ノート:沢田研二
この記事は2018年10月10日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、版指定削除となりました。 |
この項目では存命人物を扱っているため、公式方針である存命人物の伝記を厳守する必要があります。訴訟になりそうな記述については、出典が明記されていなかったり、信頼性に乏しい情報源を出典としている場合、直ちに除去しなければなりません。{{要出典}}や{{要検証}}などのタグを貼るなどして記述の出典を求める行為は、このケースにおいては間違った対応です。そのような記述を残したままにしないでください。名誉毀損のおそれのある記述については特にこれが強く当てはまります。 |
この「沢田研二」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2006年1月18日 | 秀逸な記事の選考 | 不通過 |
ここは記事「沢田研二」の改善を目的とした議論用ノートページです。 |
出典検索?: "沢田研二" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · ジャパンサーチ · dlib.jp · ウィキペディア図書館 |
舞台
編集この人は舞台やってないんですか?春団冶見たのに書いてなかったので・・・・--さらさら 2008年10月12日 (日) 16:30 (UTC)
出演したドラマって風呂屋のドラマがあったよね?郷ひろみさんや堺正章さんが出ていて、樹林さんが「ジュリー」って叫んでた。時々出ていたと思うのですが。[[利用者:Mik--さらさら 2008年10月12日 (日) 16:30 (UTC)etsukunibito|Miketsukunibito]] 2004年10月3日 (日) 13:54 (UTC)
- 「時間ですよ」と言うタイトルでありました。目蒲東急之介 2006年1月18日 (水) 17:58 (UTC)
記事分割提案
編集そろそろ、容量の問題から、CD、映画出演の項を分割したいと思いますが、いかがでしょうか?219.164.83.227 2006年2月22日 (水) 21:23 (UTC)
- 私も容量その他の観点から一部記事を別項目に移動しようと検討しています。ご意見をお願いします。尚、異論が無い場合ないし意見そのものが無い場合は後日一部を別項目に移動します。--目蒲東急之介 2006年3月14日 (火) 01:16 (UTC)
分割よりも各セクションごとの簡略化の必要性を感じます。そもそもここまで表を多用することはないのではないでしょうか?作品数から考えても、ディスコグラフィーは収録曲などの記述を省略すべきかと思います。詳細についてはアルバムや映画ごとに記事を立てたほうがよいのでは? --Chrysanthemum 2006年4月4日 (火) 15:30 (UTC)
- 私はディスコグラフィーや収録曲を別項に移動しても良いと考えていますが、如何でしょうか?--目蒲東急之介 2006年4月14日 (金) 10:08 (UTC)
Chrysanthemumさんに賛成します。安易な分割より、簡潔にすることを先に考えるべきでしょう。毎度のことですが「Wikipediaはナレッジ・ベースではありません」。 -- NiKe 2006年4月16日 (日) 07:41 (UTC)
- それでは改稿のテンプレートを貼った方が良いでしょうか?--目蒲東急之介 2006年6月17日 (土) 09:43 (UTC)
ざっと見ましたが記事内に色と表を多用していますね。この辺りの整理も必要があるかも知れませんね。--目蒲東急之介 2006年4月19日 (水) 07:11 (UTC)
記事名分割の件ですが、分割に付いて賛成や反対はありませんでしょうか?無ければ今月中に分割提案を取り下げします。--目蒲東急之介 2006年11月16日 (木) 10:26 (UTC)
無かった模様ですので提案は取り下げました。--目蒲東急之介 2006年12月2日 (土) 12:32 (UTC)
修正依頼が出ていたのでざっと見ましたが、ChrysanthemumさんやNiKeさんと同様、ディスコグラフィについては分割よりもまずWikipedia:作品リストを見ながら削除修正されることをおすすめします。曲名がすべて書かれていますが、本文でそれを生かし切れていません(=すべての曲について本文で言及できていない)し、色分けについても必要性を感じません。かえって私には見づらいです。また、表の形式になっていますが、個人的には表にしなくてもリスト形式で十分かとは思います(Wikipedia:表の作り方)。手を入れる余裕がありませんので「たんなる一意見」として書かせていただきました。編集の際の参考にして頂ければ幸いです。--ZERO 2007年3月21日 (水) 12:08 (UTC) 追記:Wikipediaでふさわしくない発言をみせけし線にて自己修正。必要性は閲覧者によって異なるため。--ZERO 2008年11月2日 (日) 19:53 (UTC)
現在、「作品」のリンクが見づらく、見つけにくいかと思います。歌手としての「作品」は主にあり、俳優業や主演作などはサブにあるという構築方法はいかがでしょうか。もしよろしければ、一度、テスト的にそのように編集してみたいと思っております。--るりぃ 2009年2月10日 (火) 14:52 (UTC)
上記に対して特にご意見がなかったので、歌手としての「作品」(ディスコグラフィ)を主として、全体を編集しました。--るりぃ 2009年2月16日 (月) 20:02 (UTC)
- 今さら言うのも何ですけど、モーニング娘。みたいにTemplate:ポータルを使う方法もありましたね。。--Stna 2009年11月25日 (水) 15:22 (UTC) (修正)--Stna 2009年11月25日 (水) 15:24 (UTC)
思いきり気障な人生
編集Googleの検索結果や、公式サイトなどの情報から「思いきり気障な人生」が正しいタイトルと考えられるのですべて直しました。--Dump 2006年4月14日 (金) 22:22 (UTC)
「バンドサウンド」を広く人口に膾炙させた功績
編集本文
また音楽面での影響としては、「バンドサウンド」を広く人口に膾炙させた功績が大きい。「日本人による、日本語のオリジナルロックミュージック(日本語ロック)」は1970年代前半以降、はっぴいえんどや四人囃子らに端を発しつつ現在に至っているが、それをテレビなどを通して日常生活に送り込んだのが沢田である。その証拠に、1980年代後半以降巻き起こった第二次バンドブームにおいては、沢田からの音楽的な影響を語るものが少なくない。たとえば氷室京介は沢田のバックバンドエキゾティクスのメンバーだった吉田建と西平彰をソロ活動初期のアレンジャーに迎えている。氷室が参加していたBOØWYはビジュアル系の源流としての功績も語られており、その面でも沢田からの影響を感じさせる。またプリンセス・プリンセスの奥居香(現岸谷香)はアマチュア時代に沢田の「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」をカヴァーしており、後に沢田へ楽曲提供も行っている(1989年の「彼は眠れない」収録「ポラロイドGIRL」)。
