ミカエル8世パレオロゴス
ミカエル8世パレオロゴス(Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος, ローマ字転写:Michaēl VIII Palaiologos, 1225年 - 1282年12月11日[1])は、東ローマ帝国最後の王朝であるパレオロゴス王朝の初代皇帝(在位:1261年 - 1282年)。後に「最も狡猾なギリシア人」と呼ばれる程の策略家で、ラテン帝国に奪われていたコンスタンティノポリスを奪回して東ローマ帝国を再興した。彼の開いたパレオロゴス王朝は1453年にオスマン帝国によって帝国が滅亡するまで約200年間続いた。ミカエル8世パライオロゴスと表記される場合もある。中世ギリシア語表記ではミハイル8世パレオロゴス。
ミカエル8世パレオロゴス Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος Michaēl VIII Palaiologos | |
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東ローマ皇帝 | |
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在位 | 1261年8月15日 - 1282年12月11日 |
出生 |
1225年 |
死去 |
1282年12月11日 トラキア |
配偶者 | テオドラ・ドゥーカイナ・ヴァタツァイナ |
子女 | 一覧参照 |
家名 | パレオロゴス家 |
王朝 | パレオロゴス王朝 |
父親 | アンドロニコス・ドゥーカス・コムネノス・パレオロゴス |
母親 | テオドラ・アンゲリナ・パレオロギナ |
父母
編集父はコムネノス王朝・アンゲロス王朝一門の大貴族、アンドロニコス・ドゥーカス・コムネノス・パレオロゴス(1247年没)。母は皇帝アレクシオス3世アンゲロスの孫娘テオドラ・アンゲリナ・パレオロギナ。コンスタンティノポリスで最も高貴な家系の出身であり、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリスの征服がなければ、最も帝位に近い人物であった。
生涯
編集若くして傑物ぶりを発揮し、ニカイア帝国の歴代皇帝に雇われたフランス人傭兵の司令官に昇進する[2]。テオドロス2世の崩御から数日後に重臣ムザロンが暗殺されたことで、コンスタンティノポリス総主教アルセニオス・アウトリアノスと並んで、当時8歳の皇帝ヨハネス4世の共同後見人を務める[2]。その後「専制公」の称号を得て、最終的にはジェノヴァ人の協力によって共同皇帝に推挙され、1260年1月1日にニカイアで戴冠した[2]。事実上の帝国の乗っ取りであった。
1260年にペラゴニアの戦いでラテン帝国やエピロス専制侯国などの連合軍を破り、1261年にはラテン帝国軍が出払っている隙を突いて、最後のラテン皇帝ボードゥアン2世からコンスタンティノポリスを奪回。息子アンドロニコスを共同統治者として、自らローマ皇帝を宣言する。同年12月、ヨハネス4世の目を潰させて、マルマラ海の城郭に幽閉した。この行為によってコンスタンティノポリス総主教アルセニオスから破門され、1268年に次のニキフォロス2世と交替するまで破門状は撤回されなかった。こうしてヨハネス4世が帝位に返り咲くことができないように手を打った後、急いで彼の姉妹を諸外国に降嫁させ、自身の王朝の保全を図った。
ミカエル8世は帝位に就くとすぐにラテン帝国時代の習慣を廃して、第4回十字軍が来襲する以前にあったような、最も伝統的な儀式や制度を復活させた。その一番の野心は、帝国の版図を以前に戻すことであった。脅威がラテン系の西欧であること、とりわけ隣国のイタリア諸勢力(シャルル・ダンジュー、ローマ教皇マルティヌス4世、ヴェネツィア共和国)が力を合わせて自分に手向かうだろうことを悟ると、マヌエル1世コムネノスの轍を踏まないように準備した。
1263年に、ローマ教皇ウルバヌス4世の支援を受けて、アカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンと講和し、1264年にはエピロス専制侯とも和睦した。これによってペロポネソス半島にあるミストラス、モネンヴァシア(マルヴァジア)他いくつかの要塞をギヨーム2世から割譲された。
