メドガー・エヴァース(Medgar Evers、1925年7月2日 - 1963年6月12日)は、アフリカ系アメリカ人公民権運動家である。NAACP(全米黒人地位向上協会)ミシシッピ州支部委員。1963年6月12日に白人優越主義組織白人市民会議英語版バイロン・デ・ラ・ベックウィズ英語版に暗殺された。

メドガー・エヴァース
メドガー・エヴァース(1961年)
生誕 Medgar Wiley Evers
(1925-07-02) 1925年7月2日
アメリカ合衆国ミシシッピ州ディケーター
死没 (1963-06-12) 1963年6月12日(37歳没)
アメリカ合衆国ミシシッピ州ジャクソンメドガー・エヴァース・ハウス英語版
死因 暗殺
墓地 アーリントン国立墓地
記念碑 アルコーン州立大学(銅像)
メドガー・エヴァース大通り図書館(銅像)
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
団体 NAACP(全米黒人地位向上協会)
影響を受けたもの セオドア・ハワード英語版[1]
ジョモ・ケニヤッタ[2]
マウマウ団の乱
活動拠点 ミシシッピ州
配偶者 マイリー・エヴァース英語版
家族 チャールズ・エヴァース英語版(兄)
受賞 1963年度スピンガーン・メダル英語版(死後受賞)
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略歴 編集

1925年7月2日、ミシシッピ州ディケーターの農家に生まれる[3]

1943年、陸軍に入隊。ノルマンディー上陸作戦にも派遣され、1946年に名誉除隊する[3]

1948年、アルコーンA&Mカレッジ(現アルコーン州立大学)に入学し、経営学を専攻する[1]。在学中に大学の後輩マイリー・ルイス・ビーズリーと結婚し、1952年に卒業する。卒業後はフィラデルフィアに移り、保険のセールスマンとして働き始め、NAACPにも所属する[3]

1954年、ミシシッピ大学ロースクール入学を申請するが拒否される。州都ジャクソンに移り住み、NAACPミシシッピ支部のフィールド・セクレタリー英語版に就任する[3]

NAACPでの活動 編集

黒人の有権者登録運動、デモ、黒人差別を行う企業へのボイコット運動などを行う[3]

1955年8月に起きた黒人少年エメット・ティル殺害事件の調査にも尽力する。この事件に関連する報道でNAACPと白人市民会議の対立が注目され、エヴァースはミシシッピ州における公民権運動のリーダー的存在となる。

暗殺 編集

 
凶器として用いられたM1917ライフル

1962年9月、黒人男性ジェームズ・メレディスの転入を巡り、ミシシッピ大学で暴動事件(メレディス事件英語版)が起こる。

1963年5月、メレディスを支援し続けたエヴァースの声明がテレビで放送され、顔が知れ渡る。数日後、自宅敷地内で放火事件が起こる。

6月11日夕方、ジョン・F・ケネディ大統領が大統領執務室から公民権についての演説「公民権に関するアメリカ国民への報告英語版」を行い、全米にラジオ・テレビで放送される。これにより、以前から身の危険を感じていたエヴァースは、さらに大きな危険を感じたことを家族に伝えている[4]

12日午前0時40分頃、NAACPの弁護士との会合から帰宅し車を出たところを、茂みに隠れていた白人市民会議所属のバイロン・デ・ラ・ベックウィズにライフルで狙撃される[4]。銃弾は背中から胸を貫通し、搬送された病院で死亡が確認された。現場に残されたライフルからグリーンウッドに在住するセールスマンのベックウィズが割り出され、21日に逮捕された[5]

アーリントン国立墓地で軍葬が執り行われ埋葬された。NAACPフィールド・セクレタリーは兄のチャールズが引き継いだ[6]

ベックウィズは殺人罪で起訴され、一審・二審共に死刑が求刑されたが、結論が出ず有罪を免れる[7]。1989年に再審請求の機運が高まり[5]、1994年2月に有罪判決(終身刑)が下る[7]。その後、ベックウィズは2001年に80歳で獄死した。

メドガー・エヴァースを題材にした作品 編集

音楽 編集

五輪真弓『メドガー・エバースの子守唄 (黒い子守唄)』 1974年のライブアルバム『冬ざれた街』収録。英語カバー。

映画 編集

テレビ映画 編集

脚注 編集

外部リンク 編集