三浦 明喬(みうら あきたか)は、江戸時代中期の大名三河刈谷藩の第2代藩主。美作勝山藩三浦家第4代。

 
三浦明喬
時代 江戸時代中期
生誕 元禄2年10月13日1689年11月24日
死没 享保11年4月6日1726年5月7日
改名 吉五郎、百助(幼名)→明喬
戒名 高岳院殿隆誉崇山光翁大居士
墓所 東京都府中市紅葉丘の誓願寺
官位 従五位下、備後守、壱岐
幕府 江戸幕府
三河刈谷藩
氏族 三浦氏
父母 父:三浦明敬、母:田中満吉の娘
兄弟 重次明喬明胤義理
正室:土屋政直の養女(土屋喬直の娘)
継室:鍋島吉茂の養女(鍋島元武の娘)
男、男、明次
養子:義理
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生涯編集

元禄2年(1689年)10月13日、初代藩主三浦明敬の三男として生まれる。兄の重次が早世したため嫡子となり、元禄12年(1699年)9月15日、第5代将軍徳川綱吉に拝謁し、元禄16年(1703年)12月21日に従五位下・備後守に叙位・任官する。享保9年(1724年)2月15日、父の隠居により家督を継ぐが、父の後を追うように享保11年(1726年)4月6日に死去した。享年38。

実子は三男の明次を除いてほとんど早世した。明喬死去時は明次が幼少のため、弟の義理が養子となって跡を継いだ。

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