プロビデンス (コミック)
『プロビデンス』(Providence) は、アラン・ムーア原作、ジェイセン・バロウズ作画による全12号のコミックブックシリーズ。クトゥルー神話の始祖として知られる20世紀初期の怪奇小説作家H・P・ラヴクラフトの作品群を再解釈した作品で、ムーアが1980年代に行ったスーパーヒーロー・ジャンルの脱構築になぞらえて「ホラーの『ウォッチメン』」と呼ばれることがある[1]。2003年の『中庭』、2010年の『ネオノミコン』に続くシリーズ最終作で、2015年から2017年にかけて米国のアヴァター・プレスから刊行された。2021年から2024年にかけて国書刊行会から日本語版単行本全3巻が刊行されている。
プロビデンス (コミック) | |
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出版情報 | |
出版社 | アヴァター・プレス |
ジャンル | ホラー |
掲載期間 | 5月 2015年 – 4月 2017年 |
話数 | 12 |
製作者 | |
ライター | アラン・ムーア |
アーティスト | ジェイセン・バロウズ |
レタラー | カート・ハサウェイ |
着色 | フアン・ロドリゲス |
製作者 | アラン・ムーア ジェイセン・バロウズ |
あらすじ
編集20世紀初頭の米国ニューイングランド地域を舞台に、新聞記者ロバート・ブラックが各地の隠秘学者を取材する様子が描かれる。作中の出来事や人物はいずれも実在の作家H・P・ラヴクラフトによる小説作品がモデルになっている。同性愛者であることを秘密にしているブラックは、ただ自身のように社会の隅に追いやられた者たちに出会うことを期待していたのだが、旅の過程で不可解な現象に遭遇するうちに、歴史の表層の下には抑圧された無意識のような巨大な底流が存在することが明らかになってくる。やがてブラックは無名時代のラヴクラフトと知り合い、それによって世界の行く末を決定的に変えることになる。
各話の内容
編集第1章 黄色い印
編集1919年[2]。新聞記者で小説家志望のロバート・ブラックは、隠秘学について取材するため識者の医師アルバレズを訪ねる。アパートの一室は冷房装置によって異様な冷気が漂っていた。アルバレズはアラビア語の古文書に人の寿命を延ばす方法が複数書かれていたことを語る。
その後ブラックは、同性愛者であることが明るみに出そうになったために関係を絶ったばかりの恋人が自殺したことを耳にする。心を乱されたブラックは、米国社会の裏に潜む隠秘主義者たちを取材して通常の世界からは見えない存在となっているはぐれ者たち
のメタファーとして小説化することを思い立つ[3]。
- 章タイトルはロバート・チェンバースによる実在作品『黄衣の王』からの引用[4]。「キタブ」と呼ばれるアラビア語の古文書は本作における「ネクロノミコン」である[5]。アルバレズは短編小説「冷気」の登場人物ムニョスに相当する[6]。
第2章 ザ・フック
編集ブラックは古文書の手がかりを辿ってブルックリンのレッドフック地区に好事家サイダムを訪ねる。サイダムはマサチューセッツ州セーラムに古文書の英訳写本があることと、同書を崇める隠秘学結社ステラ・サピエンテの存在を語る。サイダムが席を外した間に地下室に足を踏み入れたブラックは、蛍光を発する女性型の怪物に襲われて気を失う。元の部屋で目を覚ましたブラックは見たものを夢だと解釈する。
- この号に登場する人物や怪異は短編「レッド・フックの恐怖」から取られている[7]。
第3章 潜み棲む恐怖
編集ブラックはセーラムに向かい、サイダムに紹介された骨董商トビト・ボッグズを取材する。ボッグズとその顧客たちはブラッグの来訪を予期していた。かつてボッグズの祖父もステラ・サピエンテの会員だったが、移民の女性と結婚したことで差別されて縁が切れたのだという。町には魚のような独特の容貌の住民が多く、その夜ブラッグは、同性愛者たちと並んで人面魚たちが冷然とガス室で殺戮されるイメージを夢に見る。
