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ハワード・フィリップス・ラヴクラフト

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト: Howard Phillips Lovecraft1890年8月20日 - 1937年3月15日)は、アメリカ合衆国小説家詩人

H・P・ラヴクラフト
H. P. Lovecraft
Howard Phillips Lovecraft in 1915 (2).jpg
ラヴクラフト(1915年)
ペンネーム HPL
誕生 ハワード・フィリップス・ラヴクラフト
Howard Phillips Lovecraft
(1890-08-20) 1890年8月20日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ロードアイランド州プロヴィデンス
死没 (1937-03-15) 1937年3月15日(46歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ロードアイランド州プロヴィデンス
職業 小説家SF作家、短編作家、詩人
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
活動期間 1920年前後 - 1937年
ジャンル SFホラーファンタジーコズミック・ホラーウィアード・フィクション
文学活動 コズミシズム
代表作 「インスマウスの影」
「クトゥルフの呼び声」など
デビュー作ダゴン』(1919年
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目次

概要編集

作家として編集

ラヴクラフト自身が「宇宙的恐怖コズミック・ホラー)」と呼び、その死後、友人の作家オーガスト・ダーレスにより体系化されクトゥルフ神話と名づけられた独特の世界を展開したホラー小説で有名である。現在に至るまでのホラー小説におけるクトゥルフ神話の広まりなどから(もっともラヴクラフトの作品は、のちにクトゥルフ神話と呼ばれるようになった体系的、超個人作家的世界のものとは区別してラヴクラフト神話と呼ぶべきという意見もある)、ポオ以降最大のアメリカの恐怖作家という評も多く[1]スティーヴン・キング菊地秀行など人気作家にも愛読者は多い。ボルヘスなども「読むにたえない作家」といいながら、影響を受けた作品を書いている[2]。しかし、その世界や文体、センスの偏向性から、冷評されることが多いのも事実で、風間賢二は、あくまで学問的な研究書では触れられない大衆小説家であって、文学者としては、「独りよがりの三流のポオ」に過ぎず、「愛読者はセンスに問題がある」としている[3]。事実、生前は、低俗雑誌(パルプ・マガジン)作家としてそれなりの人気があったものの高い評価は受けておらず、出版された作品も極めて少なかった。評価が成ったのは、上記のダーレスが創立した出版社「アーカム・ハウス」(Arkham House)から、死後、まとまった形で作品が出版されてからのことである。

個人として編集

20世紀を代表する怪奇作家とも言えるラヴクラフトだが、生前はパルプマガジンの恐怖作家としてそれなりの人気を得ただけで、生活は生涯、苦しかった。ギリシア神話を知って7歳の頃から神話に興味を持ち、詩を書くようになったほか、少年時代には化学、天文学などにも興味を持つなど、知的には早熟な面を見せたものの、病弱だったため学校にはあまり行かず、大学進学も、経済、健康の両面から諦めざるを得ず、のちには、わずかな遺産と、他作家の文章添削で生計を立て、創作による収入はわずかであった。幼い頃に父親をなくし、ラヴクラフトを溺愛していた母も早世、ラヴクラフト自身1度結婚はしたものの、家計を支えていたのは妻のほうであり、その妻の事業失敗、ノイローゼ、新天地への移動などですぐに別居生活となり、のち離婚している。このように家庭的に恵まれなかったためか、無類の手紙魔で、自分と同じパルプマガジンの作家、ファンとの文通に人生の多くの時間を割いた。のちクトゥルフ神話と呼ばれるようになった宇宙史もそのような同人的文通の中で発展していったところが大きいといわれている[4]

経歴編集

前歴編集

1890年8月20日、ロードアイランド州プロヴィデンスに宝石商人ウィンフィールド・スコット・ラヴクラフト(Winfield Scott Lovecraft(1853-1898))とスージィ(Sarah Susan(Susie)Phillips Lovecraft(1857-1921))の一人っ子として生まれる。ラブクラフトの妻だったソニア・グリーンによると、父ウィンフィールドの仕事は、ゴーハム・マニュファクチュアリング・カンパニーの旅行セールスマンとなっている。母スージィは、地元の名士として知られた商才豊かなフィップル・フィリップス(Whipple Van Buren Phillips)の娘であった。

