加藤和彦

日本の音楽プロデューサー、作曲家、ギタリスト、歌手 (1947-2009)

加藤 和彦 (かとう かずひこ、1947年3月21日 - 2009年10月16日[1])は、日本音楽家作曲編曲音楽プロデュース撥弦楽器鍵盤楽器などの演奏・歌唱を通じて、制作者実演家として活動した。愛称は「トノヴァン[2]

加藤 和彦
別名 トノヴァン
生誕 (1947-03-21) 1947年3月21日
出身地 日本の旗 日本 京都府京都市伏見区
死没 (2009-10-16) 2009年10月16日(62歳没)
日本の旗 日本 長野県北佐久郡軽井沢町
学歴 龍谷大学経済学部中退
ジャンル 現代音楽
職業 音楽プロデューサー
作曲家
ギタリスト
担当楽器 撥弦楽器全般
鍵盤楽器全般
活動期間 1965年 - 2009年
レーベル EXPRESS
DOUGHNUT
Warner Bros. Records
CBS/SONY
EASTWORLD
コロムビアミュージックエンタテインメント
共同作業者 【所属ユニット】
ザ・フォーク・クルセダーズ
1965年-1968年, 2002年
サディスティック・ミカ・バンド
1971年-1975年, 1989年, 2006年
和幸(かずこう)
2007年-2009年
VITAMIN-Q featuring ANZA
2008年-2009年
【共演者】
北山修1971年
吉田拓郎1985年, 1993年
西田ひかる1996年
佐渡裕2005年
【作詞家】
秋元康
阿久悠
有馬三恵子
伊藤アキラ
岩谷時子
川村真澄
喜多條忠
北山修
サトウハチロー
千家和也
戸沢暢美
仲畑貴志
冬杜花代子
松山猛
万里村ゆき子
三浦徳子
森雪之丞
安井かずみ
【その他】
市川猿之助
藤岡和賀夫
金子國義
庄野晴彦
クリス・トーマス
ブライアン・フェリー
ニック・デカロ
マーク・ゴールデンバーグ
カルロ・サビーナ
井上道義
井筒和幸

概要編集

1960年代後半にフォークグループ『ザ・フォーク・クルセダーズ』(通称フォークル)でデビュー。その後、ソロ活動に移行し、並行して1970年代初頭から中盤にかけてロックバンド『サディスティック・ミカ・バンド』を結成するなど、斬新なアイデアに満ちた創作活動で、1960年代後半から70年代の日本のミュージックシーンをリードした。

1977年、作詞家の安井かずみと再婚。安井が病に倒れる1990年代初頭まで「作詞・安井かずみ/作曲・加藤和彦」のコンビで、通称『ヨーロッパ三部作』[3]などのソロ作品のほか、数々の作品を他ミュージシャンに提供した。また、時代の先端を行くファッショナブルな2人のライフスタイルも世間の注目を集めた[4]。さらに、1980年代から映画・舞台音楽、1990年代後半からはスーパー歌舞伎の音楽など、ポップミュージックの垣根を越えたさまざまなジャンルの音楽も幅広く手がけていた。

略歴編集

出生編集

京都市伏見区に生まれる。生後すぐに神奈川県に移り、小学校4年まで鎌倉と逗子市で過ごし[5]、その後京都に戻り1年で東京に転居、高校卒業まで日本橋で育つ[5][6]。加藤自身「実は江戸っ子なんです」と述べている[5]

ザ・フォーク・クルセダーズ結成編集

1963年に発表された、ボブ・ディランの『くよくよするなよ (Don't Think Twice, It's All Right)』に影響を受け、ギターを始める。1965年東京都立竹台高等学校を卒業後、仏師だった祖父の後を継ぐ気持ち半分で[7]京都市伏見区の実家に近い仏教系大学龍谷大学に入学。このころからアマチュア・フォークグループ、「ザ・フォーク・クルセダーズ」の活動を始める。

プロデビュー編集

1967年、ザ・フォーク・クルセダーズの解散記念として、自費でアルバム(インディーズではない)『ハレンチ(破廉恥)・ザ・フォーク・クルセダーズ』を制作。その中の『帰って来たヨッパライ』に対するリクエストがラジオ局に殺到し、プロデビューの話が持ち込まれる。加藤は難色を示したが、北山修の説得[8]を受け、龍谷大学経済学部を中退。東芝音楽工業株式会社と契約し、1年限定でプロの世界に入る。

1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングルとして予定していた『イムジン河』が発売中止となる。同年7月1日、『水虫の唄』(作詞・作曲:山田進一、補作詞:足柄金太、補作曲:河田藤作)をアルバム『紀元貮阡年』の先行シングルとして発売した。彼らは曲に合わせていろいろな名前を使い分け、このシングルは「ザ・ズートルビー」という名前で発表した。1968年10月17日、ザ・フォーク・クルセダーズが解散。