- 章タイトルは「潜み棲む恐怖」から。舞台は「インスマスの影」から取られており、トビト・ボッグズはインスマスの住人オーベッド・マーシュと関連がある[8]。ボッグズの顧客の一人、インクリース・オーンは「恐ろしい老人」で描かれる人物にあたる[9]。
第4章 白い猿たち
編集ボッグズから紹介された世捨て人の隠秘学者ガーランド・ホイートリーによると、ステラ・サピエンテは1889年に「救世主の予言」を成就させるための計画を遂行し、用済みになった写本を地域の大学に寄贈した。ホイートリー自身は別の計画を提案したため異端とされて除名されていた。ブラックはホイートリーの娘と孫息子に引き合わされ、近親相姦を疑う。孫息子は年齢に似合わない異様な風体で、ブラックを自分たちの「競争相手」の「先触れ」と呼ぶ。ブラックはその意味を理解せず、その家にもう一人の目に見えない超常的な存在がいたことにも気づかなかった。
- 章タイトルは「アーサー・ジャーミン卿の秘密」の別題の引用[10]。ホイートリー家の設定は「ダンウィッチの怪」のウェイトリー家に基づいている[11]。
第5章 壁の中
編集ブラックは写本が所蔵されている大学に向かい、近隣で老婦人ヘキザイア・メイシーが営む下宿に投宿する。その夜半、ブラックの寝室をメイシーが魔女のような姿で訪れる。メイシーやその同類はそれぞれの方法で死を克服し、長い年月を生き延びてきたのだという。その目的はただブラックに会うためだった。肝をつぶしたブラックは屋敷を逃れ、知り合ったばかりの大学助手ヘクター・ノースの家に逃げ込む。
- 章タイトルは「壁のなかの鼠」から取られている[12]。ブラックが訪問するセント・アンセルム大学はこの世界におけるミスカトニック大学である[13]。ヘキザイア・メイシーは「魔女の家の夢」のキザイア・メイスンを模しており、ヘクター・ノースは「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」に当たる[12]。
第6章 時間の外
編集ブラックは大学で「ハリの書」を閲覧する。そこには救世主とその先触れの出現が予言されていた。ブラックは世界の終末と新生、そしてそれを妨げる手段について書かれた一節に目を引かれ、日誌に書き写す。
現実感覚を失ないながら図書館を出たブラックは、13歳にして大学で学ぶ少女エルスペス・ウェイドと行き会い、そのアパートに誘い込まれる。エルスペスの正体は意識を他人の肉体に移しながら生きてきた長命者だった。ブラックは一時的に肉体を交換され、自身の男根によって強姦される。
- 章タイトルは「時間からの影」の原題に由来する。エルスペスは「戸口にあらわれたもの」のアセナス・ウェイトに当たる[14]。
第7章 絵
編集ブラックは錯乱しながらボストンに向かい、ステラ・サピエンテと関わりがあった幻想画家ロナルド・ピットマンを訪ねる。ピットマンはブラックに同情し、隠秘主義者たちが夢を通じて人の精神に影響を与えることを明かすと、自身がインスピレーションを得る方法を体験させようと申し出る。暗い地下室に誘われたブラックの目の前に巨大な食屍鬼が姿を現し、親しげに言葉を発する。階上に戻ったブラックは、すべての怪奇体験を催眠術による深層心理のいたずらと解釈する。
- ピットマンは「ピックマンのモデル」で登場したリチャード・アプトン・ピックマンに当たる[15]。
第8章 鍵
編集ブラックはピットマンから作家ランドール・カーヴァーを紹介され、芸術論を交わす仲になる。カーヴァーは現実と夢世界を往還する方法を研究していた。ブラックは瞑想の中でカーヴァーとともに地下への階段を下り、蝙蝠のような怪物が飛び交う夢世界の入り口を垣間見る。
ある晩ブラックは幻想小説家ロード・ダンセイニの朗読会でアマチュア作家H・P・ラヴクラフトと意気投合し、ロードアイランド州プロビデンスにある住まいを訪ねていく約束をする。
- ランドール・カーヴァーはラヴクラフト作品の多くに登場するランドルフ・カーターに当たる[16]。章タイトルは「銀の鍵」「銀の鍵の門を越えて」の引用[17]。