父ウィンフィールドは1893年4月、ラヴクラフトが3歳の頃に神経症を患い、シカゴのホテルで発作を起こし、バトラー病院に運び込まれた。この5年後に精神病院で衰弱死している。この「衰弱死」は、後期梅毒であることを隠避するためと推察されている。スージィもラブクラフトに対し、ウィンフィールドに触らないように忠告していたと言われる。後にラブクラフトは、父親の死を不眠症や過労による麻痺だと周囲に話している。ウィンフィールドは、入院する以前から麻痺や舞踏病が周囲に見られており、のち、ラブクラフトにも、同様の症状が起こっている。

父が入院してから、母方の叔母リリアン(Lillian)とアニー(Annie)、祖母ロビー(Robie)、そして祖父フィップルの住むヴィクトリア朝様式の古い屋敷に引き取られた。経済的に恵まれた環境の下、早熟で本好きな少年は、ゴシック・ロマンスを好んでいた祖父の影響を受け、物語や古い書物に触れて過ごした。読み書きを覚え、3歳にして仕事で離れた場所にいる祖父と文通を行っている。ラヴクラフトによれば、母、スージィはラブクラフトを溺愛し、非常に献身的であったという。例えば彼が有機化学の研究をしたいと言えばスージィは、ガラス製の実験器具を購入した。(もっともこの研究に数学が必要と気付いたラブクラフトは、研究を止めてしまったが)

この時期に触れたイギリスの詩人サミュエル・テイラー・コールリッジの詩「老水夫行(The Rime of the Ancient Mariner)」、ギュスターヴ・ドレの絵画、「千夜一夜物語」、 トマス・ブルフィンチの「伝説の時代(The Age of Fable)」、オウィディウスの「変身物語」が作品に反映されたと考えられる。

1896年、祖母ロビーが亡くなると5歳のラブクラフトは、母親や叔母たちの喪服の黒いドレスや葬儀の様子に酷く衝撃を受けたと語っている。

6歳頃には、自分でも物語を書くようになった。それらは、ギリシア神話のリファインであった。同時にキリスト教以外の神々に興味を抱くにようになった。「夜妖」に拉致されるという悪夢に悩まされるなど[5]、父と同じ精神失調を抱えて育つ。この悪夢については、8歳で科学に関心を持つと同時に宗教心を捨てると見なくなったという[6]。ラブクラフトは、科学の中でも化学、天文学に強い関心を示した。しかし科学においても人間の生殖に関する記述を目にしたときは「virtually killed my interest in the subject.(私の興味を殺した。)」と語っている。

長じて学問の道を志し、名門校であるブラウン大学を志望して勉学に励んだ。並行して16歳の時には、新聞に記事を投稿するようになり、主に天文学の記事を書いていた。ロード・アイランド・ジャーナルには、69枚の記事が残っている。その一方で、神経症は悪化を続け、通っていた学校も長期欠席を繰り返し、成績は振るわなかった。

1900年代までに祖父の事業も振るわなくなり経済的なゆとりも失われて行った。使用人たちが家を去り、家族だけが残された。その祖父も死ぬと、ラヴクラフトは精神的にも経済的にも追い詰められ、結局、ハイ・スクールも卒業せずに中退している。それでも独学で大学を目指したが挫折し、18歳の時には、趣味であった小説執筆をやめて半ば隠者の様に世間を避けて暮らすようになった。こうした神経症がよくなってきたのは30歳頃であるが、挫折多き青年期は、ラヴクラフトにとって「人生で最も暗い時期の一つだった。」であった。

この時期、初期の作品として小説『洞窟の獣(The Beast in the Cave)』、『錬金術師(The Alchemist)』が執筆された。1912年に現地の新聞に最初の詩『西暦2000年のプロヴィデンス(Providence in 2000 A.D.)』を発表している。同年の詩『ニガーの創造(On the Creation of Niggers)』は、ラブクラフトの人種差別的な思想が現れている。

