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フリギドゥスの戦い(フリギドゥスのたたかい)は、394年9月5日から9月6日にかけて行われた、ローマ帝国の東側を支配するテオドシウス1世と西側を支配するエウゲニウスとの戦い。敗れたエウゲニウス側にはローマキリスト教化に反対する元老院議員達も加担しており、勝利したテオドシウスによってローマ伝統の宗教は否定され、徹底的に弾圧される事になった。

フリギドゥスの戦い
Janez Vajkard Valvasor - Bitka med Teodozijem in Evgenijem.jpg
Johann Weikhard von Valvasorによるフリギドゥスの戦い (1689)
394年9月5日-394年9月6日
場所フリギドゥス川(現在のウィパッコ川en))付近
結果 テオドシウス1世が勝利し、ローマ帝国単独の皇帝となる
指揮官
テオドシウス1世,
Timasius
スティリコ,
アラリック1世
エウゲニウス
アルボガストen
戦力
ローマ人20,000人-30,000人
ゴート族20,000人 [1]
ローマ人35,000人-50,000人
被害者数
不明
ゴート族10,000人[2]
不明 (多大)

ローマ帝国を叔父ウァレンスや実弟のウァレンティニアヌス(2世)とともに共同統治していた皇帝グラティアヌスウァレンティニアヌス朝)は、ウァレンスがアドリアノープルゴート族との戦いで戦死した(アドリアノープルの戦い)後、有力将軍であったテオドシウス(1世)を共治帝に選んでウァレンスが治めていた東方諸州の統治を任せた。ところが、自身も将軍アグヌス・マキシムスの反乱で殺害されてしまう(383年)。アグヌス・マキシムスは更にウァレンティニアヌス朝の生き残りであるウァレンティニアヌス2世を討とうとするが、ウァレンティニアヌスはテオドシウス1世の元に逃れ、テオドシウスの力を借りてこれを討って皇帝の地位を回復、以降は帝国の東部をテオドシウスが、西部をウァレンティニアヌスが統治する体制となり、一旦は安定したかに見えた(388年)。

ところが、ウァレンティニアヌスは392年になって彼に仕えるフランク族の将軍・アルボガストによって殺害されてしまう。フランク族であったアルボガストは自ら皇帝にならず、学者のエウゲニウスを皇帝に擁立する。これに対して、テオドシウスが進めていたキリスト教の国教化と伝統宗教の廃絶政策に不満を抱いていたローマの元老院議員達も支持を表明してニコマコス・フラウィアヌス父のようにエウゲニウスの高官になる者も出た。

この動きに激怒したテオドシウスは394年になってコンスタンチノープルからイタリアに進撃、9月にテオドシウスはエウゲニウスとイタリア北部のフリギドゥス川(現在のウィパッコ川en))のほとりで激突した。初日こそはアルボガストの善戦でテオドシウスは苦戦を強いられたが、翌日に発生した砂嵐を巧みに利用したテオドシウスがスティリコらの奮闘もあって戦況を逆転させてエウゲニウスを打ち破り、エウゲニウスを処刑してアルボガストとフラウィアヌス(父)を自殺に追い込んだ。勝利してローマ帝国単独の皇帝となったテオドシウスはローマの元老院を圧迫してローマの伝統宗教の廃絶と異教の徹底弾圧に同意させ、ローマ帝国のキリスト教化を完成させた。だが、フリギドゥスの戦いからわずか4か月後(395年1月17日)に帝国の西側の首都とされていたミラノでテオドシウスが急死、再統一されたローマ帝国は再び彼の2名の息子の間で分割された(テオドシウス朝)。日本ではこれをもって「ローマ帝国の東西分裂」と称されるが、兄弟間における帝国の分割は前のウァレンティニアヌス朝でも行われており、テオドシウス1世の没後にローマ帝国を再統一した皇帝が出現しなかった結果によるものである。

脚注編集

  1. ^ John Julius Norwich, Byzantium: The Early Centuries, 115
  2. ^ The Dynasty of Valentinian and Theodosius the Great, Norman H. Baynes, The Cambridge Medieval History, Vol.1, Ed. H.M.Gwatkin and J.P. Whitney, (Cambridge University Press, 1911), 247.

参考文献編集

  • ジョージ・C・コーン著、浅岡政子・鈴木主税訳『世界戦争事典 改訂増補版』(河出書房新社、2006年、ISBN 978-4-309-22448-0) P579-580 「ローマの内乱 (387-88)」「ローマの内乱 (394)」