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佐々木久子

佐々木 久子(ささき ひさこ、1927年2月10日 - 2008年6月28日)は、日本編集者評論家随筆家である。雑誌『』(1955年 - 1997年)の編集長で、かつて「カープを優勝させる会」を旗揚げし奔走した事でも有名。広島県広島市出身。

目次

来歴・人物編集

3歳から酒をたしなむ[1]。広島女子商業学校(現広島翔洋高等学校)を経て広島大学に進学。1945年には広島市への原子爆弾投下により爆心地から1.9km離れた自宅で被爆。自身は母親と共に救出されたが、5年後には父親を原爆症により亡くした。第二次世界大戦後は広島で青年運動・平和運動・新劇などの活動もしていた[2]

大学卒業後、単身で上京。1955年4月、雑誌『酒』を創刊。以来1997年までの42年間にわたり、編集長を務めた。また1960年代半ばには新潟県地酒越乃寒梅」にいち早く着目し、その後興った“地酒ブーム”の火付け役にもなっている。1985年、厚生省(現厚生労働省)の諮問機関「おいしい水研究会」委員に就任した。

1990年代後半から仕事のペースを落とし、1997年には創刊以来編集長を務めた『酒』を501号をもって休刊したが、21世紀になってからも地元の中国放送(RCC)などで社会評論を続け、2003年には自身最後となる著書を出版した。その後、2005年に脳梗塞のため療養生活に入り、2008年、多臓器不全のため81歳で死去[1]。結婚はせず、生涯独身だった[2]

人物・交友関係編集

1956年早々、創刊から1年で赤字のため廃刊に追い込まれかけた『酒』を小説家火野葦平が救った。火野は、命ある限り無償で執筆する旨の証文を書き、同誌に原稿とトビラを約束どおり1960年のその死まで書き続けた。また多くの文人を紹介した[3]

またおなじころ、前年1955年2月に小説家であり夫の坂口安吾を亡くし、1956年早々に東京・銀座で文壇バー「クラクラ」を開いたばかりの坂口三千代に、『クラクラ日記』の執筆を勧めたのも佐々木であった。『クラクラ日記』は1957年から11年間同誌で連載され、1967年に文藝春秋から単行本として出版、翌1968年には若尾文子主演でテレビドラマにもなった。

1966年、佐々木とは公私ともに親交の深かった梶山季之[4]をはじめ、藤原弘達石本美由起木村功杉村春子森下洋子灰田勝彦ら、広島出身者や縁のある文化・芸能人にアンチ巨人大宅壮一、梶山の飲み友達だった田辺茂一を加えて「カープを優勝させる会」を結成。故郷・広島にあり、プロ野球セントラル・リーグの弱小球団として辛酸をなめてきた広島東洋カープを支援するため、代表世話人となって奔走した。応援の甲斐あって10年後の1975年10月にカープはセントラルリーグで初優勝し[5]、これを機に解散。しかしカープの成績は再び下降したため、佐々木は1978年に「再びカープを優勝させる会」を結成し、翌年から2年連続の日本選手権シリーズ優勝(カープ初の日本一)を見届けた。その後もカープへの応援や激励のために度々マスメディアに登場し、カープを応援する知識人として認知されていた。

週刊文春1981年6月18日号の記事に「講演者ワースト3」として竹村健一石原慎太郎とともに名前を挙げられ理由は、竹村(傲岸不遜)、石原(土壇場で断る)、そして佐々木はカープの応援に行って講演をスッポかす、と書かれている[6]

ビブリオグラフィ編集

テレビ番組編集

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  1. ^ a b 佐々木はずっと「1930年生まれ」を自称していたため、死去時には「78歳」とも報じられていた。実際はそれより3歳上だった事が死去後に判明した。 ZAKZAK2008年7月3日付 「良い酒を飲むこと…追悼佐々木久子さん美酒一貫の人生
  2. ^ a b 長崎新聞2008年8月6日付論説「佐々木久子さんの“遺言”」 [1]
  3. ^ 「Report from Kamakura」酒縁で発行された雑誌の話を参照。
  4. ^ 梶山は1930年生まれで、戦後の引き揚げで広島に移住したため、佐々木とは「同郷・同年齢」の仲間だった(実際には既述の通り佐々木が3歳年上)。
  5. ^ 同年にはこの会が目標に掲げていた「読売ジャイアンツの最下位」も実現した。また、カープ初優勝の5ヵ月前、5月には梶山が急逝していた
  6. ^ 週刊文春1981年6月18日号33頁

外部リンク編集