第9章 アウトサイダー
編集プロビデンスに到着したブラックは、当地に住むステラ・サピエンテの一員ヘンリー・アンネスリーを取材する。アンネスリーは結社の活動について率直に語るが、ブラックはその表層しか理解しない。その後ブラックはラヴクラフトを訪ね、親交を深める。その周囲には常に不可視の異様な生物たちが浮遊しているのだが、ブラックがそれに気づくことはなかった。
第10章 魔の宮殿
編集ラヴクラフトはブラックが各地での体験を記録した日誌を借り受けて読み、生涯にわたる創作活動のインスピレーションを受ける。それを喜んだブラックだったが、ふとした会話の中でラヴクラフトの亡父がステラ・サピエンテの一員だったことに気づく。それをきっかけにブラックの中で断片的な事実が符合し始める。過去数世紀にわたる結社の活動には、現実によって抑圧されて夢となった古い世界を復権させるという目的が貫かれていた。そのために計画的な婚姻によって生み出された「救世主」がラヴクラフトだった。失われた世界はブラックを介してラヴクラフトに伝えられ、物語として語られることで再び創造されることになる。
何も知らないラヴクラフトと別れて宿に戻ったブラックの前にナイアルラトホテップを名乗る男性が現れ、先触れの役割を果たした労いとしてブラックに口淫をほどこす。
- 章タイトルはエドガー・アラン・ポーの小説「アッシャー家の崩壊」に含まれる詩の題の引用。この号でのブラックの経験は「闇をさまようもの」の主人公ロバート・ブレイクの運命に対応する[19]。
第11章 名状しがたいもの
編集ブラックは旅の初めに出会った刑事に手記を託し、自ら命を絶つ。
それから100年ほどの間に起きたことが圧縮して語られる。ブラックが出会った隠秘主義者たちの一部は長命術の継続に失敗して人知れず消滅し、セーラムの「移民」たちは当局に存在を察知されて虐殺される。ラヴクラフトも自らの運命に気づかないまま無名のカルト作家として早世する。しかしその作品世界はオーガスト・ダーレスらに継承され、「クトゥルー神話」として現代文化の隅々に浸透していく。ラヴクラフトが創作した魔術書「ネクロノミコン」は一部で実在が信じられるようになる。
やがてシリーズ前編で語られた出来事が起きる。FBI捜査官メリル・ブレアーズはオカルト信者に拘束され、魚人と番わされて子どもを宿した。その胎児こそが、未だ眠りの中にあるクトゥルーその人だった。誕生が近づくにつれてクトゥルー神話の世界が現出したかのような天変地異が起き始める。
第12章 本
編集FBIでブレアーズの上官だったカール・パールマンは警察に保管されていたロバート・ブラックの手記を読み、異界からの侵略者がラヴクラフトの著作をミーム兵器として人類の集合的無意識を攻撃していると結論付ける。対抗手段を探すパールマンは、導かれるようにステラ・サピエンテの生き残りたちとブレアーズのもとにたどり着く。パールマンの眼前でクトゥルーが産み落とされ、現世は完全に夢と入れ替わる。パールマンはブラックの手記にアポカリプスを覆す手段が記録されていることを指摘するが、わずかに残された人間たちは奇妙な平静さで世界の変容を受け入れている。パールマンは手記を引き裂いて捨てる。
登場人物
編集過去(1919年)
編集- ロバート・ブラック
- ニューヨーク・ヘラルド紙に勤める新聞記者。ゲイでユダヤ人であることを周囲に隠している。文学趣味があり、アウトサイダーの視点からアメリカ社会を描く小説を書こうとする[20]。表面的には温和で礼儀正しいが、内心は辛辣[13]。
- ハワード・フィリップス・ラヴクラフト
- ロードアイランド州プロビデンスに住む作家の卵。本作の時点では20代の末で、同人雑誌に小説を発表し始めたばかりである。
現代
編集- メリル・ブレアーズ
- 前作『ネオノミコン』の主人公。FBI捜査官。カルト集団を潜入捜査中にレイプされて妊娠してから奇妙な行動を取っている。
- カール・パールマン
