藤原伊房

1030-1096, 平安時代中期~後期の公家。藤原行経の子。世尊寺流の能書家。官位は正二位・権中納言。勅撰集『後拾遺和歌集』以下に5首入集
世尊寺伊房から転送)

藤原 伊房(ふじわら の これふさ)は、平安時代中期から後期にかけての公家世尊寺流能書家権大納言藤原行成の孫で、参議藤原行経の長男。官位正二位権中納言

 
藤原 伊房
時代 平安時代中期・後期
生誕 長元3年(1030年
死没 永長元年9月16日1096年10月4日
官位 正二位権中納言
主君 後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇
氏族 藤原北家世尊寺流
父母 父:藤原行経、母:源貞亮の娘
兄弟 伊房師行資宗行豪禅円行教
高階成章の娘
定実、公伊、快覚、寛尹、藤原師季
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経歴

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藍紙本万葉集

後朱雀朝末の長久4年(1043年従五位下叙爵し、後冷泉朝寛徳2年(1045年侍従に任ぜられる。

のち、左兵衛佐少納言を経て、天喜4年(1056年五位蔵人、天喜6年(1058年右少弁次いで左少弁に任ぜられ、天皇の身近に仕える。治暦元年(1065年権左中弁に昇格すると、治暦2年(1066年従四位下、治暦3年(1067年)2月に従四位上、同年4月には正四位下と後冷泉朝末にかけて急速に昇進した。

後三条朝に入っても、延久元年(1069年蔵人頭兼左中弁と要職を務め、延久4年(1072年)正四位上・参議兼右大弁に叙任されて公卿に列す。白河朝でも議政官として左右大弁を兼帯する傍ら、延久5年(1073年従三位承保2年(1075年正三位、承保4年(1077年従二位と昇進して、承暦4年(1080年権中納言に任じられ、永保2年(1082年)には正二位に至った。

堀河朝寛治2年(1088年大宰権帥を兼ねて大宰府に赴任する。寛治8年(1094年)大宰権帥の職権を利用してと私貿易を行ったことを咎められ、従二位に降格の上、権中納言兼大宰権帥の官職を解かれた。嘉保3年(1096年)8月に正二位への復位が許されたが、病気のため9月16日に出家し同日に没した。享年67。以後、世尊寺家は四代続けて公卿に昇ることが出来ず、公家としては苦難の時代を迎えることになる。

人物

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白河天皇に仕えた賢臣として、大江匡房藤原為房とともに「前の三房」と並び称された。

勅撰歌人として、『後拾遺和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に5首が採録されている[1]。なお、『後拾遺和歌集』の奏覧本の清書を依頼された際に、自分の和歌作品が1首しか入首していなかったことから、勝手に2首を書き加えたところ、発覚して書き直しを命じられるが、それに立腹して清書の役を辞したという。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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注釈

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  1. ^ 光孝源氏出身

出典

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  1. ^ 『勅撰作者部類』[要文献特定詳細情報]

参考文献

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  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年