちにハルマゲドンが来るとの教義に変更が加えられた。
    それは1985年ではなく、1992年から2003年の間のことなのでしょうか?。 - 失礼、85年ではなく95年(『ものみの塔』1995年11月1日号の「読者からの質問」)なので合ってます。
  • ドン・A・アダムズが会長に就任し、今に至る。
    (CEOではなく)「会長」なのでしょうか?。
  • 信徒数は650万人ほどである。
    そもそも「信徒」とは、どこからどの段階までの人のことなのでしょう?。「バプテスマを受けていない伝道者」は信徒でしょうか?。伝道者ではないものの「エホバの証人を自認する者」は信徒でしょうか?。私の感覚では両者とも「信徒」になるのですが、650万人という数には後者は含まれていません。表現としては「伝道者数」が適切です。
「日本での活動」の項
  • (キリスト教系の団体ではカトリックに次いで第2位と公称)
    「第2位と公称」していたとは知りませんでした(要出典)。また、全体的な内容としても、「エホバの証人」ではなく「ものみの塔聖書冊子協会」側で扱うべき話題かと。
「社会的側面」の項

全体的に地域POV(日本偏向)的要素が目立ち、内容もゴシップ的なものが多いようなので、編集よりも項目の取捨選択に関する協議をまず優先させるべきかと。過去ログ化されてしまいましたが、「社会との摩擦」という表記を再度推します。その際、もし『パーフェクトワールド』等の記述が必要であるならば、「(仮)エホバの証人が扱われている作品」等の別項目へ移設すると良いでしょう。

  • 特に宗教を理由として、非信者の家族から離婚請求訴訟を起こされることがある。(信者側は原則離婚を認めていない)。
    嘘。裁判で争われるというその状況こそが異常であるといえます。以前にも説明したので繰り返しになりますが、未信者の配偶者から離婚を迫られた場合、その求めに応じるのが普通なのです(コリント第一 7:15)。ですので、エホバの証人の特徴である、集会に参加すること、伝道活動を行うこと等に代表される活動を原因として「家庭を顧みない」と言われるのは仕方の無いことですし、そのことから離婚を要求するような過激な反応を示す未信者も存在するのも事実です。さらには一部、聖書の原則というものをよく知らないがために、離婚に反対するという無知な信者もいることでしょう。しかし、こうした裁判の原因がエホバの証人の教理にあるかのような、この書き方はいただけません。そもそも、離婚を突きつけられた当事者である証人が教理をきちんと理解していたならば、唯々諾々と相手の求めに応じるはずであり、離婚請求訴訟など起こりようはずもないのですから。それでも、これはエホバの証人の社会的側面と呼ぶべきものなのでしょうか?。
  • 伝道活動(布教)に専念するため、
    地域POV。あくまで日本の傾向であり、海外では事情が異なる。日本における開拓奉仕への参加動向(全伝道者の1/3~1/4ほど)というのは、世界的な傾向と比べるとかなり高い数値であると言われます。そのあたりの歪みから生まれたのであろう日本独自の傾向もまた、当然ながら地域POVです。
  • フランスにおいては、
    これも「ものみの塔聖書冊子協会」側で扱った方が良い話題かと。

前回はあえて書かなかったのですが、「エホバの証人」とは信者一人ひとりを表す言葉です(ですので、例えば「エホバの証人の信者」という表現には違和感を覚えます)。ローマ・カトリックに例えるなら、「ものみの塔聖書冊子協会」に対応するのが「カトリック教会」で、「エホバの証人」に対応するのが「カトリック教徒」になります(加えると、「統治体」が「ローマ教皇庁」といった感じ)。なので、エホバの証人は新約聖書のヘブライ人への手紙11章に名前が挙げられている人物すべてを「エホバの証人」であるとするのみならず、イエス・キリストでさえも「エホバの証人」の一人であると主張しています。こちらの記事では教義に関する内容を、「ものみの塔聖書冊子協会」の記事では組織に関する内容を、と分離することを前回提案した背景には、こうした理由があるのです。Rigel 2007年6月22日 (金) 14:36 (UTC)