前期の文芸活動編集

1914年4月、アマチュア文芸家の交流組織に参加した事をきっかけに、ラヴクラフトは小説との関わりを取り戻した。その3年後には、小説の執筆を再開して同人誌に作品を載せるようになった。1915年には、文章添削の仕事を始めていた。ラヴクラフト本人は生涯、文章添削のほうを本職と思っており、創作は余暇の仕事と考えていた。1922年には、作品が雑誌に採用されるようになっていったが、自己の創作能力に自信が持てず、また「書く必要が来たら書く」というスタンスで自らアマチュアであることに甘んじていたため、あまり積極的に創作はしなかった。また、不採用になると非常に落ち込む性格であったため、『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』のように、今日では傑作とされている作品の中にも、自信の欠如のため編集者に送ることすらしなかったものがある。

文章添削の仕事は、当初は無料奉仕、のちも非常に低い報酬でこの仕事を請け負っていた。ラヴクラフトの添削ぶりは、新しいアイデアを提案したり、原文がほとんど残らぬほど書き換えたりと、ほとんどゴーストライターに近いものであった。しかし、この文通は、後進指導の役割も果たし、前述のダーレスを始め、彼を慕う作家が多い理由となっている。ヘイゼル・ヒールドゼリア・ビショップZealia Bishop)など、ラヴクラフトの添削によってクトゥルフ神話作品を執筆することになった作家も多い。またダーレスの他、ロバート・ブロッククラーク・アシュトン・スミスロバート・E・ハワードらとは膨大な量の書簡を交換している。他にも文通をしていた者は多く、また手紙一通の量も相当のもので創作や文章添削よりも生涯、文通に多くの時間を費やしていた。

1916年、ラブクラフトは、初期の短編小説『錬金術師』を発表した。また以下の作品を同時期に書いている。

  • 『眠りの壁を越えて(Beyond the Wall of Sleep 、1919年10月)』
  • 『ダゴン(Dagon 、1919年11月)』
  • 『墓(The Tomb 、1922年3月)』

『墓』は、ラブクラフトが最も影響を受けたエドガー・アラン・ポオの構成スタイルに似通っているとされる。しかし後のクトゥルフ神話に造形の近い『ダゴン』が初期の作品として注目されることが多い。

1917年、ラブクラフトは、兵役検査に不合格となった。翌年から母スージィも神経衰弱のような症状で苦しみ出した。1919年3月には、スージィも夫ウィンフィールドと同じくバトラー精神病院に入院したが、その病状に関しては公表されていない。ラヴクラフトにはある種のオイディプスコンプレックスもあったと言われている。ラブクラフトは、出来る限り母親を訪ね、手紙のやり取りを重ねた。

1919年以降、孤独となったラブクラフトは、ダンセイニの影響を受けた作品を発表した。

  • 『白い帆船(The White Ship 、1919年11月)』
  • 『ランドルフ・カーターの陳述(The Statement of Randolph Carter 、1920年5月)』
  • 『サルナートに来た運命(The Doom that Came to Sarnath 、1920年6月)』
  • 『ウルタールの猫(The Cats of Ulthar 、1920年11月)』
  • ニャルラトホテプ(Nyarlathotep 、1920年11月)』
  • 『這い寄る混沌(The Crawling Chaos 、1921年4月)』
  • 無名都市(The Nameless City 、1921年11月)』
  • セレファイス(Celephais 、1922年5月)』

上記の内、ウィニフレッド・ジャクソン(Winifred Virginia Jackson)とコラボレーションした詩が『ニャルラトホテプ』と『這い寄る混沌』である。

1921年5月24日に母スージィ(サラ・スーザン・フィリップス・ラブクラフト)は、胆嚢手術の合併症によりバトラー病院で死去した。ラブクラフトは、強いショックを受ける。

結婚編集

1921年7月にアマチュア作家の集会に参加したラブクラフトは、ソニア・グリーンと出会っている。二人は、1924年3月3日に結婚した。グリーンは、プロヴィデンスから離れることを望み二人は、ニューヨークブルックリン、793フラットブッシュアベニューのアパートに移住した。ラヴクラフトより10歳年上ですでに子どももいた労働夫人のソニアは、終始、引きこもり的性格の夫に対して、結婚生活の主導権を握り続けた。

