書経

古代中国の歴史書
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書経』(しょきょう)は、中国古代の歴史書で、伝説の聖人であるから王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文などが記載されている[1]。『尚書』または単に『』とも呼ばれ、儒教の重要な経典である五経の一つでもある[1]

京都大学附属図書館蔵
『尚書正義』(唐の『五経正義』の一つ)の「堯典」の冒頭「曰若稽古帝堯」が見える。孔安国伝・経典釈文が附される。宋版または元版、明修本。
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内容に違いがある2種類の本文が伝わっており、それぞれを「古文尚書」・「今文尚書」と呼んで区別する[1]。現代に伝わっている「古文尚書」は由来に偽りがあることが断定されているので「偽古文尚書」とも呼ばれる[2]。もともとの「古文尚書」は失われており、現代には伝わっていない[1]

名称編集

『書経』は、先秦時代には単に「書」と呼ばれるか、その内容の時代の名を冠して「夏書」「商書」「周書」と呼ばれるのが通例である[3]。漢代に入って『尚書』の名が生じ、広く用いられるようになった。「尚」は「上」に通じる語であるが、その示す意味には古来以下の説がある[4]

  1. 後漢馬融は、上古の有虞氏の書であることから、「尚書」の名がついたとする。
  2. 後漢の鄭玄は、天上・至上の書であることから、「尚書」の名がついたとする。
  3. 王粛は、上(帝王)の言動を史官が記録した書であることから「尚書」の名がついたとする。

『書経』の名は、南宋に生じたもので、劉欽『書経衍義』や趙若燭『書経箋註精通』といった例がある。明代以後、『書経』という呼び名が普及した。現在は、『書経』と『尚書』の名が併用されている[5]

成立編集

『書経』は、現在の形として成立するまでに、非常に複雑な道筋を辿っている。古くから儒教の中で伝統的に唱えられてきた説がある一方で、「疑古」の風潮の中で近年の研究からも様々な説が生まれており、その成立の事情に関しては確固たる決着は見ていない。

原資料編集

『書経』のうち、最も古く成立したと考えられるのは、「周書」のうち西周の文王周公の訓辞を記録した「五誥」(大誥・康誥・酒誥・召誥・洛誥)の部分である[6][7]。これらは金文学考古学の研究から、記録としての確実性も比較的高いことが示されている[7]。但し、金文資料には見えない語句も多く、西周期の同時代資料とみなすことができるわけではない[6]。また、「周書」以前の篇については、周代以後に創作(または脚色)されて作られたものであり、成立自体は先秦に遡るが、史実としての信頼性には欠けるとされる[7]。この説は「加上説」と呼ばれ、顧頡剛内藤湖南らによって唱えられた[8]

飯島忠夫は、「堯典」に四つの星、「鳥」「火」「虚」「昴」の記述があることに注目し、天体の位置を計算したところあてはまるのは堯の時代ではなく紀元前4世紀頃の戦国時代初期であると推測した[9]

全体の成立編集

『書経』には穆公の記載があるため、全体が一書として成立したのは、早くても秦の穆公が在位を開始した紀元前659年以降である。

古来の通説では、儒教聖人である孔子が唐虞から秦の穆公までの記録を編纂し、100篇からなる『書経』を作ったとされる。近年の研究では、これは史実であるとは認められないが、『論語』に『書経』の引用が見えることや、孔子の教学として「詩・書・礼・楽」が重視されたことから、孔子の時には何らかの原初的な『書経』は存在していたと考えられる[7]

『書経』の引用は、先秦の成立とされる書物(『国語』『春秋左氏伝』『孟子』『墨子』『荀子』など)に広く見受けられ[10]、どのような形のものであるかは不明であるが、多くの学者によって『書経』が読まれていたことは確実である。特に、に関わる「堯典」「皋陶謨」「禹貢」の三篇は、儒教的古代観を形作る上で大きな役割を果たした[11]。今文二十九篇の全体が、現在と似た形で成書した時期については、『孟子』より後、紀元前3世紀ごろであると考えられる[6]

伝来編集

 

先秦時代までに伝えられてきた『書経』は、始皇帝焚書によって一度失われた[12][13]。その後、漢代に入り、「今文尚書」と「古文尚書」の二種が再発見され、再び『書経』が世に出ることとなる。