第1期ソロ活動編集

1969年にシングル『僕のおもちゃ箱』を発表し、ソロ活動を開始。同時に作曲家としての作品提供も始め、キングストン・トリオのメンバーであるジョン・ステュワートに因んだ「ジョン」というペンネームを用いて自身のファンクラブ「クラブ・ジョン」を設立し、楽譜の出版なども行う。

シンガーとしては「トノヴァン」の愛称に示されるようなドノヴァンの影響下にある歌唱法を確立していく[9]。この時期は頻繁にロンドンを訪れ、吉田克幸と知り合う。1970年7月福井ミカと結婚。1971年4月5日 、北山修との連名によるシングル『あの素晴しい愛をもう一度』を発表。

サディスティック・ミカ・バンド結成編集

1971年11月、妻のミカをボーカルに据えた「サディスティック・ミカ・バンド」を結成。ロンドンポップ、グラム・ロックレゲエ琉球音階などを導入するなど、実験精神に溢れたサウンドを展開。

1973年には、英国滞在時にザ・フォーク・クルセダーズの印税を投入して購入したPA機器、WEMを用いて、日本初のPA会社「ギンガム」を設立[5]。同年、ナショナル住宅建材株式会社のCMに使われた『家をつくるなら』をソロ名義でシングル発売。

1974年クリス・トーマスのプロデュースによる、サディスティック・ミカ・バンドのセカンドアルバム『黒船』を発表。その後、ロキシー・ミュージックのオープニング・アクトとしてイギリスツアーを行う。1975年、ミカと離婚し、サディスティック・ミカ・バンドは解散。

第2期ソロ活動編集

1976年、シングル『シンガプーラ』を発表し、ソロ活動を再開。翌年には同シングルの作詞を手がけた安井かずみと再婚し、以後、安井とのコンビで数多くの作品を発表した。1979年ワーナー・パイオニア[10]に移籍。

1983年CBS/SONYに移籍し、ソロ・アルバム『あの頃、マリー・ローランサン』を発表。同年、村上龍原作の映画『だいじょうぶマイ・フレンド』の音楽監督を務め、以後多くの映画音楽を手がける。1980年代後半からは舞台音楽も手がけ、「スーパー歌舞伎」を加藤と共同で制作した市川猿之助は「歌舞伎史上初めて洋楽オーケストラを歌舞伎に取り入れた」と語った[11]

バンド活動再開編集

1985年6月15日国立競技場で5万人の観客を集めて開催された国際青年年 (IYY) 記念イベント"ALL TOGETHER NOW"にサディスティック・ユーミン・バンド(ヴォーカルは松任谷由実)として出演。1987年東芝EMIに移籍し、ソロ・アルバム『マルタの鷹』を発表。1989年、サディスティック・ミカ・バンドを再結成。ヴォーカリストとして桐島かれんを迎え、アルバム『天晴』を発表。

1991年2月、安井かずみとの最後の共作となったソロ・アルバム『ボレロ・カリフォルニア』を発表。同年8月には画家の金子國義、CGアーティストの庄野晴彦と協同で日本初のマルチメディアソフト『Alice』を制作。1994年、安井かずみが死去。

1995年、クラシック音楽のソプラノ歌手、中丸三千繪と再々婚。1996年9月からNHK趣味百科「アコースティック・ギター入門」に講師として石川鷹彦とともに出演。教材として『あの素晴しい愛をもう一度』などを取り上げた。10月にはフジテレビ系『ポンキッキーズ』挿入歌として、西田ひかるとのデュエット曲『メロディー』を発表。2000年、中丸と離婚。

2002年、ザ・フォーク・クルセイダーズを新結成。同時に催された「新結成解散コンサート」は市川猿之助と共に歌舞伎の口上で幕を開けた。2005年PlayStation 2用ゲームソフト『天外魔境III NAMIDA』の音楽を担当。指揮に佐渡裕、演奏に新日本フィルハーモニー交響楽団、歌手にサラ・ブライトマンを起用した。

2006年、サディスティック・ミカ・バンドを再々結成。ヴォーカルに木村カエラを迎え、アルバム『NARKISSOS』を発表。2007年には坂崎幸之助とのユニット「和幸(かずこう)」を結成。第1期ソロ時代の楽曲『不思議な日』なども取り上げた。

2008年3月、加藤を中心として小原礼屋敷豪太土屋昌巳が集まり、「男4人じゃムサい」とANZAをボーカルに起用し、VITAMIN-Q featuring ANZAを結成した。バンド名はエレクトリックギターやベースのパーツとして使われるオイルコンデンサーの名前から取られている[12]。同年12月、『VITAMIN-Q』発表。

