二二八和平公園

台北の公園
二二八和平紀念公園から転送)

二二八和平公園(にいにいはちわへいこうえん、英語: 228 Peace Memorial Park)は台湾台北市中正区にある公園で、日本統治時代に作られた台北新公園を前身とする。四囲は南が凱達格蘭大道、北が襄陽路、西が懷寧街、東が公園路に接し、面積は71,520 m2

公園俯瞰(中央下の新古典主義建築国立台湾博物館)、上に二二八和平紀念碑

歴史

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新公園時代の旧景

公園が作られる以前は1888年に落成した台北天后宮(媽祖)があるだけで周囲には何も無い荒蕪地であった。日本統治時代に入り、統治当局は当地に大規模な都市公園建設を計画し、1899年に起工し1908年に初期の完成に到って開園した。台湾に建設された最初のヨーロッパ風近代的都市公園であり、開園が1897年に完成した円山公園に次ぐものであったので台北新公園と名付けられた。

1913年、日本の統治当局は「市区改正」という都市計画に基づき、敷地南側に残っていた台北天后宮を取り壊し北側に「児玉総督後藤民政長官記念館」(1915年完成。現在の国立台湾博物館)建設を開始した。同時に台北駅方向の園外の北側を官庁街や日本人居留地として開発整備した。

1935年に開催された台湾博覧会では南側の介寿公園とともに主会場となった。また、台北天満宮社も建立された。

 
樓閣

第二次世界大戦で日本が敗北して台湾が中華民国に接収された1945年の二年後の1947年2月28日に勃発した二・二八事件では、中心地の一つとなった。中華民国による台湾統治に反抗して蜂起した台湾住民が園内の台湾ラジオ放送局(旧台湾放送協会本部)を占拠し、台湾全土に向けて台北での蜂起を告げたのだった。後には当時の台湾統治責任者であった台湾行政長官の陳儀がこの放送を通じて蜂起した台湾住民に対して投降を呼びかけた。

1996年2月28日、当時の陳水扁台北市長(後に中華民国総統)は二・二八事件で犠牲となった台湾住民を追悼する二二八和平紀念碑を建立し、公園の名称を二二八和平紀念公園に改めた。また、事件の舞台となったかつて放送局の建物を台北二二八和平紀念館とした。

1997年から2010年までは明石元二郎台湾総督と鎌田秘書官の墓前にあった鳥居森林公園整備のため移設されたが、整備完了を受けて再び森林公園に戻された[1][2]

 
台北市 二二八和平公園_追思廊

台北二二八紀念館の前の「追思廊」には、2.28事件の縁起、台湾の自治及び、2.28事件の始末などが、分かりやすく説明している資料が置かれており、2.28記念館閉館時でも事件の内容を詳しく知ることができる。

園内施設

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二二八和平紀念碑

二二八和平紀念碑碑文

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1945年日本戰敗投降,消息傳來,萬民歡騰,慶幸脱離不公不義之殖民統治。詎料台灣行政長官陳儀,肩負接收治台重任,卻不諳民情,施政偏頗,歧視台民,加以官紀敗壞,産銷失調,物價飛漲,失業嚴重,民衆不滿情緒瀕于沸點。

(1945年に日本が敗戦し投降した。この消息が伝わると、みなが喜びに沸きかえり、不公平で不正義の植民統治から離脱できることを祝った。しかし、期待に反し、台湾行政長官の陳儀は接収の重責を担っているにもかかわらず、民情に暗く施政は極めて偏向し、台湾の民を軽蔑した。さらに官吏の風紀は腐敗し、生産、販売は失調し、物価は暴騰し、失業は深刻となり、民衆の不満は沸点に達した。)

1947年2月27日,專賣局人員于台北市延平北路查緝私煙,打傷女販,誤殺路人,激起民憤。次日,台北群衆遊行示威,前往長官公署請求懲凶,不意竟遭槍擊,死傷數人,由是點燃全面抗爭怒火。爲解決爭端與消除積怨,各地士紳組成事件處理委員會,居中協調,並提出政治改革要求。

