ポール・レイ・スミス:Paul Ray Smith1969年9月24日 - 2003年4月4日)は、アメリカ陸軍の軍人。2003年イラク攻撃の功績により死後名誉勲章を授与された。バグダードに展開した第3歩兵師団第11工兵大隊B中隊に所属していた時、スミスが指揮するチームがイラクの反乱軍のグループに攻撃され、銃撃戦に発展した際に、イラクの銃撃により戦死した。この戦闘中の行動に対し、名誉勲章を授与された。2年後、名誉勲章は、新たに承認された名誉勲章旗と共に、彼の遺族に贈られている。この式典は、ジョージ・W・ブッシュ大統領により、ホワイトハウスで行われ、当時、11歳だった息子のデイビッドも出席している[1]

ポール・レイ・スミス
2003年のスミス
生誕 (1969-09-24) 1969年9月24日
エルパソアメリカ合衆国テキサス州
死没2003年4月4日(2003-04-04)(33歳)
バグダードイラク
埋葬地
所属組織アメリカ合衆国
部門アメリカ陸軍
軍歴1989年–2003年
最終階級一等軍曹
部隊第3歩兵師団第11工兵大隊
戦闘湾岸戦争
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
コソボ紛争
イラク戦争
受賞名誉勲章
ブロンズスターメダル
パープルハート章

幼少期と教育 編集

スミスは1969年9月24日にテキサス州エルパソで、父アイバン・スミスと母ジャニス・プビアの間に生まれた。スミスが9歳の時に、家族でフロリダ州タンパに引っ越している。子供時代は、公立学校に通い、アメリカンフットボールを中心にスポーツを楽しんで育った。またスケートボードや自転車、友人や妹のリサといらずらをすることも好んだ。高校生になると大工仕事に興味を持ち、アルバイトとして大工の助手を経験した。この頃になると車の中でも古い車種に興味を持つようになり、エンジンなどを分解し、どのように機能するのか、その仕組みを観察することを楽しむようになった。友人と、砂浜バギーを部品から組み立て、復元することさえ楽しんでいた。1989年にタンパベイ工業高校を卒業すると、1989年10月にアメリカ陸軍に入隊した[2]

軍歴 編集

初期 編集

スミスは、ミズーリ州フォート・レオナード・ウッド入隊訓練を終えると、最初の任務としてドイツに派遣され、そこで第9工兵大隊に配属となった。その後、湾岸戦争に従軍している。1996年10月、所属の第9工兵大隊B中隊が、第2旅団戦闘団に配備され、ボスニア・ヘルツェゴビナ和平履行部隊コソボ治安維持部隊を支援した。1997年4月に中隊はシュヴァインフルトに帰還した[2]。1999年に第3歩兵師団第11工兵大隊に配属され、2001年5月にコソボに派遣され、ジランの町に駐留し、毎日のようにパトロールを担当した。2002年春に一等軍曹に昇進し、2002年8月に上級下士官課程を修了した[2]

2003年に所属の第3歩兵師団第11工兵大隊B中隊は、イラク侵攻に参加した。

名誉勲章の行動 編集

2003年4月4日、スミスが所属するB中隊は、第7歩兵連隊第2大隊を支援するため、カルバラーの通りを抜け、ユーフラテス川を渡り、バグダード国際空港(BIAP)に向かった。バグダードと空港をつなぐ高速道路を、空港から東に約1マイルの部分で封鎖するため、100人の部隊が参加した。短い戦闘があり、イラク人数人が捕らえられた。スミスは、部隊の周辺を守るために塔から警戒していたが、その時に戦闘があった場所の近くに壁に囲まれたスペースを発見した。そこでスミスとスミスが指揮するチームが、そこに即席で捕虜(EPW)を収容するエリアの建設に取り掛かった。スミスと16人の兵士からなるチームは、ブルドーザーに形状が似ているM9ACEで、スペースの南壁に穴を開け、北壁に金属製の門を設置し、数人の兵士を警備に割り当てた。その時、警備を担当していた兵士が、門のすぐ近くの塹壕に陣取った50~100人のイラク人戦闘員に気づいた。そこで、M2ブラッドレー歩兵戦闘車に支援を要請し、塹壕を攻撃した。またM113装甲兵員輸送車がM2を支援するために接近したが、迫撃砲が命中し、3人の乗組員全員が負傷した。M2も損傷を受け、弾薬が不足したため、戦闘が小康状態になった間にリロードのために撤退した。スミスは負傷したM113の乗組員の避難にあたった。なお、このスペースの後方には、100人の死傷者で溢れかえった軍事援助ステーションが設置されていた。このステーションが蹂躙されることを防ぐため、スミスは負傷者の救護を行った後、一緒に撤退するのではなく、その場に留まり戦い続けることにした[3]