- ブレアーズらの上官で、初老の白人男性。ブレアーズが精神的に不安定だった時期に関係を持ったことがある[13]。
- ジョニー・カルコサ
- 常にバンダナのようなもので顔の下半分を隠しており、摩擦音の多い独特の喋り方をする。「ナイアルラトホテップの化身」としてブレアーズの夢の中に現れ、神聖受胎を祝福した。
制作背景
編集原作
編集H・P・ラヴクラフト (HPL) はムーアが幼少期から関心を持ち続けていた作家で[21]、初期の『スワンプシング』(1985) から後年に至るまで作中にオマージュがある[22]。ムーアは1990年代に、HPLの連作詩「ファンギ・フロム・ユゴス」(→ユゴスより来るもの)を下敷きにした散文のアンソロジー「ユゴス・カルチャーズ」を構想した。この連作は完成に至らなかったが一部が短編小説「中庭」(1994)[注 1]として発表された。擬古的な模作に陥らないよう現代的な設定が選ばれ、HPLの人種差別性や女性嫌悪を批評的に描く作品だった。このアプローチに手ごたえを感じていたムーアは、2003年に「中庭」がアヴァター・プレスからコミック化されたのを機に同作のテーマをさらに発展させることにした。2011年に発表された全4号のコミック『ネオノミコン』は、HPLが作品によって予言していた邪神クトゥルーが、主人公女性のレイプと妊娠を通じて現代の地球に誕生するというストーリーだった。その後ムーアは、物質主義者であるはずのHPLがなぜ超常的な世界を幻視していたかという謎がまだ語られていないことに気づき、シリーズ最終となる今作では時代をさかのぼってHPLの人間性や創作の過程に焦点を当てた[23]。
「クトゥルー神話」の祖として後世に巨大な影響を与えたラヴクラフトは文学の本流からは黙殺されてきたが、時代とともに再評価が進み、2000年代には盛んにカルチュラル・スタディーズの研究対象にされるようになった[25]。ムーアは本作のため、数年にわたって手に入る限りのHPL研究書を読破した[26][27]。高校をドロップアウトしてから自己流で創作を続けてきたムーアにとって、文学研究の価値を初めて認識する経験でもあった[25]。ムーアは現代のクトゥルー神話創作が時代遅れになったラヴクラフト観に基づいていると考え、最新の知見に基づいた究極のラヴクラフト作品
を作ろうと考えた[21]。特にアイディアの源になった書籍としては、グレアム・ハーマンが哲学の思弁的実在論をラヴクラフトに適用した Weird Realism: Lovecraft and Philosophy や、S・T・ヨシによる評伝 Lovecraft And The Decline Of The West が挙げられている[25][27]。逆に賛成できなかったのはミシェル・ウエルベックの評伝『H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って』である。同書は人間嫌いのペシミストという一面を強調していたが、ムーアが見るHPLは、自身の神経症を誇張する一方で故郷と友人を愛する温かい人物だった[25]。
精神科医で文芸批評家のディルク・W・モジグはHPLの作品全てが一つの大きな小説(ハイパーノベル)を構成しているという説を唱えた。ムーアはこのアイディアを取り入れた[28]。HPL作品の多くは舞台となる時代や地域が重なっており、ムーアはそれらの登場人物や事件の間のつながりを考えていった。ただしそれは、ラヴクラフトの追従者が体系化した「クトゥルー神話」とは目指す方向が異なっていた[29]。HPLの作品群を伝記的事実や第一次世界大戦後の不安定なアメリカ社会という文脈の中に位置づけるのがムーアの狙いだった[30]。舞台となる時代は1919年とされた。ムーアによるとこの年は後世の人間がイメージするHPLが完成する以前であり、クトゥルーの創作や、ロバート・E・ハワードやクラーク・アシュトン・スミスらとの親交はまだ先のことだった。同時に米国の政治面でも興味深い時期で、女性参政権運動や禁酒法施行の前夜だった。ムーアはこの時代設定により、「現代アメリカとアメリカン・ホラー」の誕生を描こうとした[23][27]。