- ↑
- この部分は全然とまでは言わないが大分違うんじゃないか? 「バンドサウンド」や80年代以降の「バンドブーム」を誘発したのは、はっぴいえんど以降に出たキャロルや1970年代後半に出てきたゴダイゴやツイスト、サザンオールスターズやRCサクセッション、あるいはクイーンやキッスなどの外国のバンド、80年代に出てきたチェッカーズや安全地帯とかでしょう。沢田のバックバンドではない。80年代以降に音楽をやり始めた人達は、テレビ特に1970年代後半に始まった「ザ・ベストテン」の影響力が大きく受けています。ツイストやサザンが「ザ・ベストテン」に出ていた1970年代の後半には沢田はまだオーケストラをバックに歌っていましたよ。また「それをテレビなどを通して日常生活に送り込んだのが沢田である~」からの説も極端すぎる。後進は必ず前の世代の人達からいろんな影響を受けるんで、それこそピンクレディーなど歌謡曲などあらゆる影響は受けている。沢田一人でやった影響ではない。ここに挙げてある氷室京介はキャロルから大きな影響を受けた、と本人も言っている。音楽的にはデビッド・ボウイやロキシーミュージック、その他当時はニューウェーブとかニューロマンチックスといわれたイギリスやアメリカの若いミュージシャンから影響を受けてることはよく知られている。バックバンドのメンバーをアレンジャーに迎えたというが、ソロアーチストは色んな人をバックのメンバーに加えるわけだし、奥居香がアマチュア時代に「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」をカヴァーした、もアマチュア時代は、みんな色んな人の曲をカバーするんで、楽曲の提供依頼も色んな人を奥居は手がけている。沢田に頼まれて断る人はいない。沢田のバックバンドは、歌謡曲のスターとして始めてバックバンドを従えたのが珍しかったんで、これもグループサウンズ出身なので、こういうアイデアは普通に考えつくことで特記するべきことでもない。バンドではなく、沢田個人が「ビジュアル系の源流としての功績は大」という部分には異論はない。ただし80年代の半ばから沢田はテレビにまったく出なくなったので、ビジュアル系を認知させたのは、忌野清志郎や吉川晃司や玉置浩二らだと思う。どうしても後の「バンドブーム」に影響を与えたと書きたいなら、例えば ==後に現れたビジュアル系の源流としての功績== と改めてはどうか? 言うまでもなく日本でのビジュアル系の源流である。沢田も氷室らと同様、デビッド・ボウイやTボラン、また最近では語られることがなくなったミッシェル・ポルナレフあたりからもビジュアルアイデアを頂いている。--125.207.52.88 2007年4月13日 (金) 04:07
- ※結局「人口に広く膾炙した」という言葉の捉え方だとは思いますが。この言葉は日本全国津々浦々、老若男女を問わず広まった、という意味合いを持つものでしょうが、はっぴいえんどやキャロルが(音楽界、音楽ファンに残した足跡は別として)その域に達していたかは疑問ではないでしょうか。そして沢田が初めて率いたバックバンド、井上堯之バンドは1972年(PYG活動終了でも1974年)、即ち「1970年代前半」に登場しています。これが上述の1970年代後半のバンドらに先んじていたことはサザンのデビュー曲が「勝手にシンドバッド」、つまり沢田(とピンクレディー)のパロディであることからも自明でしょう。日本において、時代に先んじて、トップスターの域にある者が、バンドスタイルを提示した、という意味では十分にパイオニアと呼べるでしょう。仰るように「後進は必ず前の世代の人達からいろんな影響を受ける」のであれば、彼らが第2次バンドブームに直接間接の影響を与えたことも間違いないことだと思います。
- ちなみに沢田は1970年代後半、レコードの楽曲にオーケストラが使われることはあっても、テレビ出演の際には井上バンドの生演奏でパフォーマンスをしていましたし、「演奏:井上堯之バンド」とクレジットもされていました(これは沢田がクレジットを入れるように要請したそうですが)。DVD「快傑ジュリーの冒険」や当時の紅白、レコ大映像をご覧頂ければお分かりでしょう。
- 奥居の話にしても、当時は一介のしがないアマチュアミュージシャンだったであろう彼女がコピーしていたことこそが、沢田の音楽が広く膾炙していた事と彼女に影響を与えていた事の明確な証拠でしょう。これも同様に仕事や義務でもないのにわざわざ嫌いな曲、影響を受けていない曲をカバーする人はいません。両者についての指摘は沢田の功績を否定する「ためにする」主張と受け取れてしまいます。
- バックバンドの件については、「コロンブスの卵」という言葉をご存知ならば、「考えること」と「最初にそれを実行すること」との隔たりの大きさと後者を成したものの功績の大きさは当然理解されるでしょう。これを「特記するべきことでもない」とするのは、やはり「ためにする」主張と思えます。吉川についても佐野を通して沢田が影響を与えている事は忘れてはいけません。
- なお80年代の半ばから全くテレビに出ない、は完全な誤認です。「快傑ジュリーの冒険」だけでも1987年まで出演していますし(出演しなくなったのは同番組が終了したから)、紅白にも80年代は毎年出場、その他単発番組はココロ時代にもそれなりに(もちろん往時に及ぶべくもないのは事実ですが)出演しています。彼が「昔の歌を歌わされたくない」としてテレビに全く出なくなったのは90年代、具体的には1996年にNHK「ふたりのビックショー」でそれを強制され、出演拒否したのがきっかけです。
- 総じて言うとすれば、確かに沢田が1人で音楽界や第2次バンドブームに影響を与えたわけではありませんし、その意味で文言に極端な面もあるかもしれませんが、事実誤認に基づいた指摘が多いことと、論点の履き違えが見られること、論理の矛盾が見られるようです。
- そもそも「沢田からの影響を語るものが少なくない」を「沢田一人でやった影響ではない」とするのは牽強付会ではないでしょうか。あくまで「何がしかの影響を与えた」程度の事しか述べていないのに、「他にも影響を与えたものがある」というご意見は(その内容が正等であるとしても)論点がずれているのではないでしょうか。指摘するなら、バンドブームに影響を与えたものは、全く「沢田のバックバンドではない」ことの論述を成すべきでしょう。--125.200.51.109 2007年4月23日 (月) 14:39
本文
