京極高詮
京極 高詮(きょうごく たかのり)は、室町時代前期の武将、守護大名。
時代 | 室町時代前期 |
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生誕 | 文和元年/正平7年(1352年) |
死没 | 応永8年9月7日(1401年10月14日)[1] |
改名 | 高経(初名)→高詮→浄高(法名) |
別名 | 四郎[2] |
戒名 | 乾嶺浄高能仁院[2]/能仁寺殿乾嶺高公禅門[3]/乾嶺高公居士[4] |
墓所 | 滋賀県米原市の徳源院 |
官位 | 従五位上[2]、兵衛尉[2]、治部少輔 |
幕府 | 室町幕府侍所頭人、近江・飛騨・出雲・隠岐・山城・石見守護 |
主君 | 足利義満 |
氏族 | 京極氏 |
父母 | 父:京極高秀、養父:六角氏頼 |
兄弟 |
高詮、吾全秀満[2]、尼子高久[2]、 宍道秀益[2]、宇賀野高雅[2]、多田満秀[2] |
子 | 高光、高数 |
生涯
編集文和元年(1352年、南朝:正平7年)、京極高秀の子として誕生。貞治4年(1365年、南朝:正平20年)、佐々木氏宗家六角氏頼の嫡男・義信が17歳で死去した。京極氏は佐々木氏傍流であったが祖父・佐々木道誉の時代に隆盛を極めており、道誉の孫でもある京極家嫡男・高経(高詮)は養嗣子として六角氏に赴き、京極氏の後継者は次弟の吾全秀満とされた。しかし氏頼は応安2年(1369年、南朝:正平24年)に新たに亀寿丸(後の六角満高)をもうけ、翌年には死去してしまう。このため跡目争いが生じ、高経は管領・細川頼之が主導する幕府から亀寿丸が成人するまでの後見役を命じられ、六角氏が代々務めていた近江守護へと任じられる。しかし、わずか7年後の永和3年(1377年、南朝:天授3年)に近江守護職を解かれ、高経は京極氏へと戻る。この出来事は父が後の康暦の政変で反頼之陣営に加わる原因となった[注釈 1]。
康暦の政変においては、父・高秀は斯波義将らと共に将軍義満に強訴し、政敵・細川頼之を罷免させることには成功したものの、京極氏の領国はすべて没収されてしまい、それから2年後にようやく飛騨のみ返還された。政変前後の高詮の動向は不明であるが、父や弟と行動を共にしていたものと思われる。
明徳2年(1391年)、父が亡くなり家督と飛騨の守護職を継いだ。またこの年には、全国66ヶ国中11ヶ国の守護を務めていた山名氏が幕府に背く明徳の乱が起こり、高詮は幕府方に従軍して京都の内野合戦で功を上げ、翌年には出雲・隠岐守護へと任ぜられる。
出雲へは弟・尼子高久の子・持久を守護代として派遣し、その子孫は戦国大名の尼子氏となる。また出雲大社において、当時、途切れていた祭事の三月会を復興している。応永元年(1394年)から応永5年(1398年)には侍所頭人も務めており、明徳の乱に敗れ京都の五条坊門高倉に潜伏していた山名満幸を捕らえて処刑した。また、応永元年(1394年)12月から死去するまで、摂津国川辺郡(河辺郡)北半の守護権を有した[5][9]。
京極氏は高詮の代である応永5年に侍所頭人を務める四職の一つと定められている。この後には出家し浄高(じょうこう)と名乗っており、主君である義満の出家に従ったとも考えられる。
高詮は出家後も京極氏の実権を握っていた。応永6年(1399年)末に勃発した応永の乱では、幕府方として、細川満元、赤松義則らと共に先鋒を務めた[10][11]。乱の最中の11月15日には、義満により、大内義弘の石見守護職を与えられた(『佐々木文書』)[10]。これにより、父・高秀時代の京極氏の勢力をほぼ回復した。なお、応永の乱においては高詮の家督相続に不満を持っていたとされる弟の秀満が反幕府方に呼応し挙兵しているが、程なく鎮圧されて没落している。
偏諱を受けた人物
編集高詮時代
編集(※「詮」の字は元々、室町幕府第2代将軍足利義詮から賜ったものと推測される。年代的に同時期であること、「高経」からわざわざ改名していることからその可能性は高いが、確証はなく、諱の2文字目においている理由や「のり」と読まれている理由(こちらは同様の人物はいる)など不明な点も多い。)
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 『大日本史料』第7編之5 105頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』
- ^ 『龍涎集』
- ^ 『常光国師語録』
- ^ a b 大阪府史編集専門委員会 1981, p. 889.
- ^ 下坂守「近江守護六角氏の研究」『古文書研究』12号、1978年。/所収:新谷和之 編『近江六角氏』戒光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻〉、2015年。ISBN 978-4-86403-144-8。
- ^ 山田徹「南北朝期における室町幕府政治史の再検討(上)」『文化学年報』66号、2017年。
- ^ 新谷和之「南北朝・室町期における六角氏の家督と文書発給」川岡勉 編『中世後期の守護と文書システム』思文閣出版、2022年、P60.
- ^ 大阪府史編集専門委員会 1981, pp. 20–22.
- ^ a b 大阪府史編集専門委員会 1981, p. 7.
- ^ 『大日本史料』第7編之4 201頁。
- ^ 『大日本史料』第7編之5 102頁。