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仙台城の模式図。「H」が大手門、「O」が三の丸で、その間に挟まれている東西に長い堀が五色沼。なお、「1」が本丸、「2」が二の丸、図中の右側を上から下に流れる川が広瀬川
三の丸の子の門跡から見た五色沼(2003年11月)
大手門跡側から見た五色沼(2005年1月)

五色沼(ごしきぬま)は、宮城県仙台市青葉区青葉山公園内にある仙台市都心部に隣接した西側に位置する。

仙台城(青葉城)をめぐるの一部で、仙台城三の丸地図)の北面から大手門隅櫓地図)の前にかけて広がる。

日本のフィギュアスケート発祥の地とされる。

概要編集

広瀬川河岸段丘である青葉山(青葉山丘陵)に本丸を置く平山城仙台城は、より低い段丘上に二の丸(現・東北大学川内キャンパス)と三の丸(現・仙台市博物館)がある。この三の丸を造営する際、広瀬川の後背湿地に堀を割り、掘った土で土塁を築いて三の丸を囲んだ。後に、三の丸の北面の堀は「五色沼」(地図)、東面のそれは「長沼」(地図)と呼ばれるようになった。

大手門を挟んで北側にある二の丸をめぐる堀もあったが、そちらは陸軍の駐屯地になったときなくなった。三の丸の二つの堀だけが現在も残る。

現在の五色沼は、池の南に三の丸の土塁が接している。木々が生え、秋になると紅葉する。

スケート編集

仙台城の廃城によって旧城内に庶民が出入りできるようになり、五色沼は明治以降、仙台市のスケートの中心地として賑わうことになった。また、五色沼は「日本フィギュアスケート発祥の地」とされる[1][2][3]。五色沼のほとりに「日本フィギュアスケート発祥の地」の碑があり、男女ペアスケーターのブロンズ像(作品名:無限への軌跡、作者:翁ひろみ[4])がある[5]

歴史編集

画像外部リンク
  仙台スケート会 / 1912年(明治45年) 第二高等学校

江戸時代小氷期にあたるため、冬期に五色沼(仙台城外堀)は厚く凍結していた(参照)。仙台城が明治維新で廃城になり、伊達氏から陸軍省に管轄に替わると、城跡に庶民が出入りできるようになった模様である。

一方で明治以降、欧米から日本各地にスケートが伝わった。冬季に結氷していた五色沼では1890年(明治23年)頃、仙台在住の外国人がスケートを始めた[6]。また、1897年(明治30年)頃[6]米国人デブィソンが子供達にフィギュアスケートを教えたとあり、これを以って五色沼が「日本フィギュアスケート発祥の地」とされる。

1909年(明治42年)頃に(旧制)第二高等学校の生徒がドイツ語教師ウィルヘルに習ったとある。ウィルヘルにフィギュアスケートを習った二高生の田代三郎・佐藤幸三・河久保子朗らは、彼らの後輩を含めて各地で普及に努め、日本スケート界の功労者といわれた[7][8]

五色沼ではフィギュアスケートに限らず、様々なアイススケートを市民が楽しむようになるが、1926年大正15年)11月25日仙台市電が開通して最寄り電停が設置されると、後の同市電の路線拡大もあって市民が容易に訪れることが出来る冬季の娯楽の場ともなった(同電停近くには、シーズン中に五色沼の利用状況が掲示されていた)。

五色沼で開催された各競技の試合は、1956年(昭和31年)のアイスホッケーが最後とされる[6]昭和30年代には仙台もヒートアイランド現象等の影響が顕著になり、厳冬期に氷は張るものの、人が安全に氷上にのることは不可能となって五色沼のアイススケート場としての歴史は終焉を迎えた。

年表編集

大会実績編集

脚注編集

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  1. ^ 仙台市シティセールス情報館 Archived 2008年11月1日, at the Wayback Machine.(仙台市)
  2. ^ フィギュア三都物語@仙台(上) 指導者が泣いた日 / 「最高のプレゼント」(中日新聞 2013年8月27日)
  3. ^ 黄金世代が出陣 三都の絆、ソチに結集産経新聞 2014年2月14日)
  4. ^ 無限への軌跡 ●仙台造形マップ(全市)
  5. ^ 憂楽帳:フィギュア発祥の地(毎日新聞 2014年01月08日12時53分(最終更新 01月08日12時53分))
  6. ^ a b c d e 五色沼から歴史 荒川、羽生2人の金メダリスト輩出日刊スポーツ「フィギュアに恋して」)
  7. ^ 宮城県中学生の体育資料 2012 p.4 (PDF) (開隆堂)
  8. ^ 65. 日本フィギュア・スケート発祥の地 『要説 宮城の郷土史』 p.146 (PDF)仙台市民図書館せんだいメディアテーク

関連項目編集

外部リンク編集