さらに沢田は時代時代の最先端を取り入れる才能にも長けており、その当時に気鋭のミュージシャンである若手の作品を取り上げることが多かった。佐野元春や大沢誉志幸、作詞家の覚和歌子らはそうした一例で、彼らは「世に広く知られる前に沢田に見出されている」点が重要である(例えば大沢は自身のデビュー前に沢田他に楽曲を提供し、「デビュー前に100万枚売った男」と言われた。覚が沢田へ詞を提供したのも、「千と千尋の神隠し」主題歌などで話題になるずっと以前である)。そのため音楽業界では「沢田と組めばビッグになれる」と言われたことすらあった。
- この部分も少し違うんじゃないか。最先端の若手の作品を取り上げる、という部分はいいのだが、例えに挙げてる人がよくない感じがする。覚和歌子は知らないので触れないが、佐野元春は1980年にNHK-FMラジオ「サウンドストリート」のディレクターが大抜擢したことがきっかけで佐野自身の楽曲の良さから世に出たんで沢田とは関係がないと思う。大沢に関しては、1984年の「そして僕は途方に暮れる」の大ヒットで有名になるだいぶ前に「おまえにチェックイン」とかで取り上げている点は先見の明はあったと思うが、この頃は沢田のレコードのセールスはもう落ちてた頃で、ここで大沢が有名になったわけではないと思う。ソングライターとしての大沢が有名になったのは中森明菜の「1/2の神話」とか 吉川晃司の「ラヴィアンローズ」の大ヒットからだと記憶している。当時を覚えている方に意見をお聞ききしたい。。--125.207.52.882007年4月13日 (金) 04:07
- ※「おまえにチェックイン」82.5.1リリース、オリコン最高8位、27.4万枚、(ザ・ベストテン最高2位)
- 「1/2の神話」83.2.23リリース、同最高1位、57.3万枚
- 「ラ・ヴィアンローズ」84.9.10リリース、同最高4位、19.9万枚
- 「そして僕は途方に暮れる」84.9.21リリース、同最高6位 28.2万枚
- 以上より、大沢誉志幸をメジャーにしたのは沢田研二による大抜擢と言って間違いないと思う。大沢誉志幸が初めて「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに出演した際、登場と同時に持参したギターで「おまえにチェックイン」を歌い会場を盛り上げたところからも、大沢自身が「おまえにチェックイン」を自らの出世作かつ代表作のひとつと考えていると見て間違いない。
- 佐野元春については、沢田研二が佐野元春に楽曲提供を依頼し3曲も収録されたアルバム「G.S.I LOVE YOU」がリリースされたのが1980.12.30。上記「サウンドストリート」への抜擢と同時期である。当時の沢田研二は大ヒット曲「TOKIO」をリリースした頃でまさに人気絶頂の頃。そのスター沢田研二が直々に、当時駆け出しだった新人アーティストに楽曲を依頼したというのはかなりのニュースであり、佐野元春がメジャーな存在になる大きな出来事であったのは否定できない。その後も沢田研二と佐野元春の交流は続いており、「沢田研二は佐野元春がメジャーブレイクするきっかけを与えた恩人のひとり」であるというのは佐野・沢田両サイドにとって共通の認識であると考えて間違いない。。--Hirotan1052007年4月22日 (日) 08:02
- 「サウンドストリート」というのは、当時NHKFMラジオで毎日夜の10時から放送していた人気番組で、佐野元春は月曜日を担当し、他の曜日は、坂本龍一、甲斐よしひろ、烏丸せつ子、渋谷陽一らがDJ(パーソナリティ)を務めてました。新人の佐野元春が、天下のNHKのラジオのDJに抜擢されたのですから、大変驚きました。その内容も驚くもので、アメリカのDJを気どった佐野が、当時はほとんど日本では認知されてなかった50年代、60年代のアメリカの女性コーラスグループ、スプリームス(この頃はシュープリームスと呼んだ)、ロネッツ、クリスタルズらの特集を組んだりする、非常にオタッキーなものでした。当然業界などでも話題となっていましたので、佐野元春は、この番組に抜擢されて以降は、あなたの言われる「駆け出しだった新人アーティスト」という訳ではありません。ただの新人とは意味合いが違うと思います。おそろく沢田は佐野の評判を聞きつけ、自身のアルバムに佐野の曲を入れたのでしょう。大沢誉志幸に関しては、新人発掘の意味合いはあったと思います。佐野と同様、楽曲依頼をしたところ、「おまえにチェックイン」のデキがいいので、シングルとして出したのではないでしょうか。しかし「笑っていいとも」で「おまえにチェックイン」を歌ったからといって「代表作と思っていると見て間違いない。」とは言えないでしょう。会場で盛り上げるのに「そして僕は途方に暮れる」では盛り上がらないし「1/2の神話」「ラ・ヴィアンローズ」より、「おまえにチェックイン」が一番会場が盛り上がるから歌ったのではないでしょうか。--220.106.137.56 2007年5月4日 (金) 12:35 (UTC)
ノートで議論する時には、ログインし、最後に署名を必ずして下さい。
どこまでが、誰の発言だか全くわかりません。署名をするには、~(チルダ)を4つ付けて下さい。--Dr jimmy 2007年4月23日 (月) 23:54 (UTC)
- Wikipedia:独自研究は載せない というルールができたので、この中にある「信頼できる資料」と、「Wikipedia:信頼できる情報源」を明記してもらい、独自研究ではない、事を証明してもらえば問題ないと思います。
- 本文に 第二次バンドブームにおいては、沢田からの音楽的な影響を語るものが少なくない。 とあるので、その語っている文献等を明記すべきでしょう。
- やはりこれは影響を受けた、と決定付ける理由にしては弱いと思います。この二人が、何かの音楽雑誌で「沢田研二から影響を受けました」とはっきり言ってるなら、いつの本か出典を明記してもらえば、検証ができますので、まったく問題がないでしょう。こうまではっきり言わなくても、例えば「アマチュア時代に沢田研二の曲ばかりコピーしてました」とか「大好きでした」と言うならまだいいと思います。発言でなくてもビートルズは、プロデビュー後のオリジナルアルバムの5枚目までは、カバー曲が多く、これらの曲が曲作りに大きな影響を与えたことは有名ですし、藤井フミヤは、全編キャロルの曲のトリビュートアルバムを出していますので、こういうのなら分かり易いです。「プロデビュー後」に、沢田の曲をカバーしたとか、ライブで盛んに歌ったというなら説得力がありますが、まだオリジナル曲をあまり持たないアマチュア時代に1曲カバーした、というのでは説得力を欠きます。楽曲提供に関しては、曲作りができる人は、たいていたくさんの人に楽曲提供をしています。奥居が沢田に楽曲提供した、というのではなく、その反対、奥居が沢田に楽曲提供を依頼した、というなら沢田の曲のファンという事なので当然影響を与えたといえるでしょうが。-- 125.170.177.244 2007年5月3日 (木) (UTC)
