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フランソワ・ミッテラン

フランスの政治家

略歴編集

生い立ち編集

1916年、シャラント県ジャルナックのカトリックの家庭に生まれる。父ジョゼフ・ミッテランは鉄道会社に勤め、アングレーム駅長を務めたが、一時保険業を営んだ後、岳父が所有する酢製造所の経営を引き継ぎ、全国酢製造業者連合の会長も務めた。当初青年右翼であったミッテランは1934年から極右運動に参加、当時外国人排斥や王制復古を謳っていた右派の政治組織クロア・ド・フーに所属した。同年、バカロレアを取得し、パリ大学の文学部及び法学部に学ぶ。

1937年、パリ政治学院の前身・自由政治科学学院 (École libre des sciences politiques) を修了し、また同年、公法修士号を取得した。

ヴィシー政権編集

1939年9月、フランスの第二次世界大戦参戦をうけて、軍隊に召集される。その後負傷しドイツ軍の捕虜となるものの、1941年12月に逃走に成功しフランスに帰還。1942年からはフィリップ・ペタンが首班を務める親独政府であるヴィシー政権下で働き、1943年8月16日には、戦前の国家主義活動やヴィシー政権への積極的な傾倒ぶりが認められ、勲章を授与される。

ド・ゴール政権編集

しかし同年12月には対独レジスタンス運動に参加し、地下運動を始め、ロンドンに逃亡。1944年にはド・ゴールの臨時政府に参加した。1944年10月28日にダニエルと結婚した。

1946年、ニエーヴル県選出の国民議会議員となり、植民地相、国務相、法相などを歴任し、第四共和政期の10年あまりをほぼ閣僚として過ごす。この間、フランスが植民地の独立運動に直面していた1953年には、「ビゼルトからカサブランカまで、北アフリカにおけるフランスの影響力の維持は私にとってあらゆる政治問題の中でも一番の課題である」と表明し、翌1954年にアルジェリア戦争が勃発した際には、国民議会において「アルジェリアの反徒は戦争という最終形態しか見出せないのだ」と発言、反徒を射殺することを命じ、独立運動の鎮圧を図った。

ジャック・マシュ将軍がアルジェの戦いにおいてアルジェリア民族解放戦線 (FLN) メンバーの尋問の際に拷問を組織的に行ったのは、とりわけミッテランの命令をうけたものだとされている。

1959年、シャトー=シノン市長に就任(1981年まで)。

大統領選挙編集

1965年には、左派統一候補として大統領選挙に挑み、ド・ゴールと対決、結果的には敗れたが、決選投票において1061万9735票 (44.80%) を獲得した。1971年社会党第一書記に選出される。

その後、ド・ゴールの後を継いだジョルジュ・ポンピドゥ大統領の任期半ばの急死をうけて行われた1974年の大統領選挙でも再び決選投票に持ち込み、1297万1604票 (49.19%) を得たものの、1339万6203票(50,81%)を得たヴァレリー・ジスカール・デスタンに僅差で惜敗する。

大統領就任編集

ジスカールデスタンと再び争った次の1981年の大統領選挙では1570万8262票 (51.76%) を得て勝利、第21代大統領に就任。フランス共産党との連立でピエール・モーロワ内閣を成立させ、有給休暇の拡大、法定労働時間の削減、ラジオおよびテレビの自由化、大学入試の廃止、死刑制度の公式廃止を行うとともに私企業の国有化や社会保障費の拡大をはじめとする社会主義的政策を取った。このため、ギー・ド・ロチルドベルナール・アルノーら多くの企業家たちがフランスを出国する事態となった。

しかし翌1982年には、インフレの進行、失業者の増加に直面した(=ミッテラン・ショック)。賃金を凍結し、公共支出を削減するなど緊縮財政を取り、さらに首相もローラン・ファビウスに替えた。普仏戦争の賠償金シンジケートが抑えきれなくなり、自由主義的政策に転回することになり、1984年には共産党が連立から離脱した。

1986年の議会総選挙では社会党が大敗を喫し、右派政治家ジャック・シラクが首相に選出され、保守派内閣が誕生し、第1次コアビタシオン(保革共存)が成立する。しかし、1988年の大統領選挙では54.0%の得票率でシラクを下し、大統領再選を果たした。続く総選挙で社会党が勝利し、ミシェル・ロカールを首相に指名。1991年にはエディット・クレッソンを首相に抜擢し、フランス史上初の女性首相が誕生。1993年の総選挙で再び右派が勝利を収め、エドゥアール・バラデュール内閣が発足し、第2次コアビタシオンが成立した。大統領在任中の1993年2月には、1887年から1954年まで植民地支配したベトナムと和解した[1]