この時期から友人たちの薦めによって、パルプ怪奇小説雑誌『ウィアード・テイルズ』に作品を送るようになった。また新しい作家の友人も増え、ヘンリー・エヴェレット・マクニール英語版ジェームズ・フェルディナンド・モートン・ジュニア英語版、詩人ラインハルト・クライナー(Reinhardt Kleiner)とされる。

1924年に「ウィアード・テイルズ」の編集長がエドウィン・ベアード英語版からファーンズワース・ライトに代わるとラヴクラフトの作品は、無駄に長すぎるなど商業価値の低いものと見做され、しばしば拒否されるようになった。ラヴクラフトもライトを商業主義者として、不採用になったときは、敵対的な愚痴を友人たちへの手紙にこぼすのが常であったが、両者にとって皮肉なことにライトが編集長を担当した時期は、ラヴクラフトの存在もあって「ウィアード・テイルズ」にとって黄金時代であったとも言われている。

1925年頃にソニアが失業し、生活が不安定になるとラブクラフトも安定した収入を目指して働こうと決意する。しかし30歳半ばまで職業経験のなかったラブクラフトは、どの仕事も長続きすることがなかった。ソニアは就職のためクリーブランドシンシナティに移住することにしたが、ラブクラフトは同行せず、ブルックリンハイツに移り住んで、ソニアからの仕送りで生活をしていた。1926年には、プロヴィデンスを離れた頃から18㎏(40ポンド)痩せてしまった。(新婚当初は90㎏(200ポンド)にまで太ったこともあった)。この頃から、ラブクラフトは、「ニューヨークに来たことは失敗だった」と感じるようになった。

この時期に『レッドフック街怪事件(The Horror at Red Hook 、1927年1月)』、『彼(He 、1926年9月)』が執筆された。また『クトルゥフの呼び声(The Call of Cthulhu)』の概要が書かれ始めたと言われている。

後期の文芸活動 - 最後の10年編集

1926年にプロヴィデンスに戻ったラブクラフトは、1933年までバーンズ通り10番地のビクトリア様式の木造建築に住んだ。この番地は、小説『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』でウィレット医師の住所として採用されている。ここからの10年間で、いわゆるクトゥルフ神話を軸としたラヴクラフトの代表作が生まれてくることになるが、平均したペースはほぼ1年に1作程度の寡作ぶりである。あいかわらず、他の作家の作品を改訂し、ゴーストライティングを行うことを収入の中心としていた。(『マウンド(The Mound)』『翼の死(Winged Death)』『アロンゾ・チーパーの日記(The Diary of Alonzo Typer)』などがある) この時期、『ファラオとともに幽閉されて (Imprisoned with the Pharaohs)』を代筆して以降、顧客の1人となっていた奇術師ハリー・フーディーニはラブクラフトの才能を惜しみ、彼の生活を支援しようと通信社の仕事を斡旋し[7]、それが失敗しても迷信に対する考察やその否定について記述した『迷信の癌 (The Cancer of Superstition)』の代筆を依頼した。しかし、この依頼はフーディーニの死後、フーディーニの夫人が継続を望まなかったために中止となった[8][9]

長く別居生活にあった妻ソニアは、新たな仕事が軌道に乗ったため、今度はプロヴィデンスでラヴクラフトとの同居生活に戻ろうと考えたが、ラヴクラフトの叔母たちとの交渉は合意に達することができず、正式に離婚が成立した。その後、彼女は、1933年にカルフォルニアに移住し、1936年に再婚している。

「ウィアード・テイルズ」の読者の間では人気があったが、寡作にして、また雑誌の稿料も、文章添削の収入も低かったため生活は、常に貧しいものだった。しかし、晩年に貧困のお陰で古い家に住むという願いがかなったと書簡に書いているように、貧困には鈍感なところがあった。また稿料のアップなどもほとんど要求することがなかった。これは膨大な書簡から察するに、高貴な身分の者は労働するものではないという彼の貴族趣味からきていると考える研究家もいる[10]。経済的に余裕があり健康だった時には、古い時代の細かい事情を調査するため、ケベックニューオーリンズまで長距離バスを利用して旅行したこともあった[11]