- 「影響を受けた」の部分については、やはりそこまで断言できる根拠が無いということで結論付けざるを得ません。事実としては、「バンドメンバーを起用したこと」「楽曲のカバー・提供」といったことだけであり、それらの事実を元に「影響を感じさせる」としているのは執筆者の主観的憶測にあたり、更にそれを論拠に「音楽面での影響」を語るのは、独自の研究に他ならない。また、「デビュー前に100万枚売った男」「沢田と組めばビッグになれる」といった部分の出典・根拠も無く、上で発言されている方の説明によると、やはり独自の研究であると見ざるを得ない。また、「功績」欄の記述についても、根拠不明な点があるので、「要出典」を貼ります。Wikipedia:ウィキペディアは何でないか、Wikipedia:大言壮語をしない、Wikipedia:言葉を濁さないを参考にし、これに違反しないような記述を心がけなければなりません。--Dr.Jimmy 2007年5月28日 (月) 07:40 (UTC)
- 良い御判断だと思います。既に[要出典]が貼られていますが、下記も編集の必要があるでしょう。
1973年の第24回NHK紅白歌合戦で沢田は純白の衣装に赤のファー、更に足元はロンドンブーツと紅白史上初めて「正装」以外の絢爛豪華なオリジナルスタイルで登場し、アグレッシブに動き回るパフォーマンスを披露した姿は「テレビ歌唱」の概念を塗り替えるものであった(なお初出場となった前年の第23回NHK紅白歌合戦では正装で歌っている)。紅白においてこの系譜は後に小柳ルミ子を経て美川憲一や小林幸子へと受け継がれている。付言すれば、「独特のファッションでアグレッシブに歌う」というパフォーマンスは、紅白以外の音楽番組や実際のライヴステージにおいて、現今の特にロック系歌手のほとんどに見られるもので、そうした意味では以降のほぼ全ての歌手に先んじているといえる。
1973年の紅白歌合戦の1ステージが、「美川憲一や小林幸子へと受け継がれ」、さらに「現今のロック系歌手に先んじているといえる」と結論付けられています。当然ながら言い過ぎでしょう。時代背景を考えても、どれ程インパクトがあったか疑問です。元々派手な衣装だったり、アクション歌謡のようなモノは、欧米のバンドをまねた1960年代の平尾昌晃らのロカビリーブームや、沢田氏も当事者だったグループサウンズから始まり、1970年代に入ってからは山本リンダ(どうにもとまらない(1972年)、狙いうち(1973年))、西城秀樹(情熱の嵐(1973年) )らが先行していたモノです。これらも当時としては「テレビ歌唱」の概念を塗り替えるものであった、といえるでしょう。沢田氏は70年代の始めから後半までは、危険なふたり(1973年)、は少し踊ってましたが、追憶(1974年)、時の過ぎゆくままに(1975年)、など、割りと大人の恋愛を渋めに歌っていて、衣装やアクションは先行していた訳ではありません。当時の「紅白歌合戦」では珍しかったのかも知れませんが。沢田氏の有名なパフォーマンス、パラシュート持って歌ったり、酒を吹きかけたり、カラーコンタクトしたりは、70年代後半の事です。70年代はフォーリーブスや郷ひろみ、山口百恵、ピンクレディーらも含めて、衣装やアクションを競い合っていましたし、より明確に順位を競う「ザ・ベストテン」が始まった事もそういったパフォーマンスがエスカレートした原因としてあるでしょう。紅白歌合戦にしても一年一度の晴れ舞台で、みなが衣装、アクションを競った歴史が美川憲一や小林幸子へ行き着いている訳で、当然ながら現今のロック系歌手のパフォーマンスも多くの人達の競争の歴史から作られたモノで、沢田氏の1ステージが作った訳ではないでしょう。--125.170.166.18 2007年6月5日 (火) 15:53 (UTC)
- ご意見ありがとうございました。要出典を貼ってからかなり日が経っていますが、特に出典の明示がないようですので、あと2,3日待って、削除させていただこうと思います。--Dr.Jimmy 2007年6月6日 (水) 01:20 (UTC)
「サムライ」での衣装でハーケンクロイツの使用について
編集- 1978年発売の「サムライ」においてナチス親衛隊の衣装が問題となり、途中でハーケンクロイツの腕章「卍」が「×」印に変更された。この当時、ナチスを模することのタブーは当時日本ではそれほど存在せず、単なる意匠として用いたものと思われる。ただし沢田自身がナチス信奉者とかユダヤ人差別者であると言うことでは全くない。現在ならば国際問題にまで発展する危険性がある配慮を欠く行為でであった。
の記述が2008-12-28T07:36:21、Shota氏により削除を受けていますが[1]これは「サムライ」の項にも触れられていることで削除の是非についてご意見をお願いいたします。これは沢田氏を批判するのではなく、彼の立場を擁護し、当時の社会状況と今日の違いを客観的に説明しようとしたものですがいかがでしょうか。ただし再記載が可能とコミュニティの意見が出た場合、現在の倫理基準をそのまま当時に当てはめることはフェアではないので、最後の「現在ならば国際問題にまで発展する危険性がある配慮を欠く行為でであった。」は削除しようと思います。沢田さんおよび周囲の人々にナチスを賛美したり、ユダヤ人を貶める意図は全くなかっであろうと言うことは強調しておきたいと思います。ホロコースト否認議論に見られるような徹底したナチス批判が日本において社会的合意を形成したのは1990年代以降の現象です。それ以前はナチスの制服や徽章をファッションとして利用することがある程度社会的に容認されていた空気が存在したと考えるのが妥当な解釈だと思います。沢田さんの例だけ言い立てるのは酷でしょう。海外のロックにおいてもそのままズバリではありませんが似たような例があったような気もします。--ピノキオ 2008年12月28日 (日) 01:10 (UTC)
- 本来サムライ_(沢田研二)に記述すべきものです。典拠が示されていない上に「思われる」「可能性がある」と推測で話が進められており、Wikipedia:存命人物の伝記等に鑑みて削除しました。このエピソードの加筆に特段の情熱を燃やしていらっしゃるのならば、検証可能な出典をもとに取り扱いに注意してサムライ_(沢田研二)に記述してください。--Shota talk / cntrb / log 2008年12月28日 (日) 02:39 (UTC)
「加筆に特段の情熱を燃やしていらっしゃる」のではなく、記載の意図を正確に表明したいと考え上記致しましたまでです。--ピノキオ 2008年12月28日 (日) 04:43 (UTC)
- 擁護の意図で記述なさったのであれば、人物の項目としては意図と全く逆の印象を与えることになりかねません。サムライ_(沢田研二)の当該箇所を補強するように記述されるべきであると考えます。--Shota talk / cntrb / log 2008年12月28日 (日) 05:11 (UTC)
貴兄のご意見はそれとして受け止めさせていただきます。ただ擁護の意図の表明であるならば、人格そのものを全般的に語ることが出来る人物欄の方が適切ではあると思いますが。ただし特にこの記述に固執するつもりもありませんし。アドバイスありがとうございます。--ピノキオ 2008年12月28日 (日) 05:24 (UTC)