なお、1993年から1994年にかけてピエール・ベレゴヴォワ元首相や長年金庫番を務めていたプログスなど複数の側近が「自殺」したことから、不祥事のもみ消しを意図したミッテランの指示による殺人ではないか、という疑いがマスメディアにおいて高まった。

欧州連合とユーロの創設編集

ミッテランはドイツのコール首相とともに、欧州経済共同体欧州原子力共同体を発展的に進化させて、欧州連合ユーロの創設を主導した。欧州経済共同体設立条約と欧州原子力共同体設立条約を定めた1957年のローマ条約を欧州を統合し欧州連合を創設するために発展的に改変し、1986年に単一欧州議定書を採択し1987年に発効させ、1992年にマーストリヒト条約を採択・署名し、1993年に発効させた。

1985年には加盟国間で国境検査無しで国境を越えて移動できるシェンゲン協定を採択し、2016年時点では加盟国は25か国に拡大している。

1990年には欧州通貨統合の第1段階として、欧州経済共同体の加盟国間では投資の自由化され、1994年には欧州通貨統合の第2段階として、欧州中央銀行の前身の欧州通貨機構が設立され、加盟国の財政状況を審査を開始した。ミッテランが2期14年の任期を終了して退任してから7月後の1995年12月には、欧州理事会において欧州統合通貨の名称は「ユーロ」に決定された。ミッテランが退任してから3年7月後の1998年12月には、ユーロは国際決済通貨として使用され始めた。

死去編集

1995年5月、2期14年を終え退任。翌年1996年1月8日に前立腺癌により、アンヌ親子に見守られて、パリの自宅で死去した。主治医だったクロード・ガブラーフランス語版医学博士は、ミッテランの死後に、"Le grand secretフランス語版"(重大な秘密)という題名の著書を発表し、ミッテランは1981年~1995年の任期の大部分を前立腺癌の治療を続けながら大統領職を務め、2期目の任期の終盤には癌の進行により、大統領職の遂行が困難な状況だったが、その病状は公には秘匿され、選挙時や大統領在職中のミッテランの心身の状況について、健康であると偽装して発表されていたと述べた[2]。ミッテランの家族はガブラーが守秘義務を守らず、ミッテランの病状を公開したことに対して、氏と出版社に訴訟を提起した。

家族編集

1944年10月28日にレジスタンスの同志であったダニエルと結婚し、三男をもうける。また1974年には、30年来の付き合いのあったアンヌ・パンジョとの間に、隠し子・マザリーヌをもうけている。葬儀には、自分の棺に最も近い席にマザリーヌとアンヌを座らせることを遺言で指示していた。夫人のダニエルにも、他に愛人がいたことが知られている。ちなみに女性問題に関しては、大統領就任直後の記者団との朝食会の席上で記者から質問を受けた際に、“Et alors ?”(「エ・アロール それが何か?」という意味のフランス語)と応えたことは有名である。

甥のフレデリック・ミッテランは、名画座支配人、映画監督、俳優、プロデューサー、作家、TV司会者であり、サルコジ内閣の文化大臣もつとめている。

後世の評価編集

文人政治家で、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンに似た文章を書くと評された。近年、フランス最後の「国父」として再評価が盛んになっている。

Tns-Sofresが2005年12月20日、21日にフランスの有権者1000人を対象にミッテランに関する電話調査を行った。ミッテランが実行した政策の中で「偉業」だと思うものを問うたところ(複数回答可)、死刑廃止をあげた人がトップで71%、生活保護費や年金の充実、週39時間労働制の実施などの「社会政策」をあげた人が次いで66%で、マーストリヒト条約の署名をあげた人が3番目に多く41%だった。

同調査でミッテランが大統領を務めた任期14年に対する評価を問うたところ、63%の人が「評価できる」と答え、「評価できない」と答えたのは26%だった。戦後の大統領で最も偉大な人物をあげよという設問では、35%がシャルル・ド・ゴールの名を挙げ、ミッテランと回答したのは30%で2位、3位につけたジャック・シラク前大統領の名をあげたのは7%だった。

参考書籍編集

  • エリー・ウィーゼル『ある回想:大統領の深淵』平野新介訳、朝日新聞社、1995年
  • 吉田徹『ミッテラン社会党の転換:社会主義から欧州統合へ』法政大学出版局、2008年
  • ミシェル・ヴィノック『ミッテラン:カトリック少年から社会主義者の大統領へ』大嶋厚訳、吉田書店、2016年

脚注編集

関連項目編集

外部リンク編集