今文尚書編集

漢代になると儒教が復興し、経書の一つである『書経』も再び重視されるようになった。そのきっかけとなったのは、秦の博士であった伏生(伏勝)が、壁中に隠されていた29篇の『書経』を発見したことである。この『書経』は、漢代の通行字体である隷書体(今文)で書かれていたため、「今文尚書」と呼称される。伏生の一派による『書経』の解釈を示した書として『尚書大伝』があり、その一部が現在に伝わっている[14]

「今文尚書」は、において伏生から欧陽生中国語版(字は和伯)・張生に伝えられ、欧陽生から兒寛、張生から夏侯都尉に伝えられた。以後も博士の間で伝授され、宣帝の時には欧陽高中国語版夏侯勝(大夏侯)・夏侯建中国語版(小夏侯)の三家が学官として立てられた[14]

古文尚書編集

漢代、「今文尚書」以外にも『書経』が発見されることがあったが、これらはしばしば漢代の通行字体ではなく、秦代以前の文字で書かれたものであった。これを「古文尚書」と呼ぶ。「今文尚書」は学官に立てられた公的な学問であったため、その師授系統は比較的明白であるが、「古文尚書」は漢代を通して民間で研究が進んだ書であり、歴史書の記述も錯綜している。以下の例がある[15]

  1. 孔子家伝本 - 孔子の十世の孫である孔安国が「古文尚書」を今文に写定すると、「今文尚書」にない十余篇があった(『史記』儒林伝)。
  2. 中古文本 - 劉向が欧陽氏・大小夏侯氏の「今文尚書」と校訂する際に用いた、宮中の図書館が所蔵していた「古文尚書」のこと(『漢書芸文志)。
  3. 河間献王本 - 古典収集を好んだ河間献王劉徳が伝えた「古文尚書」のこと。
  4. 張覇百両篇本 - 張覇が伝えた102篇の「古文尚書」が世間に伝わっていた。成帝のとき、これを宮中の書と比べたところ偽書であると分かった(『漢書』儒林伝)。
  5. 劉歆が宣揚した孔子壁中本 - 劉歆の「移太常博士書」に、景帝のとき、魯恭王劉余が孔子の旧宅を壊して宮殿としようとしたところ、壁の中から「古文尚書」を得た。これは「今文尚書」には存在しない16篇を含んでおり、後に孔安国がこれを伝えたが、巫蠱の獄のため普及しなかった、とある(『漢書』楚元王伝)。

それぞれの本の関係は定かではないが、一般には孔子家伝本・中古文本・孔子壁中本が同一であるとされ、一般に前漢の「古文尚書」というと孔安国・劉向・劉歆に関わるこの本のことを指す。

前漢の宣帝のとき、劉歆が「古文尚書」を学官に立てるよう要求したが、退けられた。この要求は、王莽の時に実現したが、その後、後漢の光武帝のときに再度廃された[16]

後漢の『尚書』受容編集

後漢においては、「今文尚書」の三家は変わらず学官に立てられ、博士の間で授受された。そのため、代々欧陽氏の学を受けた桓栄桓郁鮑永鮑昱中国語版のほか、数多くの学者が「今文尚書」を学んだ[17]

一方、「古文尚書」も徐々に普及し、学者の間で用いられるようになった。前漢と同様、その授受関係ははっきりしておらず、以下の二つの系統がある[18]

  1. 徐惲・劉歆門徒の壁中古文本 - 徐惲桑欽賈徽に「古文尚書」を伝え、賈徽が賈逵に伝えると、賈逵は章帝の勅令で『欧陽大小夏侯尚書古文同異』(欧陽氏・大小夏侯氏の「今文尚書」と「古文尚書」の異同を記録した書)を作った(『後漢書』賈逵伝)。また、鄭興鄭衆も古文を治めたが、この学は劉歆に淵源する(『後漢書』鄭興伝)。以下、彼らの学は馬融鄭玄らに受け継がれた。
  2. 杜林漆書古文本 - 杜林は西州にて漆で書かれた「古文尚書」を得た。この本は古文で書かれてはいたが、篇は「今文尚書」と同じ部分しか残っていなかった。杜林本には、衛宏が『古文尚書訓旨』を、徐巡が『古文尚書音』を、賈逵が『古文尚書訓』を、馬融が『古文尚書伝』を、盧植が『尚書章句』を、鄭玄が『古文尚書注』を作った(『後漢書』杜林伝)。

