フランソワ・ド・バルテルミー

バルテルミー侯爵フランソワ・ド・バルテルミーフランス語: François de Barthélemy1747年10月20日 - 1830年4月3日)は、フランス革命期の政治家、外交官。

侯爵
フランソワ・ド・バルテルミー
フランス貴族院議員
任期
1814年4月6日 – 1830年4月3日
君主ルイ18世
シャルル10世
護憲元老院議員
任期
1799年12月27日 – 1814年4月14日
君主ナポレオン1世
フランス総裁
任期
1797年5月26日 – 1797年9月5日
大統領ポール・バラス
前任者エティエンヌ=フランソワ・ル・トゥルヌール
後任者フィリップ=アントワーヌ・メルラン・ド・ドゥーエー
旧スイス連合英語版大使
任期
1791年9月3日 – 1795年11月2日
個人情報
生誕 (1747-10-20) 1747年10月20日
オーバーニュ, フランス王国
死没1830年4月3日(1830-04-03)(82歳)
パリ, フランス復古王政
国籍フランス人
政党無党派 (1791年-1795年)
クリシー派 (1795年-1797年)
専業外交官
宗教ローマ・カトリック

生涯 編集

外交官、総裁として 編集

フランソワ・ド・バルテルミーは1747年、オーバーニュで生まれ、おじのバルテルミ神父外交家として教育された。スウェーデンスイス、ついでイギリス在外公館の秘書として働いた後、スイス全権公使に任命され、1795年にプロイセン王国スペインとのバーゼルの和約を交渉した[1]

1797年5月、王党派の影響で総裁に選ばれたが、9月4日のフリュクティドール18日のクーデターピエール・オージュロー将軍に逮捕されフランス領ギアナに追放された。バルテルミーはギアナからスリナムへ逃亡し、続いてアメリカ、イギリスへ向かった[1]

フランス第一帝政 編集

ナポレオン・ボナパルトブリュメール18日のクーデター後にフランスへ戻ったバルテルミーは1800年2月に護憲元老院に登院、終身統領制フランス第一帝政の成立に貢献した[1]

1814年4月2日、バルテルミーはナポレオンを見捨て、皇帝退位法に賛成票を投じ、ルイ18世の復位に合わせて憲法草案(元老院憲法フランス語版)を作成した。この功績で彼は貴族院議員に任命された。百日天下では潜伏を余儀なくされたが、その後のフランス復古王政では侯爵に叙され、1819年に選挙法を貴族に有利なものにする改正を貴族院に提出した[1]

1830年、パリで死去した。

脚注 編集

  1. ^ a b c d   この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Barthélemy, François, Marquis de". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 3 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 448. この出典はさらに下記を出典とする:
    • Marquis de Barthélemy, Papiers, published by Jean Kaulek, 4 vols. (Paris, 1886–1888)
    • Albert Sorel, L'Europe et la Révolution française, iv. (Paris, 1892)
    • Ludovic Sciout, Le Directoire (Paris, 1895)