二条河原の落書
二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)とは、建武の新政で官僚として活躍した人物(太田時連?)が記録した『建武年間記(建武記)』に収録されている文である。88節に渡り、建武の新政当時の混沌とした世相を風刺した七五調の文書。専門家の間でも最高傑作と評価される落書の一つである。最初の二行だけ読まれて建武政権批判の落書と誤解されることが多いが、実際は、連歌・田楽・茶寄合・禅宗・律宗なども含め、当時生まれつつあった混沌としつつも新しく活気ある風習・文化を満遍なく風刺したものである。建武2年(1335年)8月成立(古くは建武元年説も有る)。
概要編集
鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政が開始されてから2年後の、建武2年(1335年)8月(建武元年(1334年)8月説も存在、後述)に、建武政権の政庁である二条富小路近くの二条河原(鴨川流域のうち、現在の京都市中京区二条大橋付近)に掲げられたとされる落書(政治や社会などを批判した文)で、写本として現代にも伝わる。
作者は不詳、建武政権に不満を持つ京都の僧か貴族、京童であるとも言われているが、中国の『書経』・『説苑』由来と見られる文言や今様の尽くし歌風の七五調の要素を持つ一種の詩をかたどった文書であり、漢詩や和歌に精通している人物が書いたことは間違いないと思われる。また、後嵯峨院が治天の君の時代であった正元2年(1260年)に院の御所近くに掲げられた『正元二年院落書』を意識したとする見方もある。
ただし、内容を単に「建武政権批判」とするのは、事実と相違している。たとえば、混乱期の中で成長してきた武士や民衆の台頭、彼らが生み出した新たな文化や風習(連歌・田楽・茶寄合など)、また学問に偏った旧仏教と違い厳しい戒律を貫いたため武士や庶民から好評を博した禅宗・律宗などに対しても、強い批判を示している。落書の編者は「京童の代弁者」を装いながらも、実際には必ずしも民衆の不満の代弁者であった訳ではない。
本文編集
「 |
此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨 |
」 |
成立年代編集
「二条河原の落書」の成立時期について、原書の『建武記』には「去年八月」とあるだけで、具体的な年は示されていない[1]。『建武記』書写の過程で付けられたと思われる古注は、「元年歟」(「建武元年(1334年)だろうか?」)と、自信のない解釈になっている[1]。伝統的な史料、例えば『大日本史料』6編1冊(明治34年(1901年))などは、古注の建武元年説をそのまま採用している[2]。
しかし、森茂暁は、
- 「器用ノ堪否(かんぷ)沙汰モナク モルル人ナキ決断所」と、建武元年8月に雑訴決断所が拡充されてから、「しばらく経って様々な沙汰(判決)が出た後」の混乱の様子が描かれており、同じ月に成立したとは思えない。
- 「賢者カホナル伝奏ハ 我モ我モトミユレトモ」と、建武2年3月17日に伝奏結番(けちばん、当番の日と規則)が決定された事実を踏まえたかのような風刺がある。
- 『建武記』内部での配列の順序(雑多な記録がおおよそ成立年代順に並べられている)からして、この箇所は建武3年の成立と考えられるから、建武3年から見た「去年」とは建武2年である。
といった点を指摘し、「二条河原の落書」の成立は建武2年8月のことであると論じた[1]。