万 彧(ばん いく、? - 272年)は、中国三国時代政治家文彬。『三国志』呉志 三嗣主伝と、その他各伝に分散して記述がある。

生涯 編集

万彧は何定奚熙陳声張俶岑昏らと並び、孫晧の佞臣として有名であったという。

はじめ、呉郡烏程県令であった。このとき孫晧と仲良くなったという。孫休の死後、朱太后張布濮陽興が孫休の遺言に従い、その遺児を擁立しようとしたが、左典軍であった万彧は幼少であることを理由として強硬に反対し、丁奉の賛成を取り付け、孫晧の即位を実現させた[1]。孫晧即位後、王蕃郭逴楼玄と共に常侍となった。成り上がり者であったため、清廉なことで知られていた王蕃から軽蔑されているのではと、疑っていたという[2]

濮陽興と張布らを孫晧に讒言し失脚させた[3]。その後、右丞相となり、宝鼎2年(267年)に巴丘の守備を任されるなど、孫晧から重用された。宮中の責任者として適任な人物像について孫晧に助言し、楼玄を任用させている[4]。成り上がり者であったため多くの人に軽侮されており、陸凱から孫晧の政治を痛烈に批判する上疏をされた時、その中で身分の卑しい小人と断じられている。宝鼎3年(268年)10月、施績が江夏に侵入し、万彧は襄陽を攻撃したが、晋軍は司馬望を龍陂に駐屯させ、後将軍・田章と荊州刺史・胡烈によって万彧は敗れた[5]

建衡2年(270年)には建業に戻っている。

鳳凰元年(272年)8月、孫晧から譴責されたため、これにショックを受けて憤死した。一説には、建衡3年(271年)に孫晧が一族を引き連れ、突然華里に赴いたことを家臣が慌てて連れ戻した事件が起きた時、丁奉や留平とともに孫晧を見限るような発言をした。それを聞いた孫晧は万彧達を憎むようになり、後日、留平と共に毒酒を飲ませ殺害しようとした。万彧は、毒盛りの下手人が毒の量を減らしていたため死ななかったものの、この処遇にショックを受け自殺してしまった[6]と伝わる。子弟たちは廬陵郡に強制移住となったという[7]

小説『三国志演義』では、孫晧に諫言したが聞き入れられず、逆に怒りを買い殺された臣下の一人として、名が挙がるのみである。

参考文献 編集

脚注 編集

  1. ^ 三国志』呉志 濮陽興伝
  2. ^ 『三国志』呉志 王蕃伝
  3. ^ 『三国志』呉志 濮陽興伝
  4. ^ 『三国志』呉志 楼玄伝
  5. ^ 『晋書』卷三 世祖武帝紀、『宋書』志 巻23 天文
  6. ^ 江表伝
  7. ^ 『三国志』呉志 孫晧伝