三股淵
概要
編集三股淵は他に「牲淵」「贄淵[1]」「富士の御池」「牲池[2]」「牲渕[2]」といった表記・呼称がある。三股淵は民間伝承の地であり、大蛇が住んでいるとされた場所で、大蛇に生贄(人間)を捧げる人身御供譚が伝わっている。
多くの地誌で言及されている他、歴史の中で能「生贄」といった三股淵を舞台とした芸能作品も成立した。
この三股淵の伝承は主に民俗学の分野で研究対象とされてきた。古くは柳田國男が1911年の論考の中で能「生贄」と六王子神社に触れ[3]、また1927年の論考にてやはり能「生贄」に言及しており、人身御供の考察の中で引き合いに出されている[4]。
富士の御池
編集三股淵は能「生贄」においては「富士の御池」と呼称されている。謡曲には以下のようにある。
吉原の宿に着きにけり(中略)今夜此宿に御泊り候ふ人は明日富士の御池の贄の御鬮に御出でなくては叶はぬ事にて候ふ間 — 謡曲「生贄」
富士の御池は三股淵のことを指すが[5]、後述する阿字は登場しない。三股淵が能「生贄」の舞台の地であることは知られていたようであり、紀行文等に確認される。
川合橋は天保14年(1843年)成立『駿国雑志』に
天香久山の麓に、牲池と云淵あり。河上は陽明寺より流て、駅道に至る。橋あり、川井橋と云。是牲川也、云々
と牲池(三股淵)とともに紹介されている[2]。
少女「阿字」にまつわる伝承
編集阿字(阿兒)という少女が三股淵の大蛇に捧げる生贄となる伝承が様々な史料に伝わっている。各史料により異同があるが、大筋では共通している[注釈 1]。
例えば駿河国の地誌である『駿河記』には以下のようにある。
巫女六人、官職の為に上京せむと道此所に至る。里人これを捕え生贄に備むとす。(中略)これより後永く生贄を取ることを止みぬ。依て里人其得を貴び功を追て、六人の巫女を神に斎祭る — 『駿河記』巻二十四富士郡巻之一「柏原新田」
このように、柏原新田の里人が巫女を捕らえ生贄に備えるといった内容が記されている。この場合、阿字は巫女の下女としての立場である。また享保18年(1733年)『田子乃古道』には以下のようにある。
関東より上京の神子七人連れにて来りしを、この前の祭礼に留められて、七人の内、若き娘壱人、おあぢという神子、御供の御くじに当り、哀れ備えらるゝに定まる(中略)所の民、急き揚げて介抱すといえども、活きなし。壱所に土中に埋めて碑す(中略)見附宿の老若、厚く行い、悪霊も治まりたるは、正しくこの神子殿の事なりと云いて、あぢ神とあがめ祭らんと議しむ。それより宮居を立つる。今のあぢ神これなり。残り六人を柏原にても、六の神子と名付け、これも同じく神子祭るなり — 『田子乃古道』
この場合、阿字は神子である。「今のあぢ神これなり」とあるのは阿字神社のことであり、また「六の神子と名付け、これも同じく神子祭るなり」とあるのは六王子神社のことである。
龍女
編集三股淵には龍女にまつわる伝承があり、『駿国雑志』等に記される[2][7]。あらすじは以下のようなものである[8]。
あるとき伝法村[注釈 2]の保寿寺の芝源和尚は、三股淵に毒龍がおり洪水を引き起こし生贄を求めるなどしていたと聞き及んだ。芝源は民を守るため、三股淵で読経しこれを鎮めようとする。その夜、芝源の元に美女が現れ、「我は牲川[注釈 3]の龍女なり」と述べる。龍女は続いて、毎年祭りを行い読経し食物を供奉すれば、厄災をもたらさないと述べる。芝源が誓いを求めると、龍女は「みどりの鱗三箇」を残して去った。それより洪水と生贄は止んだという。
この伝承は保寿寺に伝わる元禄15年(1702年)の奥書を持つ縁起書にも記されており[9]、また龍女が残したという鱗数片は寺の宝物として現在も管理されている。また同寺の口碑によると、この三股淵の毒龍調伏は徳川家康の命によるものであり、天正15年(1587年)6月のことであるという[10]。
またこの功により、家康の命で相模国鎌倉郡海宝院の住寺として之源が召呼されたという[11]。文化9年(1812年)の奥書を持つ相模国の地誌『三浦古尋録』には以下のようにある。
東照宮ノ御差図ヲ以テ駿州保寿寺ノ之源和尚ヲ住持二召呼シ此寺建立有(中略)此和尚保寿住職ノ節富士川ノ大蛇ヲ化度致サレシヨシ故二保寿寺ノ宝物二大蛇ノ鱗幷蛇牙有ト云 — 『三浦古尋録』中巻「沼間村」[12]
このように大蛇の鱗と牙は保寿寺の宝物とあるが、之源はこのうち鱗数片を保寿寺から持参したとある。龍女の鱗は元々保寿寺に7片納められており、そのうち2片を海宝院へ納めたというが、海宝院のものは伽藍消失の際に失却したという[13]。
稚贄屯倉
編集三股淵は牲淵と呼称され、また吉原驛や青嶋[注釈 4]の地一帯が「生贄郷(池贄)」と称されていたことから[14]、『日本書紀』安閑天皇2年5月9日条に見える「駿河国の稚贄屯倉」との関係性を指摘するものがある[15]。稚贄が転じて生贄となったとして、鈴川(元吉原)を稚贄屯倉の所在地に比定する説がある[16][17][18]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 『駿河志料』巻之五十二富士郡二「鈴川」
- ^ a b c d 『駿国雑志』巻之廿四上「毒龍受牲」
- ^ 民俗学資料叢書5 1998, p. 54-58.
- ^ 民俗学資料叢書5 1998, p. 285.
- ^ 富士市 2018, p. 81.
- ^ 紀行文集22 1930, p. 21.
- ^ 堤邦彦・杉本好伸編『近世民間異聞怪談集成』(江戸怪異綺想文芸大系5)327-328頁、国書刊行会、2003
- ^ 堤 2008, p. 226-227.
- ^ 堤 2008, p. 227.
- ^ 堤 2008, p. 229.
- ^ 逗子市 1974, p. 102.
- ^ 三浦古尋録 1967, p. 126.
- ^ 逗子市 1974, p. 105.
- ^ 『駿河志料』巻之五十一富士郡一「青嶋」
- ^ 藤枝市 2010, p. 218-219.
- ^ 吉田 1992, p. 1000.
- ^ 野本 1976, p. 26-27.
- ^ 夏目 1977, p. 4-5.
参考文献
編集- 柳田國男『紀行文集 第22篇』博文館〈帝国文庫〉、1930年。
- 加藤山寿『校訂 三浦古尋録』横須賀市図書館、1967年。
- 改訂逗子町誌刊行会『改訂逗子町誌』逗子市、1974年。
- 野本寛一「富士の信仰と文学」『地方史静岡』第6号、1976年、20-39頁。
- 夏目隆文『萬葉集の歴史地理的研究』法蔵館、1977年。
- 吉田東伍『大日本地名辞書 北国東北』冨山房、1992年。ISBN 978-4-572-00089-7。
- 礫川全次『生贄と人柱の民俗学』批評社〈歴史民俗学資料叢書5〉、1998年。
- 堤邦彦『江戸の高僧伝説』三弥井書店〈三弥井民俗選書〉、2008年。
- 富士市教育委員会『鈴川の富士塚』〈富士市文化財調査報告書〉2018年。