ムーアはHPLの独自性が、当時の米国社会が持っていた集団的な恐怖を感じ取っていたところにあると述べている[5]。HPLは自分が社会的アウトサイダーだと考えることを好んでいたが、実際にはWASPの異性愛男性というマジョリティに属しており、外の集団に対する偏見を持っていた。それを相対化するため、視点人物であるロバート・ブラックはゲイ男性のユダヤ人に設定された[20]。
作画
編集ジェイセン・バロウズは2002年からホラーコミック出版社のアヴァター・プレスでもっぱら活動してきた作画家である。バロウズにとってムーアは伝説的な原作者で、小説「中庭」のコミック化を手掛けた時点では「アラン・ムーアの本に関われるチャンスはこれが最後だろう」と考えていた。しかし画風を気に入ったムーアによって「ネオノミコン」や本作の共作者に指名され、それらが自身の代表作になった[31]。刊行開始前から数年にわたって取り組んだ本作についてはほんとうに疲れる仕事だった。終わったときは大学を卒業したような気がした
と述べている[31]。
バロウズはムーアの流儀にならって作品研究や時代考証を徹底した[31]。ムーアの考えでは、現代の読者にとってHPL作品が古めかしく大仰に感じられるとしても、HPL自身はリアリズムを志向していた。執筆当時のリアルな現代世界にありえないような怪奇が出現する落差が恐怖の源となっているのだという[32]。ムーアは歴史上の米国の描写にまったく違和感を持たせないことにこだわった[33]。本作の作画では小道具や衣装のほか風景に至るまで入念な考証が行われており、2ページほどの背景に登場する建物一つのために300枚以上の資料画像が用意されることもあった[31]。登場人物の足取りもその時代の地図を用いて細かく決められている[34]。
ラヴクラフトは怪物や怪異を具体的に描写する代わりに、それが「名状しがたい」ものだとする表現を多用していた[35]。ムーアはそれが異化効果を狙った意図的な技法であると考え[28]、邪神クトゥルーを「触手を持った怪物」として絵にすることはHPLの原典と相容れないと主張した[27][注 2]。「絵に描けないものを絵にしろ」というのはバロウズにとって困難な注文だった。バロウズは自身の長所がすっきりした線とディテールの明瞭さにあると考えており、スタイルの一貫性を保つため、怪物を描く場面でも抽象的な表現に頼ることはできなかった。そこで代わりに質感の異様さを強調したり、何らかの光学的効果を取り入れることで、克明に描きながらも全容を把握できないようにした[31]。
ムーアは格子状の定型的なコマ割りを特徴とする原作者で、「中庭」では各ページが縦長2コマに等分されており、『ネオノミコン』と『プロビデンス』では縦並びの横長4コマが基本とされた。横長のコマは人物を配置するのが難しく、またムーアの脚本はコマごとの情報量が多かったため、バロウズは構図の腕を試されることになった[34]。
刊行の経緯
編集2015年5月、アヴァター・プレスから全12号の月刊シリーズとして発刊された[34]。この時点で脚本は最終号まで完成していた[27]。 通常版のほか、表紙違いの版が4種類以上制作された。その中にはHPL作品に登場する超常存在を表紙の題材にした「パンテオン」版や、女性キャラクターを描いた「ウィメン・オブ・HPL」版などがある[34][36]。
2017年7月にはアヴァターからジェイセン・バロウズの設定画などを集めた書籍 Dreadful Beauty: Art of Providence が出た[37]。2021年4月には複数の作画家によるトリビュート画集 Nightmares Of Providence が白黒64ページのコミックブックとして刊行された[38]。
作風とテーマ
編集構成
