フィリップ・シャイデマン
フィリップ・ハインリヒ・シャイデマン(Philipp Heinrich Scheidemann、1865年7月26日 - 1939年11月29日)は、ドイツの政治家。ドイツ社会民主党の議員として、第一次世界大戦後まもなく首相を務めた。ドイツ革命に際して、共和国設立の宣言を行った人物として知られる。
フィリップ・シャイデマン Philipp Scheidemann | |
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生年月日 | 1865年7月26日 |
出生地 |
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没年月日 | 1939年11月29日(74歳没) |
死没地 |
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所属政党 | ドイツ社会民主党 |
在任期間 | 1919年2月13日 - 6月20日 |
大統領 | フリードリヒ・エーベルト |
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在任期間 | 1920年 - 1925年 |
生涯編集
SPD編集
1865年7月26日、ドイツのヘッセン選帝侯国の首都カッセルで革職人の息子として生まれた。1879年から1883年までの印刷工の徒弟修業を経て、印刷工、社会主義系ジャーナリストなどとして働く。1883年にドイツ社会民主党(SPD)に入党する。1909年からは「ヘンナー・ピッフェンデッケル」の筆名で地元紙にヘッセン方言で書いた小説を連載していたこともある。
1903年に帝国議会議員に初当選し、1908年から1911年まではカッセル市議会議員を兼ねた。1911年にSPD書記長に就任した。1913年にはフリードリヒ・エーベルトと共に帝国議会で党議員団長に就任する。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、当初は戦争を支持する立場をとって党内の反戦派と対立したが、大戦末期には講和を支持した。大戦末期の1918年6月、帝国議会副議長に就任する。また首相バーデン公マクシミリアンの下で首相府次官を務めた。
ドイツ革命編集
1918年11月にドイツ革命が勃発し、革命を支持するデモ隊が帝国議会に迫った。こうした状況下の11月9日、皇帝ヴィルヘルム2世の退位と共に次官を辞し、帝国議会議事堂の窓からデモ隊に向かって「古く腐った帝政は崩壊した。新しきドイツの共和国、万歳!」と共和国樹立の宣言を行った(ただしこの宣言は社会民主党の総意ではなく、のちに大統領となるエーベルトは彼の行動に反発を示している)。直後に社会民主党のエーベルトやドイツ独立社会民主党(USPD)のフーゴー・ハーゼらと共に臨時政府人民代表委員となる。12月にUSPDが委員会から離脱すると、ハーゼの後任としてエーベルトと共に委員長を務める。
1919年2月にドイツ史上初めて成立した民選政府(社会民主党・ドイツ民主党・中央党によるヴァイマル連合)で首相を務めたが、パリ講和会議において連合国側が提示した内容があまりに制裁的であったことに反発し、政府内のヴェルサイユ条約受諾を支持する勢力と対立を深めた。そのためシャイデマンは首相とSPD党首を辞し、ヴェルサイユ条約受諾に反対するドイツ民主党は連立政権から離脱した。
その後編集
その後は、故郷のカッセルで1920年から1925年の5年間にわたって市長を務めた。その在任中に家にハーケンクロイツを落書きされるなど極右の嫌がらせに遭い、1922年6月には娘と公園を散歩中、極右テロ組織コンスルのメンバーによって青酸をかけられ重傷を負った。同時に国会議員も続けており、1926年にはラパッロ条約に基づいてドイツ国防軍がソ連軍と極秘裏に兵器開発などで協力している事実を国会で暴露し、第3次マルクス内閣を退陣に追い込んでいる。
1933年のナチス政権成立直後にプラハ、スイス、フランス、アメリカ合衆国を経由してデンマークに逃れ、1939年にコペンハーゲンで死去した。1953年、コペンハーゲン市当局のはからいでその遺灰は故郷カッセルに帰還し、中央墓地に埋葬された。
参考文献編集
- 成瀬治ら 『世界歴史大系 ドイツ史3』 山川出版社、1997年
外部リンク編集
- ドイツ歴史博物館経歴紹介(ドイツ語)
公職 | ||
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先代: フリードリヒ・エーベルト (帝政ドイツ臨時政府人民代表委員長) |
ドイツ国首相 初代:1919年 |
次代: グスタフ・バウアー |
先代: ジークフリート・フォン・ロデルン |
ドイツ国財務大臣 1918年 - 1919年 |
次代: オイゲン・シファー |
先代: ヴィルヘルム・ゾルフ |
ドイツ国植民地大臣 1918年 - 1919年 |
次代: ヨハネス・ベル |
党職 | ||
先代: フリードリヒ・エーベルト |
ドイツ社会民主党党首 (フリードリヒ・エーベルトと共同) 1917年 - 1919年 |
次代: オットー・ヴェルス ヘルマン・ミュラー |