杜林漆書古文本は「今文尚書」と同じ篇しかなく、実際に馬融・鄭玄が作った注釈は「今文尚書」と同じ篇に対してのみ附されている。ここから、杜林本は実際には孔安国に由来する「古文尚書」そのものではなく、伏生以来の「今文尚書」を古文の字体によって書き直したものではないか、という説もある[19]

後漢になり、経学がますます盛んになると、今文を主として研究する博士を中心とする学者と、古文を主として研究する民間を中心とする学者に分かれた。それぞれを今文学・古文学と呼ぶ。今文・古文は、もとは字体の差異によるものであるが、学説にも大きな差異が生じるようになった。今文・古文の対立は『詩経』『春秋』などにも存在するが、「今文尚書」と「古文尚書」の対立はその象徴的なものである。こうした学説の分岐を受けて、章帝建初4年(79年)には、白虎観会議が開催され、白虎通義が編纂されて経義の統一が図られた。また、許慎といった学者は、古文学の立場から『五経異議』を著し、今文説・古文説の学説の相違を整理した[20]

結局、後漢の末期には馬融・鄭玄らの学問が盛んになり、徐々に古文学が発展した。ただし、孔安国由来の逸書16篇を含んだ「古文尚書」は、いつの間にか伝来を絶ち、西晋永嘉の乱の頃に失われてしまった。

偽古文尚書編集

古文尚書は失われてしまったが、東晋時代の元帝(在位317年 - 323年)の時に豫章内史の梅賾(ばいさく)という人物が、「古文尚書」を発見したとして朝廷に献上した[21]。後に偽作であることが判明しているので、現在ではこの『書経』は「偽古文尚書」(ぎこぶんしょうしょ)と呼ばれる[2]

この本は「今文尚書」のうち「舜典」を除く28篇(篇を分けると33篇)と、新出の偽作部分である25篇からなるものであり、合計すると劉歆桓譚のいう「古文尚書58篇」の篇数と合致する。また、注釈として孔安国が付され、孔安国の大序と百篇書序が各篇頭につけられているが、これも梅賾による偽作であり、現在では「偽孔伝」と呼ばれる。なお、梅賾本のうち「今文尚書」と重なる28篇(「舜典」を除く)に関しては、漢代から引き継がれた系統のテキストであり、新たに偽作されたものではない。

梅賾本には「舜典」が存在しなかったため、王粛注の「堯典」を二つに分け、後半の「慎徽五典」以下の部分が「舜典」として用いられた。「舜典」には孔伝が存在しないため、王粛注・范寧注が代わりに用いられた。その後、南朝の斉の姚方興がその闕を補う「孔安国伝古文舜典」を献上したが、この本には「慎徽五典」の手前に二十八字が加えられていた[22]

この梅賾本は、東晋で学官に立てられ、その後も南朝において継続して受容された[23]。北朝では鄭玄注の『尚書』が用いられていたが、梅賾本に注釈をつけた梁の費甝(ひかん)の義疏が劉炫によって受容されると、北朝においても広まった。このとき、劉炫は梅賾本と姚方興本を合わせた本を用い、このテキストが徐々に広がるようになった。唐の『尚書正義』(『五経正義』の一つ)がこの梅賾本と姚方興本を合わせた本を用いたことで、以後はこのテキストの『尚書』が一般的なものとなる[24]。現在に伝わる『尚書』はこの系統のものである。

玄宗天宝3載(744年)、衛包が古文尚書の改訂を行い、字体は古文から開元文字に改められた。現代に伝わっている尚書は、このときの改訂を経たものである[2]

偽古文尚書への疑い編集

『書経』に対する文献学的な研究は、特に宋代以後に活発になる。例えば、程頤が金滕篇を、蘇軾が胤征篇・顧命篇を疑った例がある。梅賾によって献上された本が偽作ではないかという説は、南宋呉棫書稗伝』によって初めて提唱された。これを承けて、朱熹も書序・孔伝への疑問を示している[25]

その後、梅賾本が偽作であることについては、元代呉澄明代梅鷟中国語版が論証を行った。そして、閻若璩が20年の考証の結果を『尚書古文疏証』全八巻にまとめ、25篇は偽古文であると証明した [2]