編集ムーアの過去作『ウォッチメン』と同じく、各号の巻末には文章のページがある。多くの号では主人公ブラックが日々記録した備忘録からの抜粋が掲載されており、コミック本編では語られなかったブラックの本心や人間性が垣間見える重層的な構成となっている[13][39]。Maciej Sulmickiは本作のリアルな作画が史実を忠実に反映していることを指摘して、「客観的」なビジュアル表現と主観的な文章との対比が解釈の上で重要だと書いている。多くの場面では、コミック本編で超常的な現象が起きたことが示されていても、ブラックの備忘録はそれに合理的な説明をつけて異常性を見過ごしている[40]。
本作では横長の4コマを積み重ねるようにページを分割する定型的なコマ割りが採用されている。クレイグ・フィッシャーによると、横長のコマには登場人物の全体を描くことはできず、建築や自然物のディテールがコマの周縁を埋めることになる。フィッシャーはこの構図が人間の存在の無意味さや、人間の知覚の辺縁にホラーが存在するというHPLのテーマ
に適していたと書いている[13]。
テーマ
編集ラヴクラフトは自身の作品から性やエロティシズムを排除していた。一方でムーアは、性を抑圧すると心的なエネルギーが代わりに暴力に向かうという持論を持っていた。ザカリー・ラトリッジの批評によると、ムーアはこの説をHPL作品に当てはめ、抑圧された暴力的な性的要素が存在することを明らかにしている[41]。HPLの『ダンウィッチの怪』では女性がヨグ=ソトースと呼ばれる神との間に子どもを作るが、女性の人間性が深く描かれることはない。本作の第4章はこのエピソードを語り直すにあたって、その女性が同意できない状況で妊娠させられた経緯や、その経験が残したトラウマに焦点を当てている[41]。『戸口にあらわれたもの』には他者の肉体に意識を移すことができる人物が登場するが、本作第6章ではその人物が行うレイプを通じて肉体を奪われる恐怖が強調され、原典でも性的同意のない性交が行われていたことが浮き彫りにされる[42]。ラトリッジによると、ムーアは現在ではミソジニーとみなされるこれらの要素を正面から取り上げることで現代的なホラーを構築している[43]。
文学者ジャクソン・エアーズは本シリーズについてそこで描かれる暴力と荒廃感には、ムーアが考える現代文化の恐るべき実相が込められている
と書いた[44]。エアーズによるとムーアはHPLの人種差別性や女性嫌悪、セクシュアリティ観を掘り起こすことにより、パルプ小説からその後の米国コミックに受け継がれたイデオロギーを批評的に描き出している[45]。またエアーズは、本作には現実の政治的状況の寓意が込められているとも書いている[46]。本作の結末では、人間の現実
というもろい構築物
が取り払われ、世界は混沌とした非理性的な実相を明らかにする。作中人物たちは現実の変容をプロビデンス(→摂理)
として受容する[47]。エアーズはそこに、ムーアが批判している英国保守党長期政権や、ドナルド・トランプのような政治家の大衆扇動がもたらすモラルハザードへの懸念を読み取っている[48]。
魔術と創作論
編集アラン・ムーアは魔術師を自称する神秘主義者であり、創作とは魔術の一形態であって現実に力を及ぼすことができると主張している[49]。ラヴクラフトの表現によって世界が変容するという本作のストーリーはミームが人の精神に影響を与える力を表しており、ムーアが魔術と呼ぶのはそのような力である[5]。
本作の第11章がメタフィクションとして描いているように、ラヴクラフトの創作は現実のオカルトに影響を与えている。英国の神秘学者ケネス・グラントはHPLが夢を通じて神秘的な存在から啓示を受けていたと主張した[51]。1970年代に勃興した混沌魔術はフィクションと現実の間に明確な区別を認めておらず、クトゥルーやヨグ=ソトースといった創作上の神々は実際に交信可能だとしている[51]。ムーアは無神論者だった実在のHPLをオカルトと関係づける言説そのものには否定的であるが、ジェイク・ポーラーによると、そのようにフィクションが人間の想像力に組み込まれて現実という味気ないフィクション[49]
