ユーロコミュニズム

1970年代に西ヨーロッパ(主にフランス、イタリア、スペイン)の共産党で趨勢となった共産主義の一潮流

ユーロコミュニズム(Eurocommunism)または欧州共産主義(おうしゅうきょうさんしゅぎ)は、中ソ対立などにより国際共産主義運動が多様化する中で1970年代西欧(主にフランスイタリアスペイン)の共産党で趨勢となった共産主義の一潮流。暴力革命路線の放棄、プロレタリア独裁論の破棄、党内の民主集中制分派禁止規定を廃止した[1]

概要編集

中ソ論争、チェコスロバキアで起きたプラハの春へのソ連・衛星国の東欧5カ国によるワルシャワ条約機構軍による干渉的圧殺などの事態は、スターリン批判以後に明らかになったスターリン時代の数々の抑圧の事実の歴史的検証の進行、ソ連・東欧諸国での自由と民主主義の制限の実態が西欧諸国民主の常識として定着している状態と相まって、西欧諸国共産党は各自国民からの支持を減退が続いていた。プラハの春圧殺に際して、フランス・イタリア・スペインの共産党がソ連批判を行い、ソ連型社会主義全体をも批判的に分析するようになった。70年代に西欧諸国の共産党に浸透し、1977年にイタリア、スペイン、フランスの西欧先進国の3共産党から共同声明が出された。ユーロコミュニズムは、西側(NATO加盟国)でいることを容認し、ソ連共産党とは距離を置き、NATO離脱方針廃棄・プロレタリア独裁・暴力革命・マルクス・レーニン主義の放棄や複数政党制の容認、党内における民主集中制の廃止、党内派閥の容認(分党)、自由民主主義の擁護などを公然と宣言した[2][3]

フランス

フランス共産党は、1968年12月、〈先進的民主主義〉の理念を発表し、〈社会主義への道をきりひらく〉ための〈一貫した先進的民主主義の政治〉をうちだした。そして、1972年、フランス社会党と、〈共同政府綱領〉を締結し、1974年の大統領選挙で、フランソワ・ミッテランを統一候補としてたて、当選まであと一歩のところに迫った。しかし、1977年、フランス共産党は〈共同政府綱領〉の改定交渉で、国有化の範囲を広げるなどの提案をだし、結果的に交渉は決裂、フランス社会党との共同綱領は流産した。さらに、1985年の党大会で、これまでの方針を撤回、〈社会変革そのものを直接の目標とする闘争〉へと切り替えた。

イタリア

イタリア共産党では、1975年の党大会で、エンリコ・ベルリンゲル書記長により歴史的妥協Historic Compromise)の方策が提案された。この大会で、〈民主主義的、反ファシズム革命の第二段階〉と現状を位置づけ、当時の与党であったキリスト教民主党との提携によって政権を獲得しようと試みた。それは、イタリア共産党がそれまで掲げていた、北大西洋条約機構(NATO)体制からの離脱という方針を放棄するものでもあった。1976年の総選挙で得票率34%を獲得したが、政権入りはならず、1977年にキリスト教民主党との協定も成立したが、やはり政権には加われなかった。そして、1991年2月、党名を〈左翼民主党〉と改め、社会民主主義の潮流に加わることになった。このとき、その方針に従わないグループは共産主義再建党を結成した。

スペイン

スペイン共産党では、1977年のモンクロア協定Pactos de la Moncloa)などが特徴的な事件であった。


日本共産党とユーロコミュニズムの違い

プラハの春の時期は中ソ対立が相まっていて、日本共産党もソ連共産党と仲が良くない時期だったこともあり、中国共産党と同様にソ連批判をしたし、1970年代後半の一時期には、〈ユーロ・ニッポ・コミュニズム〉などと発言していた時期もあった。しかし、日本共産党は、イタリアを筆頭にプラハの春以後に西欧諸国の共産党がNATOを容認した姿勢に転換したことを、激しく批判した経緯もあって、ユーロコミュニズムとは一線を画していると主張しており、その立場を現時点でも撤回しておらず非同盟諸国首脳会議への加盟を綱領に明記している[4]。また、日本共産党の違いについて、ユーロコミュニズム諸党は党の内部に多様な思想の存在・派閥を認めているが、日本共産党は多様な意見が党内に同時に存在することを民主集中制・派閥禁止ちいう党の規則を維持したまま禁止している。民主集中制の弊害ため、前書記長(第一書記)だった人物が日本共産党の主導権を自身が亡くなるまで裏で持ちながら、彼が書記長から表向き退いた際に後任に任命した書記長の再選が毎度全会一致で続くら執行部への批判が許されない礼賛体制が続いている[5][6]。日本共産党はこのように旧西側諸国で冷戦終結前から議席を持っていた「共産党」の中で、冷戦終結後も唯一派閥を分派・分党行為と厳罰にし、派閥の禁止と民主集中制を維持している政党であり、戦後に日本共産党における著名人および古参活動家も戦前からの者も時代ごとの執行部の方針に賛同しない者は除名、除籍されている。 ソ連の教訓から民主集中制廃止・派閥禁止の廃止が基本であるユーロコミュニズムとは完全に異なる。冷戦終結後でさえも日本共産党内で党内に多様な潮流・分派の存在する権利を求めた学者党員などは、党と社会とを混同するものとして徹底的に批判され、自己批判に追い込まれ除名されるか、離党させられた[7][4][5]

脚注編集

  1. ^ 北西允 (2009年7月31日). “7月第60回ユーロコミュニズムの台頭」”. 新社会党広島支部. 2017年6月21日閲覧。
  2. ^ 昭和44年度(第14号) わが外交の近況”. www.mofa.go.jp. 2021年9月24日閲覧。
  3. ^ みんなのセンター教科書世界史B改訂版 - p438,髙岡慎太郎 · 2015
  4. ^ a b 文藝春秋,第68巻第10-11号p216 1990年
  5. ^ a b 日本共産党の戦後秘史p24 ,兵本達吉 ,2005年
  6. ^ 日本共産党の戦後秘史p34 ,兵本達吉 ,2005年
  7. ^ 日本共産党の戦後秘史p32 ,兵本達吉 ,2005年

参考文献編集

関連項目編集