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バンドホテル(BUND HOTEL)とは、1929年から1999年まで横浜市中区新山下で営業していたクラシックホテルである[注釈 2]

バンドホテル
創業当時のバンドホテル
創業当時のバンドホテル
ホテル概要
所有者 竹松[1]
部屋数 32[注釈 1][2]
開業 1929年12月[1]
改装 1959年[1]
閉業 1999年5月25日[1]
所在地 神奈川県横浜市中区新山下1-2-14[3]
位置 北緯35度26分32.5秒 東経139度39分14.59秒 / 北緯35.442361度 東経139.6540528度 / 35.442361; 139.6540528座標: 北緯35度26分32.5秒 東経139度39分14.59秒 / 北緯35.442361度 東経139.6540528度 / 35.442361; 139.6540528
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山手から見た戦前の横浜港。中央左寄りの一番大きな建物がバンドホテル。
跡地に建つMEGAドン・キホーテ山下公園店。

沿革編集

創業編集

1929年12月に木造2階建てのバンドホテルは創業した[1]関東大震災の被害を受けた横浜の本格的な復興が始まろうとしていた時期で、2年前にはホテルニューグランドが開業している[1]。海岸通りを意味する「バンド」の名の通り、ホテルは港の見える丘公園のふもとにあり、当時は目の前に海が広がっていた[1]。1930年には1階のホールで日本初の国際ダンス大会が開かれた[1][4]。1937年には、バンドホテルが舞台だと言われている淡谷のり子の「別れのブルース」が大ヒットした[4][5]

第二次世界大戦中編集

1940年、竹松がバンドホテルを購入する。前年にヨーロッパで第二次世界大戦が始まり戦争の影が濃くなっていた時期だが、アメリカから日本経由で欧州へ渡る外国人の旅行手続きを斡旋したり、敵国同士の外国人宿泊客を握手させるといった経営方針で、地元新聞から賞賛された。

1941年12月の日英米戦の開戦の後、1942年半ばにかけて交換船に乗る敵国人の宿泊に利用されたのち、ドイツ大使館と契約を結びドイツ軍専用のホテルとなる。コックや医者がドイツ人になり、封鎖突破船Uボートの乗組員が宿泊した。ドイツ駐留所としての営業は、1945年5月にドイツが降伏するまで続いた[1]。なお、1945年5月の横浜大空襲では被害を受けなかった。

営業再開編集

終戦直後、疎開した竹松夫妻に代わり一時的に長男・斉藤昇に経営が任されるが、連合国軍の進駐が始まるのとほぼ同時に接収され従軍記者の宿舎となる[1]。アメリカに対する反逆罪で投獄された、「東京ローズ」ことアイバ・戸栗・ダキノの記者会見は、バンドホテルで行われた[1][4]

ホテルニューグランドに遅れること5年、バンドホテルも1956年に接収が解除され、大改修を行い翌年4月から客室数60室で営業を再開。ホテルにはミナトの異国情緒が健在で、1960年に公開された日活のアクション映画『霧笛が俺を呼んでいる』のロケ地に使われた[1]

新館編集

1959年、竹松が亡くなり経営が息子たちに引き継がれ、鉄筋コンクリート7階建ての新館が建設された[1]五木ひろしの「よこはま・たそがれ」はバンドホテルが舞台だと言われている[5]

1968年には次男・良の主導のもと新館の最上階にナイトクラブ「シェルルーム」をオープン[1][4]ウィリー沖山が支配人を勤めたこのナイトクラブは、ブレンダ・リープラターズといった世界一流のミュージシャンが顔を揃え、東京でも知られる有名クラブとなった[1][6]。政財界のトップクラスの要人やお忍びの有名人もテーブルを占め、一晩の売上はテーブル一つ分の方がホテル一部屋分より多かった[1]いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」のブルーとは、シェルルームの青いネオンサインのことだと言われている[5]

1982年には旧館を利用してライブハウス「シェルガーデン」をオープン[1][4]。若手ミュージシャンが腕を磨いた場所として有名で[1]桑田佳祐[1][4]安全地帯[1]ゴダイゴ[1][4]TUBE前田亘輝[1]尾崎豊[1][4]が出演している。

廃業編集

老朽化や大型ホテルの進出により徐々に客足が遠のき、首都高速道路建設によって眺望が失われたことが追い打ちをかけた[6]。兄弟たちが相次いで亡くなったことで、ホテル経営が斉藤昇の元に戻ってきたが、前社長の抱えた負債から競売にかけられ、1999年5月25日の閉鎖後すぐに取り壊された[1]。跡地は、MEGAドン・キホーテ山下公園店となっている[7][4]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 1940年時点の客室数。
  2. ^ 関東大震災前にも同名のホテルが存在していたが、両者の関連を示す資料は見つかっていない[2]

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 谷川泰司、竹之内知宣「第一部 横浜市」『ランドマークが語る神奈川の100年』読売新聞社横浜支局、有隣堂、2001年4月25日、44-49頁。ISBN 489660167X
  2. ^ a b 木村吾郎『日本のホテル産業100年史』明石書店、2006年2月15日、59頁。ISBN 4750322512
  3. ^ 3 amigos family studio『ブルーライトヨコハマ』徳間書店、1989年4月15日、64頁。ISBN 4195987547
  4. ^ a b c d e f g h i “Legend of Yokohama 窓を開ければ 港が見える”. 朝日新聞. (2015年3月20日). オリジナルの2015年4月13日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150413022537/http://www.asahi.com/area/kanagawa/articles/MTW20150320150160001.html 2015年4月5日閲覧。 
  5. ^ a b c 梅本洋一 (2011年1月28日). “もう「占領下」ではなくなった”. 週刊平凡. 2015年4月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月6日閲覧。
  6. ^ a b “伝説のバンドホテル シェルルーム”. 横濱 YOKOHAMA (神奈川新聞社) 2005年秋号 Vol.10. (2005-09-30). 
  7. ^ 大和田敏子 (2013年9月7日). “戦後、一世を風靡したバンドホテル。その跡地は?”. はまれぽ.com. 2014年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月15日閲覧。