なお、偽古文尚書は偽作であるとはいえ、まったく価値のないものとはいえない。その資料は古文に散見するものを収録してあるから、古代資料としての真を伝えるものとして価値がある[2]。また、その内容についても、小林一郎は経典として一向に差支えがないとしている。その理由として、たとえば仏教経典はお釈迦様が自分で書いたものでもなければ、教えを聞いた者がその場で筆記したものでもなく、ただ多くの人々が語り伝えたものを、仏陀の死後数百年後に集めて書いたのであるが、その内容が尊いものであるから価値があるのであり、偽古文尚書についてもこれと同じであるとしている[26]

内容編集

構成編集

現行の『書経』は58篇からなる。この各篇は、①書かれた内容の時代によるもの、②書かれた体裁によるもの、③文献学的見地によるもの、の三つの方法による分類が可能である。

  1. 『書経』58篇は時代順に並べられており、時代によって「虞書」「夏書」「商書」「周書」の四つに区別される。
  2. 各篇は、その体裁によって「誥」(君主が臣下に下す訓辞)・「謨」(臣下が君主に述べる訓辞)・「誓」(君主の民衆への宣誓)・「命」(君主による命令の言葉)といった種類に分けられる[27]
  3. 『書経』に対する文献学的研究が進むにつれて、現行の『書経』のうちの38篇は、魏晋の頃に「古文尚書」が奏上された際に付加された偽作であることが明らかになった。これを「偽古文尚書」と呼び、漢代以来の各篇を引き継いでいた「今文尚書」と区別する。

篇目編集

- 偽古文尚書 今文尚書
虞書 1 堯典 1 堯典
2 舜典
3 大禹謨 - -
4 皋陶謨 2 皋陶謨
5 益稷
夏書 6 禹貢 3 禹貢
7 甘誓 4 甘誓
8 五子之歌 - -
9 胤征 - -
商書 10 湯誓 5 湯誓
11 仲虺之誥 - -
12 湯誥 - -
13 伊訓 - -
14 太甲上 - -
15 太甲中 - -
16 太甲下 - -
17 咸有一徳 - -
18 盤庚上 6 盤庚
19 盤庚中
20 盤庚下
21 説命上 - -
22 説命中 - -
23 説命下 - -
24 高宗肜日 7 高宗肜日
25 西伯戡黎 8 西伯戡黎
26 微子 9 微子
周書 27 泰誓上 - -
28 泰誓中 - -
29 泰誓下 - -
30 牧誓 10 牧誓
31 武成 - -
32 洪範 11 洪範
33 旅獒 - -
34 金縢 12 金縢
35 大誥 13 大誥
36 微子之命 - -
37 康誥 14 康誥
38 酒誥 15 酒誥
39 梓材 16 梓材
40 召誥 17 召誥
41 洛誥 18 雒誥
42 多士 19 多士
43 無逸 20 毋逸
44 君奭 21 君奭
45 蔡仲之命 - -
46 多方 22 多方
47 立政 23 立政
48 周官 - -
49 君陳 - -
50 顧命 24 顧命
51 康王之誥
52 畢命 - -
53 君牙 - -
54 冏命 - -
55 呂刑 26 呂刑
56 文侯之命 27 文侯之命
57 費誓 25 鮮誓
58 秦誓 28 秦誓

「今文尚書」には後に「太誓(泰誓)」が加えられ29篇となった。この「太誓」は漢代に作られた偽書とされる。「偽古文尚書」にある「泰誓」3篇はまたこれとは別の偽書である。

「古文尚書」の逸書16篇の篇名は1.「舜典」、2.「汨作」、3.「九共」、4.「大禹謨」、5.「益稷」、6.「五子之歌」、7.「胤征」、8.「湯誥」、9.「咸有一徳」、10.「典宝」、11.「伊訓」、12.「肆命」、13.「原命」、14.「武成」、15.「旅獒」、16.「冏命」であった。

「偽古文尚書」の構成は複雑であるが、その最たるものが「舜典」であり、もともと梅賾本には「舜典」がなく、王粛注本の「堯典」の後半部「慎徽五典…」以下が当てられ、注も王粛注が付けられたという。その後、南朝斉の姚方興が孔安国伝古文「舜典」なるものを献上したが、「慎徽五典」以前に「曰若稽古…」の十二字が多くあったという。現在のものはその後にさらに「濬哲文明…」の十六字が加えられている。他には「皋陶謨」(こうようぼ)の後半部から「益稷」が作られ、「盤庚」は三篇に分けられ、「顧命」後半部から「康王之誥」が作られた。