「エホバの証人」とは信者一人ひとりを表す言葉です→本当にそうですか?「エホバの証人の~会衆」という場合は明らかにグループ名として用いていると思いますが・・・。ローマ・カトリックにたとえるなら、「ものみの塔聖書冊子協会」に対応するのが「バチカン」で、「エホバの証人」に対応するのが「カトリック教会」にあたるのではないかと・・・。125.195.29.225 2007年6月23日 (土) 13:14 (UTC)
そりゃ「~会衆」と表現すればグループ名になるでしょう。何の不思議もありませんが?。Rigel 2007年6月23日 (土) 14:43 (UTC)
コメントありがとうございます。いままでわからなかった部分が見えてくる気がします。
>イエス・キリストでさえも「エホバの証人」の一人であると主張しています。
は、教団内部の新世界訳聖書の記述でしょうか?それなら、新約聖書は新世界訳だけではないのですから
>新世界訳聖書の訳文では、「イエス・キリストでさえも「エホバの証人」の一人であると主張している」と書かれている。
とか留保しないと表現としては問題だと思います。
それから
教団外では、「ものみの塔聖書冊子協会」そのものも「エホバの証人」と呼ぶが、実際には、「ものみの塔聖書冊子協会」の会員?信者?が「エホバの証人」であって、教団と信者を混同して呼ぶ場合がある、
とか書かないとたしかに一緒になってしまいます。実際、わたしも無意識的に一緒くたになっていました。Siyajkak 2007年6月23日 (土) 10:49 (UTC)
イエス・キリストでさえも「エホバの証人」の一人であると主張している:啓示(黙示録)1章5節;3章14節のことですかね?神の「忠実な証人」とは言われていますが、「エホバの証人」とは(直接的には)書かれていませんが・・・125.195.29.225 2007年6月23日 (土) 13:14 (UTC)

イエスを「エホバの証人」の一人であるとする根拠に用いられるのは黙示録の1章5節であり、その聖句の解説として雑誌や書籍中でそう書かれることがある、という意味です。つまり、『新世界訳』そのものが誤解を招くような変わった訳出をしているわけではありません。『新世界訳』のその節には「忠実な証人」、「イエス・キリスト」の語が認められますが、それは『口語訳』においても全く同一ですので。

明確にそう記しているものとして、『ものみの塔』誌の71年3月15日号179ページ、73年4月1日号223ページ、76年2月1日号86ページ、80年6月1日号17ページ、90年1月1日号12ページ、『ふれ告げる人々』19ページなどがあります。他、あまり明確な表現とはいえないものの、現状で安易に入手可能な書籍として、『永遠の命に導く知識』94ページの記述がそれにあたります。Rigel 2007年6月23日 (土) 14:43 (UTC)

もう一点加えます。「起源と歴史」の項ですが、これは各時代毎の「会長」を中心として記述されていますが、彼らは「ものみの塔聖書冊子協会の会長」であって、「エホバの証人の会長」ではありません。この項目も「ものみの塔聖書冊子協会」側で記述すべきかと。「エホバの証人の起源と歴史」と言った場合には、アベル(アダムの息子)から書き始めなければならなくなりますので…。Rigel 2007年6月29日 (金) 12:50 (UTC)

↑に同意です。ものみの塔協会の会長はエホバの証人の代表者ではありませんし、宗教上の尊師でも指導者ではありません。1941年、アメリカのミズーリ州セントルイスの大会でラザフォードがエホバの証人の指導者ではない、と言う決議をしたほどです。また、エホバの証人の見解の変更はものみの塔協会の会長とは無関係です。60.239.102.209 2007年6月29日 (金) 14:09 (UTC)

節の趣旨とは異なりますが本文中に不適切な書き込みを誤操作で行ってしまいました。ただちに差し戻しました。Siyajkak 2007年12月8日 (土) 08:59 (UTC)

提案というか… 編集

なぜ編集合戦が起こるのか、その点を認識していない人が多すぎるように感じます。もう一年以上前、削除された編集履歴のうちの出来事なのですが、中立性のかけらもない記述を多く書き加えながら、その記述を削除して回る者のことを「荒らし」と呼ぶ人がいました。結局両者の編集は短期間のうちに無意味な履歴を量産したのですが、私に言わせれば「荒らし」という点ではどちらも同じです。

エホバの証人の現役信者の方々に言っておきます。編集合戦に参加することはあなた方の益にはなりません。編集合戦とは無価値な編集の積み重ねの履歴に過ぎず、ウィキペディアという編集空間を善意で提供して下さる財団に対する背信行為以外の何物でもありません。つまりそれは、あなた方を「道理をわきまえない者」とみなす根拠になりこそすれ、「道理をわきまえた者」であることを立証することはならないからです。

