モクタル・ウルド・ダッダ
モクタル・ウルド・ダッダ(Moktar Ould Daddah, 1924年12月25日 - 2003年10月14日)は、モーリタニアの政治家。1960年、モーリタニアのフランスからの独立後、まず内閣首長となり、1961年初代大統領になった[1]。1978年まで、三期にわたり大統領に選任された。
モクタル・ウルド・ダッダ Moktar Ould Daddah مختار ولد داده | |
任期 | 1960年11月28日 – 1978年7月10日 |
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任期 | 1960年11月28日 – 1961年8月20日 |
アフリカ統一機構
第8代 議長 | |
任期 | 1971年6月21日 – 1972年6月12日 |
出生 | 1924年12月25日 フランス領西アフリカ モーリタニアトラルザ州ブーティリミット |
死去 | 2003年10月14日(78歳没) フランス、パリ |
政党 | モーリタニア人民党 |
モーリタニアの富裕な家庭に生まれた。パリに留学し、法学を学んだ。ダッダはモーリタニア出身者で最初に学士号を得た人物である。1950年代後半にモーリタニアに帰国し、中道左派勢力のモーリタニア進歩連合に加入した。党首脳となるが、1959年にモーリタニア再編党(PRM)を結成、党首となる。独立前に行われた選挙でPRMは国会第一党となり、ダッダが内閣首班に指名された。
モーリタニアはムーア人、黒人、スペイン系の三つの民族集団からなるが、ダッダはそのバランスをよく維持して政局を安定させた。1961年に初代大統領となり、8月の総選挙で勝利し、これを確実なものとした。
ダッダは第二党との合同を進め、1961年9月には新政党モーリタニア人民党(PPM)を結成した。これによって事実上の一党政治が実現した。1964年にはPPMによる一党独裁制を法律上の制度とした。
1971年にはアフリカ連合の議長に選挙される。しかしこのころから国内政治には失策が続くようになる。 スペインがスペイン領サハラ(西サハラ)を放棄すると、西サハラ南部の領有権を主張してモロッコと共に介入するも、わずか2500人のモーリタニア国軍ではサハラ・アラブ民主共和国の建国(西サハラ独立)を望むポリサリオ戦線のゲリラ攻撃を抑え込むことができず、首都に逆攻撃を仕掛けられる失態を犯した。さらに経済危機も加わり、1978年7月10日、軍部がクーデターを起こして失脚した[2]。
脚注
編集- ^ “Mauritania”. Worldstatemen.org. 2021年4月10日閲覧。
- ^ モーリタニアでクーデター 軍事委が全権握る 親ソ派勢力介入か『朝日新聞』1978年7月11日朝刊、13版、7面
公職 | ||
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先代 (創設) |
モーリタニア・イスラム共和国大統領 初代:1960 - 1978 |
次代 ムスタファ・ウルド・サレク (en) (国家再生軍事委員会委員長) |
先代 (創設) |
モーリタニア・イスラム共和国首相 初代:1960 - 1961 |
次代 アーメド・ウルド・ブセイフ (en) |
外交職 | ||
先代 ケネス・カウンダ |
アフリカ統一機構議長 第10代:1971 - 1972 |
次代 ハサン2世 |