1265年、マムルーク朝と対抗するためにイルハン朝と同盟する必要が出たため、フレグにマリア(デスピナ)を嫁がせようとしたが、2月に道中でフレグが急死したためアバカと結婚し、同盟した。同年7月、ノガイ・ハーン率いるジョチ・ウルス軍が東ローマ帝国に出兵し、東ローマ軍を撃破すると、トラキアの町を破壊した。ミカエル8世は、娘エウフロシュネー(Euphrosyne Palaeologina)をノガイ・ハーンの妃に送り、同盟した。その後、ジェノヴァと結んでヴェネツィアと交戦した後に和解し、両者と強い関係を維持しながらも、コンスタンティノポリスからその影響力を減らそうと務めた。
続いて教皇庁と西欧諸国の間に楔を打ち込むべく、ローマ教皇に東西教会の合同をもちかける。この合同は1274年の第2回リヨン公会議にて締結された。しかしながら、正教会側が大きく譲歩したため、監獄は合同に反発した熱心な正教徒で溢れ返った。当初この「楔」は役立ったが、ついに(シャルル・ダンジューに肩入れする)教皇マルティヌス4世から、破門を宣告された。方針の転換を迫られたミカエル8世は、「シチリアの晩祷」事件を煽動し、アラゴン国王ペドロ3世率いるカタルーニャ兵のシチリア侵攻につなげた。
ミカエル8世は東ローマ帝国を再編成するにあたって、古い手続きを復活させたが、その欠陥を修正することには熱意を示さなかった。また貨幣の質を落としたために、経済の低迷を速めた。
1282年4月、アバカが急死し、マリア(デスピナ)が帰国。同年テッサリアで反乱が勃発し、ジョチ・ウルスのノガイ・ハーンが義父であるミカエル8世に援軍をトラキアに派兵した。しかし、12月にミカエル8世がトラキアで急死し、アンドロニコス2世パレオロゴスは援軍をブルガリアの同盟国セルビア攻撃に使った。1286年、ノガイ・ハーンはセルビアのステファン・ウロシュ2世ミルティンを追いつめ、講和を引き出すことに成功した。
ミカエル8世によって開かれた王朝は、その後2世紀にわたって存続し、ローマ帝国史において最も長命の王朝となった。
家族
編集1253年にテオドラ・ドゥーカイナ・ヴァタツァイナ(大おじがニカイア帝国皇帝ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス)と結婚。伝えられるところによると、テオドラは少女時代に孤児となり、聖者と呼ばれたヨハネス3世に「わが子同然に愛されて育った」という。ミカエル8世との結婚も、ヨハネス3世の意向によるものだったという。2人は以下の子供をもうけた。
- マヌエル(Μανουήλ Παλαιολόγος, 1254年頃 - 1259年)
- アンドロニコス2世パレオロゴス(1259年 - 1332年)
- コンスタンティノス(Κωνσταντίνος Παλαιολόγος, 1261年 - 1306年)
- エイレーネー・パレオロギナ(Ειρήνη Παλαιολογίνα) ブルガリア皇帝イヴァン・アセン3世の妃
- アンナ・パレオロギナ(Άννα Παλαιολογίνα) デメトリオス-ミカエル・ドゥーカス(エピロス専制公ニケフォロス1世ドゥーカスの弟)夫人。のちエピロス専制公ジョヴァンニ2世オルシーニの妻となった同姓同名の女性の祖母にあたる。
- エウドキア・パレオロギナ(Ευδοκία Παλαιολογίνα) トレビゾンド帝国皇帝ヨハネス2世の皇妃
- テオドラ・パレオロギナ(Θεοδώρα Παλαιολογίνα) グルジア王国およびイメレティ王国の賢王ダヴィットの後妻
愛人のディプロバタツァイナとの間に、次の2人の庶子をもうけた。
出典
編集- ^ Michael VIII Palaeologus Byzantine emperor Encyclopædia Britannica
- ^ a b c Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 18 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 359–360.