を覆す力を持つことこそ、ムーアのいう魔術そのものである[49]。
旧作との比較
編集ムーアは本作でいくつかの過去作と同じアプローチを用いたと述べている[26]。ホラーのような現実離れしたジャンルを可能な限りリアルな背景世界に置く手法は、スーパーヒーロー・ジャンルを再定義した『ウォッチメン』(1986) と同じだという[23][26]。米国産ホラーの脱構築を通じて米国の文化や社会を描き出す試みとしては、『スワンプシング』誌の長編ストーリー「アメリカン・ゴシック」(1985) が先行している。徹底した考証によって歴史上のある時代を再現する点は『フロム・ヘル』(1989) に通じている[26]。英文学者クレイグ・フィッシャーは、本作がムーア自身のキャリアをメタ的に総括したものだという見方を示している。ムーアは自作の安易な翻案やスピンオフ化をめぐって米国の大手出版社と長く遺恨を抱えており、出版社側に立つファンとも対立してきた。ムーアはコミック界への批判を強めていき、2016年には原作者を引退することを発表した。本作は最後の時期に書かれたコミック作品の一つであり、フィッシャーの説ではムーアは作中のラヴクラフトに自らのコミック作家としての業績を仮託している[16]。
研究者M. Cecilia Marchetto Santorunは、ムーアのクトゥルー連作が、過去に『プロメテア』(1999) などで取り組んだ「創作の力」のテーマを逆方向から描いているとした[22]。『プロメテア』の主人公は、想像力を通じて人間の精神を解放し、永遠なるものと一体化させることで古い世界に終わりをもたらす存在だった[52]。本作では逆に崇高なものを想像することの危うさが描かれている[22]。クトゥルーによる「世界の終わり」は堕落した抑圧的な世界からの解放という面も持っているが、その後に来るのはあらゆる意味が完全に失われた世界でしかない[53]。作中に登場するカルト集団は、乱交や異種間性交に耽る中で世界を破滅させる邪神クトゥルーを生み出してしまう。Santorunはそれが、ユートピア的な自由と精神の解放を謳っていたカウンターカルチャー運動の陰画だと指摘している(この運動はムーア自身の人格形成にも大きな影響を与えていた[54])[55]。
クレイグ・フィッシャーも本作を『プロメテア』と対比させている。『プロメテア』は本質的に善良な世界の物語であり、「セフィロトの木」に象徴される精神の探求を通じて自己を超越した平安に到達することができた。『プロビデンス』はそのアンチテーゼであり、同じセフィロトの木から他者を侵害する邪悪な力が引き出される[56]。
社会的評価
編集評価
編集本作はレビュー収集サイトのコミックブック・ラウンドアップにおいて批評家から9.3点、一般読者から9.4点(10点満点)の評価を与えられている[57]。
HPL愛好者の国際団体であるH・P・ラヴクラフト歴史協会は刺激的で、徹底した調査に基づいており、ラヴクラフトの作品群を初めて読み返すような気にさせてくれる
としている。同団体のレビュアーは序盤の静かな展開を表向きはほとんど何も起きていないにもかかわらず、精巧な機構のように徐々に緊張が高まっていく巧緻のストーリーテリング
と評し、作中で本当に超常現象が存在しているのか、読者が自身の恐怖を投影しているだけなのか分からないと書いた[39]。英国の一般紙『ガーディアン』はホラー要素が日常風景の中にさりげなく埋め込まれている点を称賛し、単に神経に触るというだけでなく、本当の衝撃を与える
とした[58][59]。コミックブックメディアのブリーディング・クールは、ハリウッド映画のホラーが「怪物と戦って勝利し、支配感を取り戻す」という定式に則っているのに対して、本作は失敗、不能、無力感、破滅に屈したことの甘受
を描く真のホラー
だと評した[60]。