どうしても編集したいのであれば、それは週一回程度に留めておくと良いでしょう。反対者による無秩序ぶりがいよいよ酷くなれば、中立の第三者が立ち上がってくれるかも知れません。が、あなた方が編集合戦に参加している現状ではそれは望むべくもないでしょう。

ちなみに、英語版にはかなり以前よりエホバの証人のプロジェクトが存在する(en:Wikipedia:WikiProject Jehovah's Witnesses)のですが、まだ参加者が10人にも満たなかった当時、そのノートでの議論をざっと見たところ、プロジェクトの初期参加者達は、皆エホバの証人ではないらしいということだけは分かりました。Rigel 2007年6月22日 (金) 14:36 (UTC)

↑それは問題ではないのでは…。Wikipediaは万人が参加できるプロジェクトのはず…125.195.29.225 
ウィキプロジェクト(WikiProject)というのは、特定の分野毎に記述のルールを話し合ったり、問題解決のために協議したりするための場であり、様々な種類があります(Category:ウィキプロジェクト参照)。で、この場合はプロジェクトの参加者が中立的な第三者であることに意義があり、編集上の対立が発生した場合に、その仲裁者としての役割を期待できるのです(よほど出来た人間でなければ反目する相手の見解に直接聞く耳もたないでしょうから、陪審員的な役割もしくはクッション的な役割として)。ちなみに、英語版におけるそのプロジェクトは当初、他の宗教プロジェクトの類似プロジェクトとしてではなく、「問題の起こりやすい~」のような名前のプロジェクト文書の下位部門的な位置づけとして立ち上げられたもののようでした。Rigel 2007年6月23日 (土) 14:43 (UTC)
>中立性のかけらもない記述を多く書き加えながら、その記述を削除して回る者のことを「荒らし」と呼ぶ人がいました。結局両者の編集は短期間のうちに無意味な履歴を量産したのですが、私に言わせれば「荒らし」という点ではどちらも同じです。

それはちがいます。「中立性のかけらもない記述や無意味な記述、wikipediaという百科事典にそぐわない記述その他の行為」をする者を荒らしというのです。記述を削除する人は一般的な意味での善意の利用者です。善意の利用者が自分のできる範囲でwikipediaを守っているのです。
仮に、そのような記述を削除する人を荒らしとするとwikipeiaの管理者がそのような記述がされるのを抑えた場合に広義の荒らしとなってしまいます。管理者権限の有無でできることが違ってくるだけなので区別はありません。ただ、Rigelさんがおっしゃるように無意味な履歴が重なることを承知しながら話し合いの呼びかけをしたり保護依頼をかけたりしない場合は問題があると思います。そのようなrvフリークな利用者に対し荒らしと変わらないという評価が出てもやむをえないとは思います。Siyajkak 2007年6月23日 (土) 08:33 (UTC)--表現が誤解されかねないため一部訂正Siyajkak 2007年6月23日 (土) 11:26 (UTC)

えっと、上記の削除例ですが、問題のある記述部分のみを除去するのではなく、単位で丸ごと撤去していました。その人物が数節を数回の編集に分けて撤去し、粘着がリバートする、その繰り返しが2~3回あり記事が保護されるに至った(のだったかな?)、と記憶(というより履歴から推測)しています。もっとも、当時の内容はあまりにも酷いものだったので、節単位で削除したくなるその気持ちも分からないでもないのですが、理由の明記なく大量削除すれば普通は「荒らし」であるとみなされるでしょう(削除していたのは恐らく証人です)。で、当時中立性のかけらもない記述を大量に持ち込んだ人物が2人ほど確認できたのですが、リバートを実行して「荒らし」発言をしたのはそのうちの一人であった、ということです。Rigel 2007年6月23日 (土) 14:43 (UTC)
なるほど。一般論ではなく特殊な例ということですね。そういうことならよくわかりました。でもちょっぴり証人の方に同情します。Siyajkak 2007年6月24日 (日) 08:50 (UTC)

記事の役割分担について 編集

上記の提案を一部まとめると、現在の記事からものみの塔聖書冊子協会の記事側に移設した方が良いと思われる記述は、

「起源と歴史」の節、「日本での活動」の節、「社会的側面」のフランスに関する記述

の3つになります。また、英語版のカテゴリからは、こんな記事を発見しました。

en:Controversies regarding Jehovah's Witnesses(エホバの証人に関する論争)

