ブラム・ストーカー
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ブラム・ストーカー(Abraham "Bram" Stoker、本名:エイブラハム・ストーカー、1847年11月8日 - 1912年4月20日)は、イギリス時代のアイルランド人の小説家。怪奇小説の古典『ドラキュラ』で知られ、同作品は吸血鬼ものの定番となった。
ブラム・ストーカー Bram Stoker | |
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![]() Stoker c. 1906 | |
誕生 |
1847年11月8日![]() |
死没 |
1912年4月20日 (64歳)![]() |
職業 | 小説家 |
最終学歴 | トリニティ・カレッジ (ダブリン大学) |
活動期間 | ヴィクトリア朝、Edwardian era |
ジャンル | ゴシック小説、恋愛小説 |
文学活動 | Dark romanticism |
代表作 | 『吸血鬼ドラキュラ』 |
配偶者 |
Florence Balcombe (m. 1878) |
子供 | 1 |
サイン |
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略伝 編集
1847年11月8日、グレートブリテン及びアイルランド連合王国のアイルランド・ダブリンでアイルランド政庁の公務員である父母の3人目として生まれた。6人の兄弟がいる。病弱で7歳まで歩けなかった。16歳、ダブリン大学のトリニティ・カレッジに入学。オスカー・ワイルドとは知り合いであり、クリスマスに彼の両親に招かれたこともある(後にワイルドの恋人だった女優のフローレンス・アン・レモン・バルコムと結婚する)。
劇に興味を持ち、劇評を書いたりしてヘンリー・アーヴィングと知り合う。大学卒業後は政庁に就職するものの文筆活動は継続し、カレッジの先輩シェリダン・レ・ファニュの女吸血鬼小説『カーミラ』を読む。30歳、アーヴィング劇団の秘書になった。アーヴィングのライシーアム劇場のビーフ・ステーキ・クラブの運営も手伝う。
43歳、アーヴィングの家でハンガリーのブダペスト大学の東洋言語学教授アルミニウス・ヴァーンベーリに出会う。ある図書館で『ワラキア公国とモルダヴィア公国の物語』に「串刺し公」ヴラド・ツェペシュの記述を発見し、1897年に『ドラキュラ』を出版する。ただちにアーヴィングが演劇化したこともあり、この小説はよく売れた。その収入はアーヴィングの死後、ライシーアム劇場が焼失した際の処分費用に使われたという。1912年4月20日死去。64歳没。
子孫 編集
甥の曾孫にあたるデイカー・ストーカーは、『新ドラキュラ』を発表した[1]。
作品リスト 編集
関連書 編集
脚注 編集
関連項目 編集
- ブラム・ストーカー賞 - アメリカのホラー作家協会が選ぶ、その年にもっとも大きな業績を残したホラー小説に与えられる賞。
- 白蛇伝説 (1988年の映画)