文章の特徴編集

『書経』のうち「周書」は特に文章が難解であることで知られており、韓愈末の王国維といった大学者でさえ、その難解さを嘆いている。このことは、逆に「周書」が『書経』の中で比較的古い姿を留めていることを示す[28]

注釈編集

『書経』に付けられた注釈としては、以下の例がある。

  • 『尚書』孔安国伝
    先述したように、偽作されたもの。
  • 『尚書』鄭玄注
    亡佚。他書に引用からされた文章から復元されたものがある。
  • 『尚書正義』
    孔安国伝に基づき、唐の孔穎達らによって疏が作られた。唐の『五経正義』の一つ。13巻58篇。後に『十三経注疏』に入れられた。
  • 『書集伝』
    南宋蔡沈中国語版撰。6巻58篇。蔡沈は朱熹の弟子であり、序には「堯典」「舜典」「皋陶謨」「大禹謨」に朱熹の校閲を受けたとある。科挙試験の教科書として取りあげられ、広く読まれた。「蔡伝」とも呼ばれる。
  • 『尚書後案』
    王鳴盛撰。
  • 『尚書今古文注疏』
    清の孫星衍撰。もっぱら今文29篇について注釈し、偽孔伝を退け、漢代今文学古文学の注釈を集め清朝考証学の成果を集めて疏をつけたもの。22年もの時間を費やし完成させた。
  • 『古文尚書撰異』
    清の段玉裁撰。

近年の再発見編集

2008年7月、清華大学は2000枚あまりの戦国時代竹簡を得た。これは実業家の趙偉国が海外から購入して清華大学に寄贈したもので、「清華簡」と呼ばれる。専門家の鑑定によれば、この竹簡は戦国時代中期から晩期(今から2300-2400年前)ののものである。清華簡には『尚書』の多くの篇が含まれており、焚書坑儒以前の写本である。その中のあるものは現行の『尚書』にも存在する篇だが(「金縢」「康誥」「顧命」など)、その文言には多くの差異があり、篇題が異なっているものもある。さらに多いのは今まで知られなかった佚篇で、たとえば『尚書』の名篇「傅説之命」は先秦の文献が引用している「説命」と一致し、現行の偽古文「説命」とはまったく異なる。

2009年4月現在、清華簡はその13が初歩的な解読を終えている。2009年までに内容が発表されたものは2種類で、「保訓」と周の武王の時代の楽詩である。「保訓」にはもと題がついておらず、専門家によって本文内容をもとに題がつけられた。内容は周の文王が臨終の際にその子の発(武王)に述べた遺言である。楽詩は周の武王が文王の宗廟で「飲至」の典礼を行うに際し、酒を飲むときにうたう歌で、『楽経』の原文の疑いがある。

今までに整理された清華簡のうち、古代の『尚書』の佚篇の疑いのあるものには「尹至」「尹誥」「説命」「程寤」「保訓」「金縢」「皇門」「祭公」「厚父」「封許之命」がある。うち「厚父」の中の一段である「天降下民、作之君、作之師、惟曰其助上帝寵之」は『孟子』に『書』からの引用として引かれている。しかし、『偽古文尚書』ではこの文を「周書・泰誓」に含めてしまっている[29]

日本との関係編集

 
京都大学附属図書館蔵
清原宣賢の自筆による『尚書』、永正11年(1514年)書写。

書経が我が国に伝来した年代は明らかではないが、継体天皇の時代に五経博士の段楊爾高安茂が相次いで来朝したという記録があるため、この際伝来したものといわれる[2]

日本の元号編集

昭和」や「平成」といった日本の元号は、『書経』の中の言葉に典拠がある。「昭和」は『書経』堯典「百姓明、協万邦」に由来し、「平成」は『書経』大禹謨「地平天成」に由来する。但し、『書経』大禹謨は偽作の篇であり、「地平天成」の語はもともと『春秋左氏伝』に基づく言葉である[30]

