三条公泰
三条 公泰(さんじょう きんやす)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。右大臣・三条実親の二男。官位は正二位・権中納言。内大臣・三条公親の同母弟。息男である三条実盛は浅原事件の影響から六波羅探題に捕縛され、のちに釈放された。
時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛喜3年(1231年) |
死没 | 不詳 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇 |
氏族 | 藤原氏北家閑院流三条家 |
父母 | 父:三条実親、母:西園寺公経の次女 |
兄弟 | 公親、公泰、公隆、公緒、公朝、公尊、実円、定敒、奝助、深助、教助、公禅、円禅、公愉、女子 |
子 | 実盛[1]、実永[1]、公雅[2]、実海、公聖、実尊、実顕、忠海、行讃、権大納言局[3] |
経歴
編集以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 延応2年(1239年)1月22日、侍従に任ぜられる。
- 仁治元年(1240年)10月28日、従五位上に昇叙。
- 仁治2年(1241年)2月8日、右少将に任ぜられる。
- 仁治3年(1242年)1月5日、正五位下に昇叙[4]。同年3月7日、出羽権介を兼ねる。
- 仁治4年(1243年)1月5日、従四位下に昇叙[5]。
- 寛元元年(1243年)4月18日、右少将に改めて任ぜられ、春宮権亮を兼ねる。
- 寛元2年(1244年)4月5日、左中将に転任。
- 寛元3年(1245年)1月5日、従四位上に昇叙[6]。
- 寛元4年(1246年)2月23日、備前介を兼ねる。
- 宝治2年(1248年)1月7日、正四位下に昇叙[7]。同年10月29日、蔵人頭に補せられる。
- 建長2年(1250年)1月13日、参議に任ぜられる。右中将は元の如し。同年9月16日、従三位に叙せられる。
- 建長3年(1251年)1月22日、伊勢権守を兼ねる。
- 建長4年(1252年)12月4日、正三位に昇叙。
- 建長6年(1254年)1月5日、従二位に昇叙。同月13日、権中納言に昇任。
- 正嘉2年(1258年)11月2日、正二位に昇叙。
- 正元元年(1259年)9月28日、解官される[8]。
- 正応5年(1292年)5月15日、出家[9]。
系譜
編集脚注
編集- ^ a b 極官は参議
- ^ 極官は権中納言
- ^ 後二条天皇宮人
- ^ 安嘉門院当年御給。
- ^ 安嘉門院大嘗会御給。
- ^ 春宮去年御給。
- ^ 中宮当年御給。
- ^ 解官の理由は明確ではない。ただし、同年11月に亀山天皇が即位していることから、後深草天皇から亀山天皇へ代替わりに当たって何らかの出来事があったのかも知れない。なお、兄公親は当時権大納言兼右大将であり、その地位に変動はなかった。しかし、兄公親も弘長2年(1262年)1月に内大臣を辞してから薨去するまで、全く官位の昇進がなかった。順調な昇進であった兄弟がそろって辞官後30年間も地位に変化がなかったことになり、これは大覚寺統が皇位にあった時期と重なるのである。
- ^ 同年7月に兄公親が薨去する。