- この件を人格と関連づけて扱うこと自体が既に、存命人物の項目としては適切ではありません。--Shota talk / cntrb / log 2008年12月28日 (日) 05:30 (UTC)
どうもその判断自体が示威的なように思いますが。なぜそうお思いになられるのか論理的に筋を立ててご説明下さい。--ピノキオ 2008年12月28日 (日) 06:40 (UTC)
「作品」について
編集某所で、こちらウィキペディア・沢田研二の「作品」が見づらい、見つけにくいという意見が何度も出ています。 私自身もそのように感じています。
歌手・沢田研二さんに興味を持ってこられたのに、肝心の「作品」にたどり着けないという方もいるようです。 ★マークをつけるなど、これまで何度か編集させて頂いたのですが、削除されてしまっています。
ジュリーの本業は、歌手であるはずです。なんとか「作品」を見やすく編集できないものでしょうか。--るりぃ 2009年1月31日 (土) 16:56 (UTC)
上記に対して特にご意見がなかったので、歌手としての「作品」(ディスコグラフィ)を主とし、全体を編集しました。--るりぃ 2009年2月16日 (月) 20:03 (UTC)
改名提案
編集以下の8件のは、Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽に反する記事名のため、それぞれ前者から後者への改名を提案します。--ZERBERUS 2010年11月18日 (木) 12:29 (UTC)
- 女神 (沢田研二)→女神 (沢田研二の曲)
- CHANCE (沢田研二)→CHANCE (沢田研二の曲)
- TRUE BLUE (沢田研二の楽曲)→TRUE BLUE (沢田研二の曲)
- HELLO (沢田研二の楽曲)→HELLO (沢田研二の曲)
- 永遠に (沢田研二)→永遠に (沢田研二の曲)
- 鼓動 (沢田研二)→鼓動 (沢田研二の曲)
- Beautiful World (沢田研二)→Beautiful World (沢田研二のアルバム)
- HELLO (沢田研二)→HELLO (沢田研二のアルバム)
- 報告 反対意見も無いようでしたので、提案どおり改名いたしました。--Dr.Jimmy 2010年11月26日 (金) 05:16 (UTC)
つづいて、以下の2件も改名を提案します。--Dr.Jimmy 2010年11月26日 (金) 06:07 (UTC)
- 灰とダイヤモンド (沢田研二)→
灰とダイヤモンド (沢田研二の曲)灰とダイヤモンド (曲) - 第六感 (沢田研二)→
第六感 (沢田研二のアルバム)第六感 (アルバム) - Pleasure Pleasure (沢田研二)→Pleasure Pleasure (沢田研二のアルバム)
- 灰とダイヤモンド (沢田研二) の同名曲(追加部分)と第六感 (沢田研二) は同名アルバムはあるのでしょうか。ないのならWikipedia:ウィキプロジェクト 音楽に即して灰とダイヤモンド (
アルバム曲) と第六感 (アルバム) とすべきでしょう。--KKDA 2010年11月27日 (土) 14:39 (UTC) --修正 KKDA 2010年11月27日 (土) 16:34 (UTC)- 確認した限りではなさそうです。このまま1週間待って異論がなければ、KKDAさんの案で進めたいと思います。--Dr.Jimmy 2010年11月27日 (土) 14:56 (UTC)
- 「灰とダイヤモンド」は、シングルですよ--ZERBERUS 2010年11月27日 (土) 15:04 (UTC)
- 失礼しました。訂正させていただきます。--KKDA 2010年11月27日 (土) 16:34 (UTC)
- 「灰とダイヤモンド」は、シングルですよ--ZERBERUS 2010年11月27日 (土) 15:04 (UTC)
- 後者はともかく、前者は映画「灰とダイヤモンド」のサントラ盤記事が今後作成される可能性が皆無とは言い難く何とも・・・。余談なれど高1の9月に札幌厚生年金会館で催されたコンサートツアー「架空のオペラ」へ行った際、おばさん、お姉さんの凄まじい熱気と声援「ジュリ~!」「ジュリ~ッ!」に萎縮してしまった、ちなみにおよそ8割方が女性客。--Teorema 2010年11月27日 (土) 15:21 (UTC)
- コンサート「架空のオペラ」で想い出した!「♪シャラララララ~許してあげる」ってな歌詞で確かにシングル曲、25年も経って忘れてしまった、但しその後に「灰とダイヤモンド」というベストアルバムが発売されたか否かまでは関知せず--Teorema 2010年11月27日 (土) 15:55 (UTC)
- ここはBLOGやTwitterではありません。議論に関係の無い雑談はお止め下さい。--Dr.Jimmy 2010年11月27日 (土) 16:23 (UTC)
- 確認した限りではなさそうです。このまま1週間待って異論がなければ、KKDAさんの案で進めたいと思います。--Dr.Jimmy 2010年11月27日 (土) 14:56 (UTC)
報告 改名しました。--Dr.Jimmy 2010年12月5日 (日) 00:35 (UTC)
改名提案 その2
編集以下の8件の記事名はプロジェクト:音楽に反しているので、それぞれ前者から後者への改名を提案します。
- 愛まで待てない (楽曲) → 愛まで待てない (曲)
- サーモスタットな夏 (楽曲) → サーモスタットな夏 (曲)
- 耒タルベキ素敵 (楽曲) → 耒タルベキ素敵 (曲)
- 忘却の天才 (楽曲) → 忘却の天才 (曲)
- 明日は晴れる (楽曲) → 明日は晴れる (曲)
- greenboy (楽曲) → greenboy (曲)
- 俺たち最高 (楽曲) → 俺たち最高 (曲)
- ROCK'N ROLL MARCH (楽曲) → ROCK'N ROLL MARCH (曲)
1週間様子を見て反対意見がなかったら移動したいと思います。--ナカムーラ 2011年6月18日 (土) 05:10 (UTC)
- 済 全件移動しました。--ナカムーラ 2011年6月25日 (土) 05:25 (UTC)
分割提案2
編集80キロバイトを超えていますしまだまだ記述が増える事が予想されます そこでディスコグラフィの項をを独立させ沢田研二のディスコグラフィにしたいと思います ご意見をお待ちしています。--Otohakusyu(会話) 2012年9月17日 (月) 10:50 (UTC)
- 反対 この程度の分量であれば、大して見辛いというわけでもなく、アーティストの記事と同一ページにあることの見やすさ・メリットの方が大きい。今後、大幅にサイズが増えるというわけでもなく、分割には反対します。そもそも、サイズのみを根拠にして分割するのは本末転倒・ナンセンスであり、提案者におかれましては、同様の理由で既に提出された分割提案に反対意見が寄せられている最中に同様の理由で別の案件を出すのは控えるべきです。--Dr.Jimmy(会話) 2012年9月19日 (水) 07:42 (UTC)
