上野城(うえのじょう)は、三重県津市河芸町上野にあった日本の城山城)。

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上野城
三重県
伊勢上野城跡の天守台跡に立つ展望台
伊勢上野城跡の天守台跡に立つ展望台
城郭構造 平山城
築城主 織田信包
築城年 元亀元年(1570年
廃城年 元和5年(1619年
遺構 本丸・二の丸・櫓台・空堀・土塁
指定文化財 未指定
位置 北緯34度47分30.9秒 東経136度32分34.9秒 / 北緯34.791917度 東経136.543028度 / 34.791917; 136.543028
地図
上野城の位置(三重県内)
上野城
上野城
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概要

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上野の町並みを見下ろす標高30メートルの台地上にあり、台地の東側は断崖状になっていて伊勢湾を一望でき、他の三方は谷に囲まれ、南方は津市街が間近に見られる[1]。東西230メートル、南北120メートルの規模で、本丸は80メートル四方の高台で、低い土塁と北西隅の台状地を備えている[1]。東側に二の丸が置かれ、その東側には幅20メートル近い空堀が造られており、北側に入り込んだ谷は古図には池と書かれていて、南・西の谷とともに城を囲む自然の堀を形成している[1]

現在は本城山青少年公園となっており、本丸跡には二階が資料室となった展望台が設けられている[2]

歴史

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元亀元年(1570年)、織田信包津城(安濃津城)の仮城として分部光嘉に築城させた[1]天正8年(1580年)、津城の完成により、信包が居城を移したため、分部光嘉が城代となり、文禄3年(1594年)に信包が近江へ改易になると、光嘉が城主に任ぜられて独立した城となった[1]元和5年(1619年)、光嘉の養嗣子光信近江国大溝藩へ移封となったため、廃城となった[1]

なお浅井長政が滅亡の後、長政の妻であるお市の方と娘の茶々は信包に預けられ、一時この城で過ごしたと言われてきた[3]。しかし、近年の研究によると、当初、お市の方と三姉妹を保護したのは信包ではなく、信長、信包、お市達の叔父である織田信次であることが明らかとなっており、上野城に滞在していたとされるのは誤りで、尾張国守山城で過ごしていたのが正しいとされる(『溪心院文』)[4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 日本城郭大系』 10巻、新人物往来社、1980年、181 -182頁。 
  2. ^ 伊勢上野城跡 本城山青少年公園展望台2階 資料室”. 津市. 2012年9月10日閲覧。
  3. ^ 小和田哲男『戦国三姉妹物語』角川書店、1997年、44-47頁。 
  4. ^ 宮本義己『誰も知らなかった江』毎日コミュニケーションズ、2010年、66-74頁。 

関連項目

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外部リンク

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