住吉一家
住吉一家(すみよしいっか)は、東京に本拠を置く日本の博徒系暴力団で、指定暴力団・住吉会の二次団体。
設立 | 明治時代 |
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設立者 | 伊東 松五郎 |
本部 | 東京都 |
首領 | 福田晴瞭 |
上部団体 | 住吉会 |
歴史
編集1846年2月22日(弘化3年1月28日)に伊東与兵衛の長男として生まれた[1]住吉町の爺さんこと伊東松五郎を初代とする[2]。1892年(明治25年)に起きた事件[3]で交際を始めた伊藤痴遊によると、「住吉町の爺さん、即ち伊東松五郎」は「背は低かったが、でっぷりと肥って、色の白い、どことなく、品格のある爺さん」であったとしている[4]。
住吉一家二代目を中里一家の出身で「今大前田」と呼ばれた倉持直吉(本名:荏田村秀)が継承。倉持は若いときに人を殺し、当時の時効が十年のところ、9年9ヶ月程、捕まらなかった。これは周りの信用があったからだと裁判長が発言し、3年の刑を宣告したとされる[5]。
住吉一家の客分で、洲崎の武部申策をオヤジと呼んだ芝浦の高木康太の代貸であった阿部重作が1948年に住吉一家三代目を継承した。阿部は松葉会の藤田卯一郎、生井一家丸文総長の篠原鶴吉、幸平一家九代目総長の本橋政夫、さらに不良の神様といわれた益戸克己[6]を舎弟とした。
1962年、上萬一家貸元であった磧上義光が住吉一家四代目を継承。
1967年、四代目中里一家総長・堀 政夫が住吉一家五代目を継承。 住吉連合代表住吉一家五代目総長・堀は1982年、「住吉連合」から『住吉連合会』に改編して住吉連合会会長に就任。 1988年に住吉連合会総裁に昇格するが、1990年10月に病死した。
1991年2月、住吉一家向後二代目・西口茂男が住吉一家六代目を継承し、「住吉連合会」を『住吉会』に改称して住吉会会長に就任。 1998年6月、西口が住吉会総裁に昇格。
2005年4月17日、住吉会会長・福田晴瞭が住吉一家七代目を継承。
2014年4月、福田晴瞭が住吉会会長職を退任して住吉一家共和六代目・関功が住吉会会長に就くと、これまで「住吉一家○○」としてきた傘下組織の名称から「住吉一家」を外して旧来の家名とすることが決定された。
歴代総長
編集下部にあった団体
編集- 青田会 - 千葉市川市
- 浅草髙橋組五代目 ・菊池紘一
- 飯倉睦・粉川彰
- 石井会・石井福造
- 伊勢野会・濱野信春
- 稲葉興業会二代目会長・小玉政光
- 奥州小島二代目・中野勉
- 奥州山形初代・中川成城
- 大前田八代目・高橋八州男
- 荻窪初代・村田吉弘
- 音羽七代目・松坂浩三
- 共和六代目・関功
- 京王会会長・児島秀樹
- 向後睦会会長・加藤孝次郎
- 小林会三代目会長・小林忠紘
- 西海家七代目・守屋長清
- 三角八代目・針谷和明
- 三心会五代目会長・高橋房一
- 四軒会会長・四軒寺九代目・佐伯茂雄
- 島田睦会長・島田國央
- 十条領家初代・太田健眞
- 十二社二代目・上崎将貴
- 親和会会長・小松澤英雄
- 青心会初代 ・杉野良一
- 西和会二代目会長・髙橋勝郎
- 関睦会初代会長・関實
- 大日本興行三代目会長・伊藤嘉彦
- 滝野川八代目・栗原忠男
- 田中同人会三代目会長・野上義雄
- 千葉東二代目・栗田敦夫
- 鶴川五代目・関口弘
- 中里六代目・永井實
- 中原会三代目・永田清光
- 西村会二代目会長・南郷國光
- 沼澤会会長・沼澤春男
- 野口会会長・野口松男
- 花田会二代目会長・山城功
- 日野七代目・高沢哲夫
- 平塚七代目・西谷茂
- 平塚川越六代目・時田康雄
- 広川会三代目・清水政男
- 廣瀬七代目・杉沼 登
- 深川江島五代目・小倉正治
- 福中総業会長・福中久雄
- 武州前川十代目・ 山口 徹
- 鼈甲家六代目会長・小林雄二郎
- 牧友睦四代目会長・関秀夫
- 馬橋七代目・柴崎靖忠
- 丸唐会五代目会長・井田勝基
- 武蔵屋十代目・松広昭平
- 村田会二代目会長・末次久泰
- 家根弥九代目・大野吉英
- 山ヶ井戸十代目・井野輝美
- 勇心会会長・後藤他津男
- 領家七代目・高瀬輝明