- コメント 沢田研二の場合シングルアルバムとも多いですし 提供楽曲 カバーの項は単独項目があるのにディスコグフティはありませんしそれもおかしいと思います。両者を統合するのもありだと思います。浜田省吾やさだまさしくらいの分量でもディスコグラフィがあり 提供楽曲 カバーの項は単独項目というのもおかしいと思います。--Otohakusyu(会話) 2012年9月19日 (水) 08:58 (UTC)
- そもそも、提供楽曲 カバーの項の分割は、合意を得て行われたものではないようです。そのような前例があることが、本提案の根拠にはなり得ません。また、他のアーティストのケースも同様で、他にあること、が、本提案の根拠にはなりません。--Dr.Jimmy(会話) 2012年9月30日 (日) 11:44 (UTC)
- だったら尚更提供楽曲カバーの項と統合すればいいと思います。 あなたはこのぐらいの分量なら分割しなくてもいいとおっしゃっていますが提供楽曲の項も全体が見づらくなるから分割されたようです。作品とひとまとめにしたほうがいいと思います。そもそも作品の項が長ったらしいと思ったのがまず 第一の理由です。また記事が重すぎ全体の編集が出来ません。ですから 分割提案もディスコグラフティに貼らせていただきました。また存命人物ですから大幅に記事内容が増えないとも限りません。もちろん分かりにくくなるのは論外ですが、できるだけ元記事を削らず、記事を軽くする事も必要だと思います。--Otohakusyu(会話) 2012年9月30日 (日) 13:12 (UTC)
- 「だったら統合すればいい」って、そんな子供のようなことを言われても返答のしようがありません。もう一度言いますが、きちんとした合意を得て行われていない分割を例に挙げても、根拠になりませんということを言っています。長ったらしい、見づらいというのはあなたの主観です。もちろん、見づらくないというのも主観でしょうから、見づらいという他の意見が圧倒的に多いのであればそれに従いますが、少なくとも私は見づらいとは思いませんし、沢田研二というアーティストの記事の中にディスコグラフィがあった方が読む方にとってわかりやすいと思います。読み手の有用さを犠牲にしてまで、編集する側にとっての優位性をとるのは、本末転倒としか言いようがありません。--Dr.Jimmy(会話) 2012年10月1日 (月) 04:34 (UTC)
- 反対 あのう…Dr jimmyさんに同意です。見づらいとは思いません。さだまさしさんは他の記述が多すぎて楽曲がディスコグラフィの項目に分割されたようですが、ジュリーは歌手なので、他の分はけずっても、この先どれだけ長くなっても、メインページに楽曲項目は入れていただけたら…と思います。--ぬこ三郎(会話) 2012年10月25日 (木) 21:24 (UTC) ぬこ三郎
- 報告 提案者以外に賛成意見はなく、反対意見のみであり、それに対しての提案者からの反論も1ヶ月以上ありません。また、提案者から同時期に提出された分割提案も全て失効していることから、本提案も分割せず終了とさせていただきます。--Dr.Jimmy(会話) 2012年10月30日 (火) 02:07 (UTC)
ヴィジュアル期の提案
編集現在、ヴィジュアル期の文中には、「「勝手にしやがれ」以降、これまでのヴィジュアルとロックサウンドを重視したスタイルをエスカレートさせていく。」となっていますが、本来は、その一曲前の「さよならをいう気もない」の金のキャミソールからです。二度の暴行事件を起こしたことを踏まえ、謹慎中に「復帰する時にはヴィジュアルでも何でもやってやる」ということをジュリーが語っています(NHK-BS2で放送されたBS開局記念番組、沢田研二スペシャル「美しき時代の偶像」)。 時間的にはわずか一曲の違いだけですが、ヴィジュアル化するきっかけが暴行事件だったというのは本人にとっての決意であり、それが結果的にXや吉井和哉らに影響を与えることを考えれば、この部分は正確に記すべきだと思います。そこで、以下のように改正の提案をします。
現行* GS時代、ビートルズやローリングストーンズなどの洋楽のカバーからスタートした沢田にとって、ロッド・スチュアートやデヴィッド・ボウイ、アダム&ジ・アンツなど、当時最先端のミュージックシーンやサウンドを取り入れることはごく当たり前のことだった。1974年、日比谷野外音楽堂ライブでインディアンのようなチークをしたり、1975年の比叡山ライブでブルーのラメ入りのアイシャドウをするなど、化粧は早くからステージで行っていた。しかし、お茶の間に流れる一般のテレビ番組ではまだ控えていた。プロデューサーである加瀬邦彦は、早くから「もっと色っぽく、いやらしく歌って」「もっと過激にいこうよ」と進言していたが、「勝手にしやがれ」以降、これまでのヴィジュアルとロックサウンドを重視したスタイルをエスカレートさせていく。
改正案* GS時代、ビートルズやローリングストーンズなどの洋楽のカバーからスタートした沢田にとって、ロッド・スチュアートやデヴィッド・ボウイ、アダム&ジ・アンツなど、当時最先端のミュージックシーンやサウンドを取り入れることはごく当たり前のことだった。1974年、日比谷野外音楽堂ライブでインディアンのようなチークをしたり、1975年の比叡山ライブでブルーのラメ入りのアイシャドウをするなど、化粧は早くからステージで行っていた。プロデューサーである加瀬邦彦は、「もっと色っぽく、いやらしく歌って」「もっと過激にいこうよ」と進言していたが、お茶の間に流れる一般のテレビ番組ではまだ控えていた。しかし暴行事件は、沢田の意識を大きく変える。謹慎中はテレビの音楽番組を詳細に研究し、「身を削って恥をかき、バカなことをしても怖くない。見て面白いことをしよう」と、更なる上を目指して「さよならをいう気もない」以降、ヴィジュアルを重視したバンドスタイルをエスカレートさせていく。
以上。 初心者のため、これまでノートを使わずに変更を行ったことをご容赦下さい。以後、重要な提案はノートを遵守します。--ぬこ三郎(会話) 2012年12月5日 (水) 02:33 (UTC)
- 主旨は理解できますが、まず、テレビ番組は、検証可能性を満たすソースとしては認められておらず、これを出典として記事を書くことは原則としてできません。
- そして、この節についてですが、現行の記述自体が、出典が何一つ明示されておらず、検証可能性を満たしていません。改正するのであれば、その辺りを踏まえて、根本的に見直す必要があるように思えます。--Dr.Jimmy(会話) 2012年12月5日 (水) 02:46 (UTC)
