三沢の乱(さんたくのらん)は、天正13年8月16日1585年10月9日)、姉小路氏の家臣であった三木国綱(入道三沢)が飛騨国の統治者となった金森長近に対して起こした反乱である。

三沢の乱
戦争安土桃山時代
年月日天正13年8月16日1585年10月9日)- 閏8月17日10月10日
場所飛騨国
結果:金森軍の勝利、一揆勢の壊滅
交戦勢力
金森氏 飛騨牢人衆
指導者・指揮官
金森長近
金森可重
三木国綱 
江馬時政
鍋山右近大夫
広瀬宗直
戦力
不明 約500
損害
不明 壊滅

経緯 編集

天正10年(1582年6月2日本能寺の変によって織田信長信忠父子が横死すると、織田家の領地は混乱状態に陥った。これに乗じて飛騨統一を目論んだ姉小路頼綱は同年10月の八日町の戦い江馬輝盛を滅ぼし、次いで協力関係にあった広瀬宗域を謀殺して飛騨を手中に収めるが、羽柴秀吉と敵対していた佐々成政と同盟を結んでいたことから秀吉の追討を受けることになり、天正13年(1585年)8月には金森長近率いる飛騨征伐軍が飛騨に侵攻(飛騨征伐)、頼綱は降伏してに隠棲し、ここに戦国大名としての姉小路家は滅亡した。

三木国綱による決起 編集

飛騨一宮水無神社の神官であった一宮国綱は姉小路良頼の娘婿となったことで三木姓を許されるとともにその家臣となっていた。飛騨征伐においては国綱も金森軍に抵抗し捕らえられるが、領民の嘆願により赦免されて久々野村に閉居し、人質として娘の弁が鍋山城に入れられた[1]

一方、飛騨征伐で金森軍の先鋒を務めた飛騨牢人衆の江馬時政鍋山右近大夫広瀬宗直はかつての旧領を回復されなかったことから、新たに飛騨の統治者となった金森長近・可重父子に対して不満を募らせ、遂に国綱こと三沢を擁して一揆を起こす。

天正13年(1585年)閏8月16日夕刻、小八賀郷の一揆勢は鍋山城へ、三沢を主将とする七ヶ村及び阿多野川上筋の一揆勢500人は山下城へそれぞれ攻め寄せるが、ともに金森軍によって撃退され、翌8月17日、三沢をはじめとする一揆勢200人は水無瀬神社に立て籠もり抵抗するも敗北、三沢は山上へ逃れるところを討たれたという[1]

また、益田川筋の土豪5、600人も三沢に呼応して北上するが、既に三沢率いる一揆勢は敗北したあとだったという。その後、益田川筋の一揆勢は江名子糠塚に進出して金森軍と一戦交えるも、やがて阿多野城に退去した後、数日後に解散した[1]

その後、三沢の首級は鍋山城の麓に晒され、弁も五明村で磔にされたという[1]

一揆の制圧後も飛騨は不安定な状態が続き、同年10月には江馬・鍋山・広瀬が再び一揆を起こすが鎮圧され、江馬は荒木郷八日町村で、鍋山は吉城郡山本村で自害し、広瀬は信濃に落ち延びた後、近江に逃れて井伊氏に仕えたという[2]

出典 編集

  1. ^ a b c d 谷口 2007, p. 218-219.
  2. ^ 岡村 2013, p. 335.

参考文献 編集

  • 谷口研語『飛騨三木一族』新人物往来社、2007年3月15日。ISBN 9784404034489 
  • 岡村守彦『飛騨中世史の研究(復刻版)』戎光祥出版、2013年11月1日。ISBN 9784864030991