ライトは、『ダニッチの怪』のような作品を望んだが、ラブクラフトの作品は晩年になるほど、「長すぎ」、「文が難解」ということも含めて、ますますライトの気に入らないものとなっていった。ラヴクラフトはライトに拒否された作品を、「ウィアード・テイルズ」以外の雑誌に作品を送るということを、ほとんどしなかったので、友人たちが、仲介に立って、ラヴクラフトの作品を他の雑誌に売り込むということもよくあった。

ラヴクラフトは、1935年、45歳を過ぎてギリシア語をマスターする。1936年にロバート・ハワードが自殺したことに衝撃を受ける。そして、同年に自身も小腸癌との診断を受ける。その後、癌の影響による栄養失調も重なり、翌1937年に死去した。ラブクラフトは、生涯に渡った科学に対する興味から死に至るまで可能な限り日記を残した。生前に出版された単行本は、1936年にウィリアム・L・クロフォードが出版した中編『インスマウスの影』の一作だけで、それもわずかな部数であった。

死後編集

ラブクラフトは、両親と同じ墓所に葬られた。彼の没後1939年、手紙友達で同業作家であるオーガスト・ダーレス、ドナルド・ウォンドレイが発起人となり、彼の作品を出版するという目的でアーカム・ハウス出版社が設立された。

人物と創作の背景編集

海産物を特に嫌っており、このことは彼の作品に登場する邪神たちの造形に強く影響を及ぼしている。逆に好物はチーズ、チョコレート、アイスクリームで、これは母親が彼の好むものだけを与えたことによる。タバコは嗜まなかった。また極端な寒さ嫌いで、これもまた『冷気』などの作品に反映している。芸術作品については、彼の作品に見られるものと同じく、古いものを愛した。絵画に関しては風景画を好み、建築に関しては機能的な現代様式を嫌い、ゴシック建築を好んだ。あらゆる種類のゲームスポーツに関心がなく、古い家を眺めたり、夏の日に古風で風景画のように美しい土地を歩き回ることを好んだ。幼い頃にヴァイオリンを習わせられていて、これが好短編『エーリッヒ・ツァンの音楽』などに若干反映されているが、音楽に関する好みは貧弱であった。

人種偏見もまた強かったとされる。彼の生きた時代は欧米白人文明の優越がまだ根強かったが、彼の人種偏見は「常軌を逸している」という研究者もいる[12]。ニューヨークを嫌ったのもそこが人種の坩堝の様相を呈したためであるといわれており、このような異人種嫌悪が、彼の作品に影響を与えたこともまた否定しがたい[13]。ただし同時に、ラヴクラフトは気まぐれで矛盾した性向を持っており、相反する主張が膨大な書簡には見出され、ときには、ヒトラーの人種差別政策やユダヤ人弾圧を批判したり(その反面、ヒトラーの『我が闘争』を読んだ当初はひどく感銘し、友人に対しこの本は最高の書であると絶賛している[14])、アングロサクソン文明よりも中華文明がより優れていると述べたり、また、ネグロイドオーストラロイドだけは生物学的に劣っているとして、この二種に対してだけは明確な線引きが必要だと主張したりもしている。政治的には保守を自認していたが、晩年には社会主義思想に一定の影響を受けている[15]

ラヴクラフトの作品はホラーや幻想的作品を主としていたが、自身は迷信神話の類を一切信じず無神論者を自認していた。エドガー・アラン・ポオダンセイニ卿ウォルター・デ・ラ・メアバルザックフローベールモーパッサンゾラプルーストといった作家を気に入っており、小説におけるリアリズムを好んでいた。一方でヴィクトリア時代の文学は嫌っていた。

初期の作品はアイルランド出身の幻想作家ダンセイニ卿やエドガー・アラン・ポーの作品に大きく影響を受けているが、後期は、宇宙的恐怖を主体としたより暗い階調の作品になっていく。ブラヴァツキー夫人が著した『シークレット・ドクトリン』をはじめ神智学の影響も見受けられる[16]。19世紀末から20世紀初頭にかけ世界的にスピリチュアリズムが流行しており、ラヴクラフトもその潮流の中で創作活動を行った[17]。作品は彼自身の見た悪夢に直接の影響を受けており、中には『ナイアルラトホテップ』など、夢にほとんど忠実に書かれた作品もある。このことが潜在意識にある恐怖を描き出し、多くの人を惹きつけている。現在も世界中で彼の創造した邪神や宇宙的恐怖をモチーフにした小説、ゲーム、映画等がつくられ続けている。

