リウドルフ (ザクセン公)
リウドルフ(ドイツ語: Liudolf, 806年頃 - 866年3月12日)は、ザクセンの伯。東ザクセン公とも呼ばれる。東ザクセンの領土をめぐってノルマン人やスラヴ人と争った。リウドルフはリウドルフ家(リウドルフィング家)の事実上の家祖であり、その家名は彼の名に由来する。
リウドルフ Liudolf | |
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ザクセンの伯 | |
在位 | 844年 - 866年 |
出生 |
806年頃 |
死去 |
866年3月12日 |
埋葬 | ブルンスハウゼン修道院 |
配偶者 | オーダ・フォン・ビルング |
子女 | 一覧参照 |
家名 | リウドルフィング家 |
生涯
編集リウドルフは、フランクの族長(princeps)ビルングとエーダの間の娘であるオーダと836年頃[1]に結婚した。このフランク貴族との結婚によって、リウドルフ家はフランク王国内で確固たる地位を占めた。オーダは913年5月17日に亡くなった[2]。107歳と推定されている[2]。また、リウドルフは娘リウトガルトを東フランク王ルートヴィヒ3世と結婚させ、東部辺境の防衛を担うこととなった[3]。
845年(あるいは846年)、リウドルフとオーダはローマ教皇セルギウス2世のもとへ赴き、女子修道院を建設する許可を願い出た。セルギウス2世はこれを許可し、852年にブルンスハウゼンに女子修道院が建設され[4]、リウドルフの娘のハトゥモット(Hathumod)が初代女子修道院長に就任した。その後881年に修道院は移設され、ガンダースハイム修道院となった。リウドルフは866年に死去し、ブルンスハウゼンに埋葬された。
リウドルフの死後、息子ブルンがザクセン公位を継いだが、ブルンはノルマン人との戦いで戦死し、ブルンの弟オットー1世(貴顕公)が公位を継いだ[3]。オットーの息子が東フランク王ハインリヒ1世である。
子女
編集オーダとの間に少なくとも7人の子女をもうけた[5]。
- ブルン(830/40年 - 880年) - ザクセン公(866年 - 880年)
- リウトガルト(840年頃 - 885年) - 東フランク王ルートヴィヒ3世と結婚[6]
- ハトゥモット(Hathumod)(840年頃 - 874年) - 初代ブルンスハウゼン女子修道院長(852年 - 874年)
- オーダ(845年頃 - 874年) - シュターデ伯ロタール1世と結婚
- オットー1世(851年頃 - 912年) - ザクセン公(880年 - 912年)、東フランク王ハインリヒ1世の父
- ゲルベルガ(? - 896/7年)- ブルンスハウゼン女子修道院長(874年 - 896/7年)
- クリスティナ(? - 919/20年) - ガンダースハイム女子修道院長(896/7年 - 919/20年)[6]
脚注
編集- ^ Ludwig A. Winterswyl, Otto der Grosse und das Erste Reich der Deutschen. Obelisk-Verlag, 1937. p.95
- ^ a b Saint Odilo (Abbot of Cluny), Queenship and sanctity: The lives of Mathilda and The epitaph of Adelheid. Trans. Sean Gilsdorf, Catholic University of America Press, 2004. p. 24.
- ^ a b 成瀬 他、p. 97
- ^ Pierre Riche, The Carolingians: A Family who Forged Europe, transl. Michael Idomir Allen, University of Pennsylvania Press, 1993. p. 186.
- ^ Althoff, Gerd; Carroll, Christopher, Family, Friends and Followers: Political and Social Bonds in Medieval Europe. Cambridge University Press, 2004. p. 38.
- ^ a b Jana K. Schulman, The Rise of the Medieval World, 500-1300: A Biographical Dictionary, Greenwood Press, 2002. p. 271.
参考文献
編集関連項目
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