ここから目に付いた項目名を拾い読みし、その内容を列挙すると、

教理の比較(Doctrinal differences)、『新世界訳』に対する批判(Theological bias:神学上の偏見)、輸血拒否に関する法的側面についての考察(Legal considerations)、外れた予測(Unfulfilled predictions)、排斥について(Treatment of members who disassociate)(レイモンド・フランズへの言及あり)、性的虐待の報告(Reporting of sexual abuse)、インターネットの使用(Internet use)(背教者、"milieu control"への言及)、国連との関わり(United Nations association)

といった感じになります。これに対応する日本語版の記事を新設するなら、今まで編集合戦の応酬が繰り広げられてきた原因とも言える様々なトピックを、このエホバの証人にとっての「正面玄関」とでも言うべき記事から排除することが可能となり、さらに英語版の記述が中立性の手本として参照可能であるため、第三者が意見しやすくなるものと思われます。Rigel 2007年7月3日 (火) 09:29 (UTC)

私はそういう記事の作成には反対です。百科事典の概念に反するので。60.239.102.209 2007年7月4日 (水) 13:48 (UTC)

Rigelさんの提案に賛成です。南京大虐殺論争という項目もありますし、論争に関する記述だけで項目が立てられます。論争に関する別項目ですから、百科事典の概念に反するどころか、鳥瞰的に論争を把握できるのでむしろwikipediaの独自性が発揮される有意義な項目です。Siyajkak 2007年7月5日 (木) 09:45 (UTC)

あと、書き忘れていたのですが、批判的な外部リンクはそちらでなら掲載できるでしょう。論争の主張の正誤そのものはエホバの証人の関知する所ではく、リンク先の内容が信頼に値するかしないかの判断をエホバの証人が行う必然性もなくなりますので。ちなみに、厳選した2~3のリンクで済ませた方が閲覧を促す効果が大きいであろう、と私などは考えるのですが、別に批判的なリンクを10~20と掲載したところで、まっとうな精神の持ち主がその全てを閲覧するとも思えず、単なる掲載者の自己満足に終わってしまう可能性が大きいでしょう。あとは彼らのやりたいようにやらせておけばいいんじゃないですか?。そんなつまらないことのために編集合戦に明け暮れるよりも、放置しておくことの方がエホバの証人への良い評価に繋がるものと私は考えます。Rigel 2007年7月6日 (金) 09:44 (UTC)

>Rigelさんへ
ものみの塔聖書冊子協会への編集確認しました。お疲れさまです。わたしのことも評価していただきありがとうございます。

>60.239.102.209さんへ
Rigelさんの気持ちがご理解いただけないことを残念におもいます。わたしは、エホバの証人etc.については、本音ではいくらでも批判(まあ、もっとひどい団体や嫌いな団体もあるので誹謗中傷まではいかないと思うので。)したい人間なので、別に記事を独立させなくてもいっこうにかまわないのです。がまんして中立的にしようとしているのでかなりストレスですが、批判しているはずがいつのまにか誹謗中傷になったら徳を立てる(、あなたがたのことばでいえば「道理をわきまえた」ですか?)ことにならないので自分も損だと思うからしないだけです。ただwikipediaの発展のためには、論争に関する項目を記事として独立させるほうがいいかなと思って賛成しているだけです。あなたがPOVを主張しながら護教的記述を繰り返す(すなわち、ちっともPOVじゃない)なら今回と同じこと(保護措置)が繰り返されるだけのことですから今の状態が好ましくないのは明らかなのですが...Siyajkak 2007年7月20日 (金) 16:22 (UTC)

わたしは、エホバの証人etc.については、本音ではいくらでも批判したい人間なので……批判しているはずがいつのまにか誹謗中傷になったら徳を立てることにならないので自分も損だと思うからしないだけです。
本音が出ましたね。要はこの記事をエホバの証人の批評記事にしたいんでしょう。Wikipediaが『百科事典』であることをお忘れなく…125.193.23.145

本音ですが。「批判しているはずがいつのまにか誹謗中傷に」ならないようにしているのだから何の支障もないでしょう。Wikipediaは、百科事典であって、特定宗教団体の広告の場や布教の場ではないことお忘れなく...Siyajkak 2008年1月5日 (土) 04:53 (UTC)