 
スミスが所属した第3歩兵師団第11工兵大隊B中隊(2005年)

一方、イラク人戦闘員の一部は、西壁のすぐ向こうに存在していた、スペースを見下ろす塔に陣取っていた。そこからスペースにいたアメリカ兵に対し十字砲火を行った。スミスは、M113に乗り込み、指揮を執り、運転手に命じて塔と塹壕の両方を攻撃できる位置に配置した。スミスは、M113の機関銃を使用し、3箱分の弾薬で応戦した。その間にティム・キャンベル一等軍曹が指揮する別のチームが、後方から塔を攻撃し、イラク人戦闘員を排除した。戦闘が終わると、スミスの機関銃が沈黙していることに気づいた。そこでスミスの戦友たちが確認すると、ハッチに倒れているのを発見した。彼のボディアーマーには13発の弾痕があり、セラミックアーマーインサートは前後の多くの場所がひび割れていた(スミスが乗っていたM113には、ベトナム戦争以来、標準的であった銃弾から射手を保護するためのACAVガンシールドが装備されていなかった。)。塔から発射された銃弾の1発が彼の首に直撃し、脳を貫通したことにより、致命傷を与えていた[4]

イラクに派遣される前に、スミスは両親には「家に帰るには、飛行機から生きて降りるのと、棺で降ろされるのと、2つの方法がある。私は、他の兵士たちが確実に生きて家に帰るために、全力を尽くす覚悟ができている。だから私が、どのように家に帰るかは関係ない。」と語っている[5]。スミスの遺体は火葬され、その遺灰は、生前によく釣りをしていたメキシコ湾に撒かれた。

バージニア州アーリントンアーリントン国立墓地メモリアルセクションMDロット67に、スミスを追悼するための墓碑が建てられている[6]。また、海軍幼年予備役将校訓練課程が設置されている出身校のタンパベイ工業高校には記念碑が建てられている。

スミスは戦死した時点で、陸軍に13年間勤務し、その戦闘中の行動によって、名誉勲章を死後追贈された。戦死からちょうど2年後の2005年4月4日に、11歳の息子デイビッドは、ジョージ・W・ブッシュ大統領から名誉勲章と名誉勲章旗を受け取った。

私生活 編集

スミスには、妻のビルギット、息子のデイビッド、継娘のジェシカという家族がいた[7]

勲章と表彰 編集

略綬等 編集

     
     
       
      
     
       
     
   
勇敢部隊感状 優秀部隊感状
名誉勲章 ブロンズスターメダル パープルハート章
陸軍表彰勲章(5回受章) 陸軍成果勲章(6回受章) 陸軍善行章(4回受章)
国防従軍勲章(2回受章) 軍隊遠征勲章 南西アジア従軍勲章(4回受章)
対テロ戦争遠征勲章 対テロ戦争従軍勲章 軍隊従軍勲章
陸軍下士官専門能力開発リボン(2回受章) 陸軍従軍リボン 陸軍海外従軍リボン(3回受章)
旧ユーゴスラビアNATO勲章 クウェート解放勲章(サウジアラビア) クウェート解放勲章(クウェート)
工兵タブ[2] 徽章ドイツ軍優秀射手徽章 フランス軍コマンドー徽章

この他、スミス一等軍曹は、1種類の武器で優秀射手徽章を取得している。

 
アーリントン国立墓地の墓碑を訪ねるスミスの未亡人

名誉勲章勲記 編集

 

義務の要求を超えて、自らの命を危険に晒した、顕著な勇敢さと勇気に捧げる:

ポール・R・スミス一等軍曹は、2003年4月4日、イラクのバグダードにあるバグダード国際空港付近で武装した敵に対する行動で任務の要求を超越した勇敢さと勇気ある行為によって、その名を際立つものとした。その日、スミス一等軍曹が捕虜収容エリアの建設に従事していた時、彼の機動部隊が中隊規模の敵軍によって激しく攻撃された。100人以上の兵士の脆弱性に気付いたスミス一等軍曹は、直ちに兵士を2個小隊と1両のブラッドリー戦闘車、3両の装甲兵員輸送車からなる防衛組織に再編制した。戦闘が進展するにつれて、スミス一等軍曹は、敵の砲撃に勇敢に立ち向かい、手榴弾と対戦車兵器で敵勢力と個人的に交戦し、ロケット推進手榴弾と60mm迫撃砲弾に襲われた装甲兵員輸送車から負傷した3人の兵士を避難させた。スミス一等軍曹は、敵が防御を突破することを恐れ、敵の激しい砲火の中を移動し、損傷した装甲兵員輸送車に50口径機関銃を設置した。彼自身の命を完全に無視して、彼は攻撃する敵軍と交戦するために、自らを敵から露出した位置に配置した。この行動の間に、彼は致命傷を負った。彼の勇敢な行動は、敵の攻撃を打ち負かすことに貢献し、その結果50人もの敵戦闘員を排除し、多数の負傷した兵士が安全な場所に撤退することを可能とした。スミス一等軍曹の並外れた英雄的行動と勇敢さは、兵役の最高の伝統に適うものであり、彼自身、第3歩兵師団「マルヌの岩」、そしてアメリカ陸軍に偉大なる信用をもたらした[8]

その他の表彰 編集

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ Video: George W Bush 20050404_5_. George W. Bush Presidential Speech Archive. 4 April 2005. 2012年2月20日閲覧
  2. ^ a b c d Sergeant First Class Paul R. Smith, Medal of Honor”. United States Army (2009年8月25日). 2010年2月3日閲覧。
  3. ^ Larson, Major Chuck; John McCain; General Tommy Franks (January 6, 2009). Heroes Among Us: Firsthand Accounts of Combat From America's Most Decorated Warriors in Iraq and Afghanistan (Reprint ed.). NAL Trade. pp. 185–196. ISBN 978-0-451-22334-0. https://archive.org/details/isbn_9780451223340/page/185 
  4. ^ Weinberger, Caspar W.; Wynton C. Hall (May 29, 2007). Home of the Brave. Macmillan. pp. 210–218. ISBN 978-0-7653-5703-8. https://archive.org/details/homeofbrave00casp_0/page/210 
  5. ^ No Greater Honor – The Atlantic (June 2, 2008)”. アトランティック (2008年6月2日). 2009年7月18日閲覧。
  6. ^ Smith, Paul Ray”. ANC Explorer. 2021年8月10日閲覧。
  7. ^ a b First Littoral Combat Ship Christened”. Navy News. Chief of Naval Operations Public Affairs, United States Navy (2006年9月24日). 2006年12月6日閲覧。
  8. ^ Medal of Honor – Sergeant First Class Paul R. Smith”. 2009年7月18日閲覧。
  9. ^ The United States Army Engineer Regiment presents the de Fleury Medal”. 2015年5月21日閲覧。
  10. ^ Public Law 108-292”. 2009年7月18日閲覧。 – to designate the facility of the United States Postal Service located at 4737 Mile Stretch Drive in Holiday, Florida, as the "Sergeant First Class Paul Ray Smith Post Office Building"
  11. ^ SFC Paul Ray Smith Simulation & Technology Training Center”. 2009年8月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月18日閲覧。
  12. ^ Spc. Chris Erickson (2006年8月30日). “Florida School Named for OIF Medal of Honor recipient”. DefenseLink (U.S. Department of Defense). http://www.defenselink.mil/News/NewsArticle.aspx?id=637 2006年8月31日閲覧。 
  13. ^ CALL TO DUTY”. army.mil. The American Soldier: US Army. 2006年9月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年9月17日閲覧。
  14. ^ Jones, Meg (2008年11月5日). “Navy's Vessel of Versatility”. ミルウォーキー・ジャーナル・センチネル. 2008年11月5日閲覧。
  15. ^ SFC Paul R. Smith Fitness Center”. Fort Benning Directorate of Family and Morale, Welfare and Recreation. 2009年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年3月14日閲覧。
  16. ^ "M2 Browning .50-cal (1933)". Chris McNab and Michael Spilling (eds.): Weapons. Key Weapons & Weapon Systems from 1860 to the Present, pg. 424. Amber Books Ltd., London, United Kingdom (2019).

外部リンク 編集