京口 元吉(きょうぐち もときち、1897年明治30年)2月28日 - 1967年昭和42年)9月3日)は、日本の日本史学者。

人物・来歴

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兵庫県姫路市出身。朝鮮で小学校教師ののち早稲田高等学院卒。1926年早稲田大学文学部史学科卒。学生時代は尾崎一雄らと同人誌をやっていた[1]。1929年早大附属高等学院講師、1933年教授、1940年早稲田大学文学部助教授。この間明治文化研究会で活動。

警視庁から「反軍国的なマルキスト」「自由主義的」であると問題視され、1941年3月11日付で大学を引責辞職する[2][3]1946年2月1日付で文学部講師として復職する[3]。同年5月から助教授となる[3]。1947年教授、1967年定年退職。日本近世史を中心に西洋史なども幅広く研究、著述をおこなった[4]

1967年9月3日、糖尿病のため死去、享年70歳[5][6][7]

著書

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単著

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訳著

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共著

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校訂

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論文

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  • 「二宮尊徳の報徳仕法――世界最古の農村協同組合運動」『協同主義』第19号、協同主義協会、1948年11月、30-38頁、NAID 40000739013 
  • 「徳川幕藩体制の一考察」『史観』第36号、早稲田大学史学会、1951年11月、35-52頁、NAID 40001518462 
  • 「近代日本における政治と文学の交流――大正文学の背景(素描)」『人文科学研究』第11号、早稲田大学人文科学研究所、1952年5月、45-72頁、NAID 40001947104 
  • 「織田信長の安土城」『史観』第38号、早稲田大学史学会、1952年10月、42-58頁、NAID 40001518476 
  • 「歴史教育と神話伝説」『日本及日本人』第5巻第4号、日本及日本人社、1954年4月、11-21頁、NAID 40002831795 
  • 「撰銭と撰銭令」『日本歴史』第73号、吉川弘文館、1954年6月、2-11頁、NAID 40003069280 
  • 「神話と歴史教育について」『日本及日本人』第5巻第8号、日本及日本人社、1954年8月、84-91頁、NAID 40002832087 
  • 「タウンセンド・ハリス」『史観』第43・44号、早稲田大学史学会、1955年3月、NAID 40001517897 
  • 「朝河貫一博士と入来文書」『史観』第46号、早稲田大学史学会、1956年3月、1-25頁、NAID 40001517913 
  • 「日本書紀にみえる祥瑞思想」『史観』第54・55号、早稲田大学史学会、1959年3月、152-168頁。 
  • 「頌寿・献呈の辞」『史観』第57・58号、早稲田大学史学会、1960年3月。 
  • 「岩瀬肥後守忠震とその手記」『史観』第62号、早稲田大学史学会、1961年7月、1-46頁、NAID 40001517973 
  • 「後宮における男女の交渉」『國文學』第8巻第6号、学燈社、1963年5月、54-62頁、NAID 40001345258 
  • 「佐伯好郎博士を悼む」『史観』第72号、早稲田大学史学会、1965年9月、98頁。 

脚注

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  1. ^ 尾崎一雄『あの日この日』
  2. ^ 百年史第3巻 1987, p. 1060.
  3. ^ a b c 百年史第4巻 1992, p. 518.
  4. ^ 20世紀日本人名事典
  5. ^ 「京口 元吉氏(元早稲田大学文学部教授)」『読売新聞』1967年9月4日、11面。
  6. ^ 「京口 元吉氏(前早大教授、近世史学者)」『毎日新聞』1967年9月4日、11面。
  7. ^ 「京口 元吉氏(前早大教授)」『朝日新聞』1967年9月4日、15面。

参考文献

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外部リンク

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