- Dr.Jimmyさま。いつもありがとうございます。加瀬邦彦、内田裕也の著書、大野克夫の取材記事などから、出典はほとんど明記できます。「身を削って恥をかき、バカなことをしても怖くない。見て面白いことをしよう」というテレビ出演時の本人の発言箇所は、本人名の著書「我が名はジュリー」を見直してみます。ご助言、感謝します。--ぬこ三郎(会話) 2012年12月5日 (水) 03:41 (UTC)
いま、Dr.Jimmyさまのご指摘通りに、細かいところから出典元を探して追加しています。どうか皆様ご協力ください。
ところで、このヴィジュアル期の提案ですが、調べれば調べるほど日本のロック史にいきついてしまい困っています。「はっぴいえんど キャロル、フラワートラベリンバンド、サディスティックミカバンド、カルメン&マキOZというバンドは出たけど、結局は沢田研二かな 」という評論家もいて、改行案は些末なことかなともやもやしています。再度、皆様のノートでのご提案をお待ちします。
- 署名忘れました。すいません。土下座。--ぬこ三郎(会話) 2012年12月23日 (日) 05:55 (UTC)
反論がないようなのと、出典元を確認しましたので変更します。--ぬこ三郎(会話) 2013年1月28日 (月) 18:35 (UTC)
出演作品・番組についての提案
編集今、『NHK-BS2で放送されたBS開局記念番組、沢田研二スペシャル「美しき時代の偶像」』の資料を探して気がついたので、再提案させて下さい。 沢田研二はあまりにも多くのテレビ番組に出演したため、全表記は不可能です。そのため現行は、「テレビドラマ」と「バラエティ番組」の項目になっています。しかしミュージックステーションやミュージックフェアの出演はカットして当然ですが、出演回数が多かった番組、あるいは特集番組も表記してもいいのではないでしょうか。
そこで、 タイトル「バラエティ番組」を「テレビ番組」に改める。現在の、 「8時だョ!全員集合(TBS) ドリフ大爆笑(フジテレビ) 沢田研二ショー(1983年、TBS) プロ野球ニュース(フジテレビ、1991年準レギュラー) 優雅なエゴイズム(1994年、TBS) 新常識クイズ!目からウロコ(2001年、フジテレビ)」に、 沢田研二スペシャル「美しき時代の偶像」、ザ・ベストテン、夜のヒットスタジオ、ザ・ヒットパレード、ドレミファ学園、トップスターショーなど、資料的な意味をこめて追記してはどうでしょうか。個人的には、準レギュラーでも「プロ野球ニュース」はカットしていいと思います。--ぬこ三郎(会話) 2012年12月5日 (水) 03:29 (UTC)
- これも同じなのですが、何をもって出演回数が多かった・多くなかった、資料的な価値のある・無し、の基準がなければ、それこそ全て「個人的な感覚」で記載する・しないを決めることになってしまいます。--Dr.Jimmy(会話) 2012年12月5日 (水) 04:01 (UTC)
- はい、もちろん議論を待ちます。一応、ここにざっくり挙げたのは、たとえば「夜のヒットスタジオ」を例にとると、1968年モノクロ放送からスタートし、沢田さんは翌1969年に登場。前田武彦、三波伸介、井上順、古舘伊知郎の歴代司会者とすべて共演し、22年間にわたる番組の最終回も出場。現在発売されている同番組のDVDでは、600分近い最長の6枚組ボックスが出ています。
- 「ザ・ベストテン」への登場は第一回「憎みきれないろくでなし」で、以降、ビジュアル路線をつきすすむ中、百恵さんの引退を送り、聖子さんの登場を迎え、更に中山美穂さんを共演とする時代まで出演しています。同様に「ザ・ヒットパレード」は1966年、ザ・タイガースのテレビ初デビューの番組で、1970年3月31日の番組終了まで出演。これは、ザ・ピーナッツがメインで出ていた生放送で11年間続きました。「ドレミファ学園」は沢田さんは全回登場していて、その後名称を「クイズ・ドレミファドン」と変え、1988年の終了回まで12年続くことになるクイズと音楽の合体番組になりますが、沢田さん引き続き出演しています。どれも時代を反映した音楽番組ですが、このような基準の考察ではだめでしょうか。各番組における他の歌手の方の出場回数はわかりませんが、沢田さんの出場回数はわかります。--ぬこ三郎(会話) 2012年12月5日 (水) 08:45 (UTC)
- うーん、それは、Wikipediaでは、ぬこ三郎さんの独自研究とみなされるのですよ。沢田研二にスポットを当てた特別番組や、レギュラー出演している番組であれば掲載可能ですが、歌番組やバラエティ番組へのゲスト出演は掲載すべきでないと思います。--Dr.Jimmy(会話) 2012年12月5日 (水) 09:38 (UTC)
- 独自研究…確かに難しいですね。一週間のうち6日間、テレビジョッキー、夜のヒットスタジオ、ザ・ベストテン、歌のトップテン、全員集合、ヤンヤン歌うスタジオ、サウンドインS、シャボン玉プレゼントなど、テレビ欄に必ず1日2回は出ていました。今のスマップ・嵐を足した以上に。でも冠番組ではない、と…。だから、記載は現行のようにレギュラー番組のみなのですね。
- ただ、沢田さんのテレビ出演番組を列記するなら音楽番組かな、と。削除されましたが、XのHIDEや吉井和哉らビジュアルよりの人たちが「子供の頃にジュリーが好きだった」「ウルトラマンみたいなヒーローだった」と語っていた(←すべてソースを明示できます)のは、毎日テレビで見ていたからだと思うのです。もちろん沢田さんにスポットを当てた特別番組は、山口百恵さん・若山富三郎さん・郷ひろみさん・森光子、各氏とのNHKふたりのビッグショー、田宮二郎さんとの対談、フランスから帰国時の仁谷英明さんとのインタビューなど数えきれないくらいたくさんありますが、それだと広くバンドサウンドを浸透させていった沢田さんの本質をついていないかと考えます。独自研究~、難問です。--ぬこ三郎(会話) 2012年12月5日 (水) 10:24 (UTC)
- 時間を置き、自己考察しました。沢田研二の出演番組は、「沢田研二ショー」より「ザ・ヒットパレード」を優先すべき、というような自分の考えは時代性を配慮すれば正当な意見だと思いますが、沢田研二は現役なので、過去の人ではない。そういう議論は後の世代に託すべきだと思い至りました。ということで、この議論は自己却下させていただきます。すいませんでした。--ぬこ三郎(会話)
- うーん、それは、Wikipediaでは、ぬこ三郎さんの独自研究とみなされるのですよ。沢田研二にスポットを当てた特別番組や、レギュラー出演している番組であれば掲載可能ですが、歌番組やバラエティ番組へのゲスト出演は掲載すべきでないと思います。--Dr.Jimmy(会話) 2012年12月5日 (水) 09:38 (UTC)
出典に関して
編集女性週刊誌および男性週刊誌は検証可能性を満たすソースとしては信頼性が著しく欠如していると考えます。テレビ番組での出演者の発言は、台本による構成作家の記述の可能性が高く、これを出典とすることは認められません。また百科事典の文体ではなく、ジャーナル誌のような文体になっており、扇情性の高い記事になっていると考えます。--Rinaxrinaxrinax(会話) 2013年4月4日 (木) 06:23 (UTC)rinaxrinaxrinax