ジェイセン・バロウズのアートに対するファンの評価は様々で、端正な画風が好まれることもあれば、勢いのなさを批判されることもある[16]。クレイグ・フィッシャーはコミック評論誌『コミックス・ジャーナル』において、静かな展開から突然恐るべき怪奇が出現するストーリーにはバロウズの平静で写実的な画風が合っていると書いている[16]。ほかの書評でもジェイセン・バロウズの正確な輪郭画や[60]ディテールの妙は高く評価されている[58]。
単行本第1巻は2016年にホラー作品を対象とするブラム・ストーカー賞のグラフィックノベル部門にノミネートされた[61]。
単行本
編集英語版単行本には以下がある。いずれもアヴァター・プレス刊。
- Providence Act 1 Limited Edition Hardcover(第1–4号収録、160ページ、2016年5月、ISBN 9781592912810)
- Providence Act 2 Limited Edition Hardcover(第5–8号収録、176ページ、2017年6月、ISBN 9781592912926)
- Providence Act 3 Limited Edition Hardcover(第9–12号収録、144ページ、2017年9月、ISBN 9781592912933)
- Providence Compendium(全号収録、480ページ、2021年、ISBN 9781592913398)
国書刊行会から日本語版が刊行されている。シリーズ全4巻の第1巻は前作「ネオノミコン」と「中庭」からなり、残る3巻に本作「プロビデンス」が4話ずつ収録されている。翻訳は柳下毅一郎による[62]。
- 〈ネオノミコン〉シリーズ第1巻『ネオノミコン』 (184ページ、ハードカバー、2021年10月、ISBN 978-4-336-07268-9)[63]
- 〈ネオノミコン〉シリーズ第2巻『プロビデンス Act1』 (172ページ、ハードカバー、2022年11月、ISBN 978-4-336-07269-6)[64]
- 〈ネオノミコン〉シリーズ第3巻『プロビデンス Act2』 (180ページ、ハードカバー、2023年5月、ISBN 978-4-336-07270-2)[65]
- 〈ネオノミコン〉シリーズ第4巻『プロビデンス Act3』 (168ページ、ハードカバー、2024年7月、ISBN 978-4-336-07271-9)[66]
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ Johnston, Rick (2016年6月20日). “Peering Into The Pages Of Providence”. Bleeding Cool. 2024年6月22日閲覧。
- ^ ムーア & バロウズ 2022, p. 35.
- ^ ムーア & バロウズ 2022, pp. 37–38.
- ^ “Providence 1”. Facts in the Case of Alan Moore's Providence. 2024年6月1日閲覧。
- ^ a b c Kirshenblatt, Matthew (2017年1月23日). “Watching a Serial of Strange Aeons: Alan Moore and Jacen Burrows’ Providence”. Sequart. 2024年5月24日閲覧。
- ^ ムーア & バロウズ 2022, p. 165.
- ^ ムーア & バロウズ 2022, p. 166.
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参考文献
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外部リンク
編集- Providence at Avatar Press
- Providence - Grand Comics Database
- Providence - Comic Book DB