ルイーズ=イポリット (モナコ女公)
ルイーズ=イポリット・ド・モナコ(Louse-Hippolyte de Monaco, 1697年11月10日 - 1731年12月29日)は、モナコ女公[1]。現在のモナコ公家の先祖。
ルイーズ=イポリット Louse-Hippolyte | |
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モナコ女公 | |
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在位 | 1731年2月20日 - 12月29日 |
出生 |
1697年11月10日![]() |
死去 |
1731年12月29日(34歳没)![]() |
埋葬 |
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配偶者 | ジャック・フランソワ・ゴワイヨン・ド・マティニョン |
子女 | 一覧参照 |
家名 | グリマルディ家 |
父親 | モナコ公アントワーヌ1世 |
母親 | マリー・ド・ロレーヌ |
生涯 編集
モナコ公アントワーヌ1世と妃でアルマニャック伯ルイの娘マリー・ド・ロレーヌの娘として生まれた。他に男の兄弟がないため、ルイーズ=イポリットが次期継承者とされた。アントワーヌはフランス王ルイ14世の許しを得て、娘の未来の夫はルイーズ=イポリットの共同統治者となり、グリマルディの姓を与えることに決めた。
1715年10月、18歳でルイーズ=イポリットはジャック・フランソワ・ゴワイヨン・ド・マティニョンと結婚し、8子を生んだ。この結婚は不幸だった。ジャックはモナコよりも、華やかなヴェルサイユ宮殿暮らしを好み、多くの愛妾を抱えていたからである。
父の死により、ルイーズ=イポリットは1731年4月にパリからモナコへやってきて、国民により歓迎会が開かれた。その歓迎会に出席したジャックが加わると、会場の雰囲気が冷ややかなものに変わったという。同年暮れ、ルイーズ=イポリットは天然痘で急死した。ジャックは国事を放棄したうえ、翌1732年5月にはモナコを離れてフランスへ戻った。彼は1733年に長男オノレに公位を譲った。
子女 編集
- アントワーヌ・シャルル・マリー(1717年 - 1718年) - デ・ボー侯爵
- シャルロット・テレーズ・ナタリー(1719年 - 1790年) - 「モナコ姫」、修道女
- オノレ・カミーユ・レオノール(1720年 - 1795年) - デ・ボー侯爵、モナコ公
- シャルル・マリー・オーギュスト(1722年 - 1749年) - カルラデス伯爵
- ジャック(1723年)
- ルイーズ・フランソワーズ(1724年) - 「デ・ボー姫」
- フランソワ・シャルル(1726年 - 1743年) - トリニー伯
- シャルル・モーリス(1727年 - 1798年) - ヴァランティノワ伯爵
- マリー・フランソワーズ・テレーズ(1728年 - 1743年) - 「エストゥトヴィル姫」
引用・脚注 編集
- ^ “モナコ公国(Principality of Monaco) 基礎データ”. 日本国外務省 Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2020年2月10日閲覧。
外部リンク 編集
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