(1947年2月27日、専売局の職員が台北市延平北路において密売タバコ取り締まりを行った際、婦人の販売人を殴打し、通行人を誤って殺害したことから、民衆の激憤を引き起こした。翌日、台北の群衆はデモ行進を行い、犯人の処罰を求めて長官公署を訪れた。ところが、射撃にあい、数人の死者を出した。これより抗争の怒りの火は全面的に広がることになった。争いを解決し、積もり積もった怨恨を取り除くため、各地の指導者は事件処理委員会を組織し、調停にあたるとともに、政治改革の要求を提出した。)

不料,陳儀顢頇剛愎,壹面協調,壹面以士紳爲奸匪叛徒,逕向南京請兵。國民政府主席蔣中正聞報,即派兵來台。3月8日,二十壹師在師長劉雨卿指揮下登陸基隆。10日,全台戒嚴。警備總司令部參謀長柯遠芬、基隆要塞司令史宏熹、高雄要塞司令彭孟緝及憲兵團長張慕陶等人,在鎮壓清郷時,株連無辜,數月之間,死傷、失蹤者數以萬計,其中以基隆、台北、嘉義、高雄最爲慘重,事稱二二八事件。

(しかし、予期に反し陳儀は愚鈍で強情で一方で調停に応じると見せながら、一方で地方のリーダーたちを反徒とみなし南京に派兵を求めた。国民政府主席の蒋中正(蒋介石)は報告を聞くと直ちに兵を台湾に派遣した。3月8日、21師団が師団長の劉雨卿の指揮の下に基隆に上陸し、数ヶ月間、死者、行方不明者は数万を数えた。そのうち、基隆、台北、嘉義、高雄、が最も凄惨だった。この事件は二二八事件と呼ばれている。)

斯後近半世紀,台灣長期戒嚴,朝野襟若寒蟬,莫敢觸及此壹禁忌。然冤屈鬱積,終須宣泄,省籍猜忌與統獨爭議,尤屬隱憂。1987年解嚴後,各界深感沈疴不治,安和難期,乃有二二八事件之調查研究,國家元首之致歉,受難者與其家屬之補償,以及紀念碑之建立。療癒社會巨創,有賴全民共盡心力。勒石雋文,旨在告慰亡者在天之靈,平撫受難者及其家屬悲憤之情,並警示國人,引爲殷鑒。自今而後,無分你我,凝爲壹體,互助以愛,相待以誠,化仇恨于無形,肇和平于永恒。天佑寶島,萬古長青。

(それから半世紀、台湾は長期的な戒厳令下にあって、朝野とも口を閉ざし誰もこのタブーに触れようとしなかった。しかし、屈服と鬱積は最後には発散されなければならない。とりわけ、省籍による不信感と統一・独立に対する争いは覆い隠される。1987年の戒厳令解除後、各界はこの事態の困難さと、和解の難しさを深く感じたために、二二八事件の調査・研究、国家元首の謝罪、受難者と遺族への補償、そして記念碑の建立を行った。社会の大きな傷を癒すためにはすべての国民がともに心を尽くすことが必要である。碑文を刻むことには天にある死者の魂を慰め、受難者と遺族の悲憤を鎮めるとともに、これを鏡とするよう国民に警告を与えるという趣旨がある。今後、敵味方を分かたず、一体となって互いに助け合い、互いに誠実に恨みをなくし、平和を永遠のものとしようではないか。宝の島に天の恵みあれ、永遠に栄あれ。)

財團法人二二八事件紀念基金會謹立。

近隣施設

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交通アクセス

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脚注

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  1. ^ 帰ってきた二つの鳥居”. 日本李登輝友の会 台北事務所 (2011年4月11日). 2015年10月17日閲覧。 “昨秋、「いつの間にやら」という感じで移された”
  2. ^ 元台湾総督、明石元二郎の墓の鳥居戻る 台北”. 朝日新聞社 (2011年1月3日). 2011年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月17日閲覧。

関連文献

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外部リンク

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座標: 北緯25度2分30秒 東経121度30分53秒 / 北緯25.04167度 東経121.51472度 / 25.04167; 121.51472