プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカラテン語: Publius Cornelius Scipio Nasica, - 紀元前171年頃)は、共和政ローマ政務官アグノーメン(第四名)の「ナシカ」とは「とがった鼻」の意。

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プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ
P. Cornelius Cn. f. L. n. Scipio Nasica[1]
『キュベレ崇拝のローマ到来』アンドレア・マンテーニャ画(1505年頃)ナショナル・ギャラリー所蔵
死没 紀元前171年
出身階級 パトリキ
一族 スキピオ家
氏族 コルネリウス氏族
官職 クァエストル(紀元前200年頃)
ウェヌシア入植3人委員(紀元前200年)
上級按察官(紀元前197年)
法務官(紀元前194年)
前法務官(紀元前193年)
執政官(紀元前191年)
プロコンスル(紀元前190年)
アクイレイア入植3人委員(紀元前183年)
レガトゥス(紀元前183年)
ヒスパニア属州民弁護団(紀元前171年)
指揮した戦争 ヒスパニア戦争
ローマ・ガリア戦争
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一族編集

パトリキの名門コルネリウス氏族スキピオ家の出自。一族も皆執政官経験者ばかりである。

略歴編集

建国以来、「最高の人物」と元老院によって宣言されたのは、スキピオ・ナシカだけである。それでも、純白のトガを纏って(立候補して)二度民衆に拒否され、最後には祖国で死ぬことすら許されなかった。
大プリニウス、『博物誌』7.34.120

紀元前205年[2]ティトゥス・リウィウスによれば、幾度も石の雨が降り注いだため、『シビュラの書』が開かれ、ペッシヌスから「イーダ山の母」を迎え入れれば、いかなる敵が来ようとも勝利を得ると解読され、またアポローンの神託でも、勝利の予言が得られたため、どう迎え入れるか検討された[3]。ローマはアシアアッタロス1世を頼ることにし、マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスら5人からなる使節団を派遣した[2]。使節団は道中デルポイに立ち寄り、そこで「ローマでも最高の人物が女神にふさわしい歓待をするべし」との神託を受けた[4]紀元前204年[5]、判断基準は不明だが、グナエウス・スキピオの息子であるナシカが最良であると元老院が決定し、ナシカはクラウディア・クィンタを筆頭とする女神を運ぶための女官たちと共にオスティアへ迎えに行くと、4月12日にウィクトーリア神殿に女神を持ち込んだため、この日を記念して後にメガレシアの祝祭が行われるようになったという[6]

紀元前204年から199年の間にクァエストルを務めたと考えられている[7]紀元前197年に上級按察官(アエディリス・クルリス)、紀元前194年に法務官(プラエトル)に就任。ヒスパニアルシタニア人を相手に勝利を収める。紀元前191年マニウス・アキリウス・グラブロと共に執政官(コンスル)を務める。コンスル職にある間は北イタリアのケルト人部族を制圧した。

紀元前189年紀元前184年と検察官(ケンソル)に立候補したが、選ばれなかった。

出典編集

  1. ^ MRR1, p. 352.
  2. ^ a b MRR1, p. 304.
  3. ^ リウィウス, 29.10.
  4. ^ リウィウス, 29.11.
  5. ^ MRR1, p. 308.
  6. ^ リウィウス, 29.14.
  7. ^ MRR1, p. 324.

参考文献編集

公職
先代
ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌス
グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス
執政官
同僚:マニウス・アキリウス・グラブリオ
紀元前191年
次代
スキピオ・アシアティクス
ガイウス・ラエリウス