さらに具体的には 編集

このノートの現在の内容全て当てはめると、記事の大々的な再編成が必要になるのですが、それをだれが実行するのかを決めておいた方が良いです。これはエホバの証人であれば誰でも行うことが可能でしょう(Memphis19氏、Rantaro氏、それに恐らくは220.157.195.42氏も)。エホバの証人でない人には(特に「教理」の部分を体系的に整理する作業など)ちょっと荷が重いのでは?とは思うのですが、エホバの証人やその反対者が実行するよりも、中立的な第三者が行った方が、後々の禍根を残さずに済むことも確かです。上記議論の参加者のうち、中立的な第三者であると思われるのは Siyajkak さんのみですが、作業が大変なのが判っているだけに、議論への参加という点のみで、彼にその任を押し付けるようなことはしたくはありませんので、井戸端(「告知」の方)に話題を振っておきます(果たして「火中の栗」を拾う人は現れるのであろうか?)。

それを誰が行うにせよ…、その他、説明が不十分であると思われる事柄を記しておきます。「社会的側面」の節を「社会との摩擦」と名称変更する提案についてですが、世界的な傾向としてこれに該当するのは「兵役拒否」、「輸血拒否」くらいです。歴史的な観点からは「国旗敬礼、国歌斉唱」についても言及できるかもしれません。他、「葬儀への不参加」も問題が発生しやすいので記述できるでしょうし、神戸高専剣道実技拒否事件についても簡単に触れられるでしょう(詳述は不要)。「親権」に関しては争われる事情や裁判結果等が様々なので、「エホバの証人絡みの最高裁訴訟事件」にて扱う程度で良いかもしれません(というかあくまで「家庭」の問題であり「社会」の問題ではないとも思う)。その他、大きな問題として取り上げられたとの報告を目にしたことがない、「選挙」、「端午の節句や七夕の類」等の記述などについては、いちいち触れる必要などないものと思われます。もし、どうしても取り上げるのであれば、それは「教理」の節で関連性の高い記述に併記すべき事柄です。「クリスマス」も教義の節と重複するので不要。また、「婚前交渉」等の記述は百科事典的ではないでしょう。これは完全にゴシップであり、記事(「百科事典」)の質を下げる以外の効果をもたらさないものと考えます。

あとは、「輸血拒否」の記述をする際のヒントですが、それが大きな問題とされるのは「命を軽視している」とみなされるからです。なので、「必ずしも命を軽視しているわけではない」ことを説明するために、「堕胎」についての見解を併記すると良いです。

『パーフェクトワールド』と『NHKにようこそ!』はen:Jehovah's Witnesses in popular culture(大衆作品中のエホバの証人)が対応しそうです。

「関連項目」ですが、「新世界訳聖書」(「協会」側からリンクするのが適切)を外して「ものみの塔聖書冊子協会」を加えた方が良いと思います。「協会」へのリンクがどこにもない?…と思ったら、「脚注」の節にありました(とっても分かり難いです)。もしくは冒頭で、「組織に関する事柄は…を参照」という形にすることも考えられます。

「エホバの証人に関する論争」の記事ですが、これはPOVな記述であふれ返って収拾が付かなくなる前に、英訳してしまった方が良いと思います。長文なので時間は掛かるでしょうが、英訳自体はそれほど難しい作業ではないはずです。

それぞれの作業開始時期ですが、「エホバの証人に関する論争」の翻訳はすぐにでも開始可能。「大衆作品中のエホバの証人」についても、翻訳する・しないに関わらず作成可能でしょう。記事内容の「ものみの塔聖書冊子協会」への移設については、今から反対意見が出るかもしれないので、早くても今(井戸端への掲載)から一週間後、できればこの記事が保護解除(7/20)される前の方が履歴保全の観点から望ましいものと思います。

他、「エホバの証人とホロコースト」ですが、記事名がen:Persecution of Jehovah's Witnesses(エホバの証人への迫害)に変わっており、20世紀前半のアメリカの記述が加えられています。記事名としても確かにこの方が宣伝色が薄くなるかと思われます。