ラヴクラフトは、その作品に一般的にはあまり使われない難解な単語(または稀語)を多く使用する傾向があった。彼が創造した架空の名と、ラヴクラフト流の「ゴシック・ロマンス」をまとった文体は独特の個性となっていた。しかし、それらは逆に当時のアメリカ大衆から受け入れられにくいものにもなり、ラヴクラフト自身は公私共に「アウトサイダー」であった(アウトサイダーはラヴクラフト自身が好んだ言葉でもある)[18]

 
ラヴクラフトの墓碑

ラヴクラフトが没した際、生地プロヴィデンススワンポイント墓地にあるフィリップス一族の墓碑にラヴクラフトの名前が記載されたものの、彼自身の墓碑は作られなかったため、1977年にこれを不満とするファンが資金を集めてラヴクラフトの墓石を購入した。墓碑には生没年月日と彼の書簡から引用した一文「われはプロヴィデンスなり(I am Providence、神意(Providence)と終生愛した故郷プロヴィデンスをかけた洒落)」が刻印されている。また、しばしばラヴクラフトの墓を訪れたファンが『クトゥルフの呼び声』(初出は『無名都市』)から引用された以下の四行連句を墓碑に書き込んでいく。

"That is not dead which can eternal lie,
And with strange aeons even death may die."
『そは永久に横たわる死者にあらねど
測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの』大瀧啓裕[19]
『永遠の憩いにやすらぐを見て、死せるものと呼ぶなかれ
果て知らぬ時ののちには、死もまた死ぬる定めなれば』宇野利泰[20]

ただし、この詩の一行目にある"which can eternal lie"はThatを先行詞にしている関係代名詞節であり、"lie"と"die"の脚韻を踏むために後置されているだけである。that which = whatであるから、「永遠に横たわること能うものは死するに非ず、」が文法的に正確な訳である。従って二行目も「そして奇怪なる永劫のうちには死すらも死なん」などとなる[独自研究?]

略歴編集

代表作編集

出典編集

  1. ^ 創元推理社「怪奇小説傑作集3」解説など
  2. ^ 短編集『砂の本』所収の「人知の思い及ばぬこと」
  3. ^ ホラー小説大全
  4. ^ リン・カーター『クトゥルー神話全書』東京創元社
  5. ^ #神界のフィールドワーク254頁。1936年10月24日 ヴァージル・フィンレイ宛の手紙。
  6. ^ #神界のフィールドワーク255頁
  7. ^ ハリー・フーディーニ (英語版)の項参照
  8. ^ Lost HP Lovecraft work commissioned by Houdini escapes shackles of history”. The Guardian (2016年3月16日). 2018年10月8日閲覧。
  9. ^ MYSTERY ATTRACTS MYSTERY: THE FORGOTTEN PARTNERSHIP OF H. P. LOVECRAFT AND HARRY HOUDINI”. Journal of the History of Ideas (2017年7月24日). 2018年10月8日閲覧。
  10. ^ リン・カーター『クトゥルー神話全書』
  11. ^ 『ラヴクラフト全集 1』訳者あとがき(オーガスト・ダーレスの文章の要約)
  12. ^ リン・カーター『クトゥルー神話全書』
  13. ^ リン・カーター『クトゥルー神話全書』
  14. ^ 定本ラヴクラフト全集
  15. ^ 『履歴書』(1934年2月13日付F・リー・ボールドウィン宛書簡の一部)『ラヴクラフト全集 3』- H・P・ラヴクラフト、大瀧啓裕訳、東京創元社創元推理文庫〉、ISBN 448852303X
  16. ^ #神界のフィールドワーク269頁
  17. ^ #神界のフィールドワーク265-266頁
  18. ^ 『ラヴクラフト全集 1』 大西尹明訳 320-323頁より。
  19. ^ 『ラヴクラフト全集 3』 創元推理文庫、1984年、35頁より引用。
  20. ^ 『ラヴクラフト全集 2』 創元推理文庫、1976年、37頁より引用。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集