- 難しい質問です。しかし、自分個人のライターとしての経験でいうと、月刊誌>週刊誌>新聞という順で信憑性は高い。というか、新聞は取材時間が少なく、そのままの現場本人取材で書いてしまう。「俺はすごい。こんなこともした、あんなこともした」と言うと、そのまま活字になってしまう、こともあります。その点、月刊になると、いろいろと周囲関係者の言葉を集めて総合的に書く、というスタンスがあるのです。
- 女性週刊誌、男性週刊誌をばかにしないでください。ともに真摯に取材している方がいます。でも一方で、発行部数のために見出しに注力する書き手がいるのも事実です。で、たとえば朝日新聞さえ、捏造を指摘されていたこと、覚えていませんか? 正しく報道する、という姿勢は、現在のマスコミをどう見るか、ということにも関わってくると思うのです。(--ぬこ三郎(会話) 2013年4月8日 (月) 16:55 (UTC)
- ごめんなさい。つい上から目線でした。反省します。結局、どんな事項があっても、時間が解決してくれると思います。「女性週刊誌および男性週刊誌は検証可能性を満たすソースとしては信頼性が著しく欠如している」といわれましたが、のちのち振り返ってみて、「確かにそのとおりだった」という記事が存在するのも事実です。この歌手に関しては現在も活動しているので、本人や周囲の発言は活字に残っていない部分で多数存在します。しかし、それはウィキのセオリーに反するので載せていません。それではだめですか?--ぬこ三郎(会話) 2013年4月8日 (月) 17:19 (UTC)
見解を申し上げますと、時節に応じて毀誉褒貶著しい週刊誌の芸能記事におけるの「評価」よりは、より適切な出典を以って充てるのが望ましいと考えます。スターであればこそ、そういった「評価」についてはより吟味すべきものではあるでしょう。誰が言っている評価なのかが明らかでない「業界関係者」「事情通」「識者」というのは、あんまりあてにならないし、もっとちゃんとした本があるでしょう(というよりあってしかるべき)、というのが正直なところです。--Geso(会話) 2013年4月9日 (火) 04:12 (UTC)
- この新聞とはスポーツ紙を意味しているのでしょうか。また経歴にエピソードが多数混在しており、百科事典としては不適切なため、以前のように「冗長な文章」「分割提案」のタグを貼られる可能性が高いと考えられます。また楽曲提供者の羅列などは特筆する事柄ではないと考えます。--Rinaxrinaxrinax(会話) 2013年4月10日 (水) 08:02 (UTC)
- 美空ひばりや石原裕次郎という故人であれば関連本も発売されていますし、活動を休止したミュージシャンであれば逆に評価も定まるでしょう。しかし沢田研二は未だ毎年コンサートを継続中です。そういう意味ではソースは本人談や関係者談しかないのが事実です。また、新聞とはスポーツ紙を意味しているのではなく、共同通信・読売新聞・朝日新聞の記者たちが集まったなかで、実際に彼らが「その日に取材してきたことを現場で書いて送る。特に事件のときには、裏が取れていないことを本人のコメントだけで書いていいのか。真実に近いのは時間をかけて取材した週刊誌、月刊誌の記事だ」と自戒をこめて語っていた言葉です。「楽曲提供者の羅列などは特筆する事柄ではない」ということですが、CDの売上げ枚数が優先されて語られる現在の音楽シーンのなかで、これだけ多くの作詞・作曲者たちが作品を提供し、それを歌いこなしているというのは、歌手として評価されていい部分ではないかと考えます。--ぬこ三郎(会話) 2013年4月12日 (金) 04:47 (UTC)
「影響」項目への追加
編集以下の項目を追加したいと提案します。ご意見を求めます。
「声の色気では断トツの日本人ナンバーワン」として、音楽界の識者たちから歌手総合5位にランクイン。(脚注*週刊現代2013年3月2日発売号「日本一を決めよう・日本で一番歌がうまいのはこの人だ」)
--ぬこ三郎(会話) 2013年4月9日 (火) 02:55 (UTC)
•提案から1か月以上たち、反対意見がないと判断して上記の内容を追加します。ご了承ください。 --ぬこ三郎(会話) 2013年6月3日 (月) 09:56 (UTC)
ウソ出典の多い記事
編集《特徴》の項で
- 1960年代、最大手の芸能事務所である渡辺プロダクションは、テレビと並行し~、沢田はソロ以降も全国ツアーを決行。「日本のショービジネスを変えた男」といわれる の出典は:光文社・女性自身 って何時の号の何ページなのか? 出典を確認できない。
- タブー視されていた「男性のアクセサリー」や「化粧」、「バンドサウンド」を日本の一般家庭に浸透させ、歌謡曲とロックを融合させたのが沢田研二である の出典は「rockn'on」2005年11月号渋松対談、「Music pen club」2011年2月号POPULAR Reviewであるが、この記事の沢田研二に触れた部分は201頁の数行のみ。それも内容は松村雄策がタイガースがローリング・ストーンズのカバーをやってたという話の流れで
松村(雄策)ーだって、俺はいちおうテル・ミーから聴いてるわけで、最初に買ったLPだって『アウト・オブ・アワ・ヘッズ』だぞ。沢田研二の『タイム・イズ・オン・マイ・サイド』聴いてた人と、いっしょにしてもらいたくないよ。
渋谷(陽一)ー沢田研二好きじゃん、お前。
松村ー.....まあな。お前もな。
渋谷ー.....まあな。結局、それで何が言いたいんだよ。
この後は話が変わって以降、沢田の話は全くなし。 この出典で何で「タブー視されていた「男性のアクセサリー」や「化粧」、「バンドサウンド」を日本の一般家庭に浸透させ、歌謡曲とロックを融合させたのが沢田研二である」になるの?
《カバー》の項
- 日本以外での影響は、中国語圏で「時の過ぎゆくままに」が「愛你一萬年」などのタイトルで数々の歌手にカバーされ、2012年現在、カバーされた日本の楽曲では最も多い の出典はサザンオールスターズ、中島みゆき、山口百恵など~ これは説明であって出典ではない。「2012年現在、カバーされた日本の楽曲では最も多い」と証明する正確な出典が必要。
出典をわざわざ確認する者はいないと考えてるのか、確認したがファンにとってはいい内容なので無視しているのか分からない。上で「女性週刊誌および男性週刊誌は検証可能性を満たすソースとしては信頼性が著しく欠如していると考えます。これを出典とすることは認められません。」と言いながら、:光文社・女性自身の出典は長く放置。なぜ週刊現代の「声の色気では断トツの日本人ナンバーワン」~の記事は消さないのか? 都合が悪ければ削除し、都合がよければ放置ということか? 大体、1ユーザーの見解が女性週刊誌および男性週刊誌の記事より優先されるのかが分からない。こうした出典が長く放置されている点で要注意記事と考える。--119.30.203.67 2014年4月9日 (水) 13:25 (UTC)