最後になりますが、Rantaro 氏(福岡県のIP)は過去に無期限ブロックを受けた(利用者:K.M.)経緯があり、彼の扱いについてはコミュニティの判断に任せます(徹底的に範囲ブロックで対応するのか、著作権侵害の投稿さえしないのであれば見逃すのか)。ちなみに私の見立てでは、要約欄の用い方から推察するに、Memphis19 氏と Rantaro 氏は別人であろうと思われます。が、Memphis19 氏はこの記事が保護されたとたんに出現しなくなってしまいましたので、彼に荷を負わせる決定をするのは非現実的な考えであることも指摘しておきます。Rigel 2007年7月3日 (火) 09:29 (UTC)

Rantaro氏とK.M.氏が同一だと言う証拠がどこにあるのですか?何の根拠もなく徹底的に範囲ブロックするのはWikipediaの倫理に反しますよ。60.239.102.209 2007年7月4日 (水) 13:48 (UTC)

何を今更そんな説明を(しかも本人が)求めるのかと呆れかえってしまいますが、K.M.氏と英語版のRantaro氏の同一性については61.22.157.95氏の投稿記録と英語版のRantaro氏の投稿記録とのシンクロ性から明白なうえ、その初投稿はen:User talk:K.M.のメッセージ消去なので疑いようもありません。日本語版のRantaro氏も、その執筆対象記事がエホバの証人関連に偏っていますので、英語版と同一人物であると考えられるのです。

あなたは61.22.157.95氏とK.M.氏の同一性に疑問を投げかけているのかもしれませんが、K.M.氏の著作権侵害案件に関わった人物で、この両者の同一性を信じない人はまずいません。英語版の利用者ページでは友人であると名乗ってはいますが、別人であることを証明するには別々のIPで主張する必要があるのに、たった一人で、しかも同一プロバイダ利用者が主張したところで何の意味もありませんし、投稿に際して同じ癖を持っていることへの反論としては極めて不十分なのです。

それに、「キリスト教系」との表現に異を唱えたのはK.M.氏であって、Rantaro氏ではありません。従って、なぜRantaro氏であるはずのあなたが「キリスト教系」との表現に反対するのか、その理由が不明でもあるのです。

また、仮にあなたがRantaro氏本人でないとするならば、あなたはノート:エホバの証人とホロコーストにおける3年ほど前の他者(61.22.157.95氏)の発言に書き加えたことになるわけで、この場合のあなたに対するブロックは「不可避なもの」であると言えるでしょう。もういい加減、こうした悪あがきはやめたらどうですか?(リソースの無駄遣いでしかないので)。これ以上続けるのであれば、私自身の手でブロック依頼を提出することになるでしょう。Rigel 2007年7月6日 (金) 09:44 (UTC)

↑すみません。私は最近ネットを始めたばかりなのでRantaroなる人物と同一であることはありえないのですが…。いずれにしても、貴殿の発言は個人攻撃に当たると思いますが・・・。もし、投稿内容に問題があるなら、各人のノートで指摘するべきで、こういう箇所での発言はあなたの管理人としての資格に傷をつけるものと思われます。60.239.102.209 2007年7月8日 (日) 13:18 (UTC)


作業分担 編集

「エホバの証人に関する論争」の翻訳は私が担当しましょう(誰もやりたがらないと思いますので)。記事内容の「ものみの塔聖書冊子協会」への移設についても、7/15(日)までに誰も手をつけないようであれば、私が実行します。残るこの記事の再編成ですが、保護解除が 7/21(土) 15:36(日本時間の22日0:36)なので、7/20日(金)までに立候補者が現れないようであれば、甚だ不本意ながらも私が実行することになるでしょう。Rigel 2007年7月7日 (土) 03:20 (UTC)

Bad interwiki link 編集

Hello,

can somebody please remove the wrong interwiki link to ko:여호와의 증인? The page is protected. --87.189.57.180 2007年9月7日 (金) 01:04 (UTC)

Hi User:87.189.57.180, the interwiki link to ko:여호와의 증인 (Yeohowa ui jeungin: Korean article about Jehovah's Witnesses) seems not wrong. And the Korean page is found not protected. What do you mean by that request? I don't think the link should be removed. --210.159.242.7 2007年9月7日 (金) 15:52 (UTC) / modified: 210.159.242.7 2007年9月7日 (金) 17:03 (UTC)

POV 編集

'エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者、その一人ひとりを指す呼称。' 明らかにカトリック・プロテスタント信者による偏見に満ちたPOV表現なので削除。202.33.176.27 2007年12月2日 (日) 05:16 (UTC)

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