日本の国宝編集

  • 古文尚書巻第六 - 1巻/紙本墨書/縦26.0cm 全長328.0cm/紙背『元秘抄』/7世紀(唐時代)/東京国立博物館
  • 古文尚書巻第三、第五、第十二 - 1巻/紙本墨書/縦26.7cm 全長1138cm/紙背『元秘抄』/7世紀(唐時代)/東洋文庫

これらは同系の写本であり、広橋家が所蔵していた広橋本の一つである。太宗李世民(在位626年 - 649年)の諱を避けていないため、それ以前の伝本をもとに写本したと考えられる。

所々隷書体が使われており、いわゆる「隷古定尚書」と考えられている。「隷古定」とは「偽古文尚書」が生んだ字体で古文を隷書で写し取ったとされるものである。独特で奇怪な字体なので一般に「隷古奇字」ともいわれる。唐の玄宗天宝初年に『尚書』の字体をすべて楷書に改めさせたのでそれ以後は使われていない。

他の唐鈔本や敦煌本に比べて隷書が使われている文字が多く、現存する最古の鈔本とされている。なお紙背には高辻長成の『元秘抄』が室町時代に書写されている。

南宋刊本のいわゆる越州八行本。淳熙1174年 - 1189年)前後の両浙東路茶塩司刻本。

全訳版編集

参考文献編集

日本語文献編集

  • 飯島忠夫 『古代世界文化と儒教』 中文館書店、1946年。 
  • 池田末利 「書経」、日原利国編 『中国思想辞典』 研文出版、1984年。 
  • 宮内庁書陵部 『図書寮典籍解題 第5 (漢籍篇)』 大蔵省印刷局、1960年。 
  • 小林一郎 『経書大講 第4巻 書經上』 平凡社、1938年。 
  • 土屋裕史 「当館所蔵漢籍の「宋版」及び「元版」の解題①」 『北の丸』 43巻 国立公文書館、2011年。 
  • 野間文史 『五経入門 : 中国古典の世界』 研文出版〈研文選書〉、2014年。ISBN 9784876363742 
  • 林栄吉 「書経講義」 『易経書経講義』 興文社、1913年。 
  • 平岡武夫 『経書の成立』 全国書房、1946年。 創文社、1983年。
  • 吉本道雅 『史記を探る』 東方書店〈東方選書〉、1996年。ISBN 4-497-96483-3 

中国語文献・洋書編集

  • 劉起釪 『尚書学史』 中華書局、1989年。 
  • Martin Kern (editor) and Dirk Meyer (editor) (2017), Origins of Chinese Political Philosophy: Studies in the Composition and Thought of the Shangshu, Brill 

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d 土屋裕史 1989, p. 58.
  2. ^ a b c d e f 宮内庁書陵部 1960, p. 6.
  3. ^ 平岡 1946, p. 68.
  4. ^ 平岡 1946, p. 66-68.
  5. ^ 平岡 1946, p. 63-64.
  6. ^ a b c 吉本 1996, p. 27.
  7. ^ a b c d 池田 1984, p. 218.
  8. ^ 野間 2014, p. 80.
  9. ^ 飯島 1946, p. 82.
  10. ^ 劉 1989, p. 11-25.
  11. ^ 劉 1989, p. 65-66.
  12. ^ 小林一郎 1938, p. 5.
  13. ^ 宮内庁書陵部 1960, p. 5.
  14. ^ a b 劉 1989, p. 67-74.
  15. ^ 劉 1989, p. 105-114.
  16. ^ 劉 1989, p. 114-115.
  17. ^ 劉 1989, p. 121-122.
  18. ^ 劉 1989, p. 124-130.
  19. ^ 劉 1989, p. 129-130.
  20. ^ 劉 1989, p. 133-140.
  21. ^ 土屋裕史 1989, p. 59.
  22. ^ 劉 1989, p. 179-186.
  23. ^ , p. 186-188.
  24. ^ 劉 1989, p. 201-215.
  25. ^ 劉 1989, p. 279-285.
  26. ^ 小林一郎 1938, p. 8.
  27. ^ 平岡 1946, p. 152.
  28. ^ 野間 2014, p. 81.
  29. ^ 李学勤 (2014-09-05), 清華簡再現《尚書》佚篇, 中国教育報, http://paper.jyb.cn/zgjyb/html/2014-09/05/content_422682.htm 
  30. ^ 野間 2014, pp. 103-106.

関連項目編集

外部リンク編集