2009年10月2日東京国際フォーラムでの松任谷由実のコンサートにゲスト出演し、「黄色いロールスロイス」にギターとヴォーカルで参加。これが公の場に姿を見せた最後の機会となった。

死去編集

2009年10月17日長野県北佐久郡軽井沢町ホテル遺体となって発見された。死因は首吊りによる自殺と見られている[1][13]享年63(満62歳没)。

没後編集

2009年12月10日、北山修と坂崎幸之助の主催で「加藤和彦さんを偲ぶ会 KKミーティング」が行われる。生前の関係者が多数参加し、500名ほどが参加した。

2012年3月にNHK「ハイビジョン特集」にて安井の闘病生活を題材とした単発ドラマ「優雅な生活が最高の復讐である」が放映され、安井役を麻生祐未、加藤役を袴田吉彦が演じた[14]

人物編集

創作編集

  • 「同じことは二度とやらない」をモットーとしており、サディスティック・ミカ・バンドザ・フォーク・クルセダーズ再結成の際も、過去とは全く異なるアプローチで臨んでいた(フォーク・クルセダーズは「再結成」ではなく「新結成」であると加藤は語っていた)[15]
  • 「自分以上でも、自分以下でもない音楽」を作ることを信条とし、自身の生活におけるあらゆる体験が作品に昇華されるとした。ただし、体験が10とした場合、実際の作品に及ぼす影響は1くらいだという[16]
  • 映画音楽については、映画の持つウェイトを1とした場合、音楽を2として、両方合わせて5くらいになる作品を創りたいとしている[17]

趣味編集

  • 自ら本格的な料理を作ることを好み、専門の料理人について学んでもいる。ザ・フォーク・クルセダーズとしてプロデビューするまではコックの仕事に就く予定だった。加藤は料理と音楽創りには相通ずるものがあるとし、食材を楽曲、調理をレコーディング、食べることを聴くことに例えている[18][7]
  • 読書家であり、中学時代から集めていたハヤカワ・ミステリの蔵書は900冊に上っていた[5]。読む本のジャンルもさまざまで、安井かずみによれば、しばしば加藤は複数の本を同時進行で読んでいたという[19]
  • ファッション・リーダーとしても知られ、『MEN'S CLUB』や『POPEYE』などへの寄稿のほか[20]、『優雅の条件』『エレガンスの流儀』などの著書も出版している。

交友編集

 
加藤と安井が友人達と通ったレストラン「キャンティ」(港区麻布台、2018年)
  • 吉田拓郎は、加藤の才能は日本では唯一無二なもので、10人の歌手の10通りの歌へのアドバイスが即座にできるとし、自身もアレンジを依頼した『結婚しようよ』での加藤の仕事ぶりを目にしてから、音楽をやって行く自信がついたと語っている[21]
  • アイドル歌手の西田ひかるに曲を提供しているが、当時はまだ若くなおかつ帰国子女である西田には、加藤の仕事についての知識はあまりなかった。レコーディング前に行われるレッスンに加藤が参加した際は、音楽業界の大立者である加藤見たさに、普段は顔を出さないレコード会社の社員やスタッフなどが大勢集まり、とても賑やか(加藤が挨拶や握手攻めに遭っていて、なかなかレッスンがスムーズに進行せず、西田には迷惑なくらい)だったという。
  • 晩年は鬱病を患い、死の直前にはそれが悪化していたという。死の1週間前には、神経症が持病の高橋幸宏と電話で「今、鬱でね」「どういう薬飲んでる?」と気楽に話しており、3日前には故郷の京都で旧友らと会食している。
  • 遺書には「世の中が音楽を必要としなくなり、もう創作の意欲もなくなった。死にたいというより、消えてしまいたい」と綴られていたという[22]
  • 妻の安井かずみと同じく、日本基督教団クリスチャンであった。

受賞歴編集

ディスコグラフィ編集

シングル編集

アルバム編集

スタジオ・アルバム編集

ベスト・アルバム、作品集編集

オムニバス、ライヴ編集

サウンドトラック編集

イメージ・アルバム編集

トリビュート編集

映画音楽編集

テレビ番組音楽編集

舞台音楽編集

  • 西遊記(1972年)
  • YOKOHAMAスーパーオペラ『海光』(1989年)
  • 西太后(1997年)
  • スーパー歌舞伎・新三国志(1999年)
  • KANSAI SUPER SHOW“ HELLO JAPAN! HELLO 21!! in Gifu”(2000年)
  • スーパー歌舞伎・新三国志II(2001年)
  • スーパー歌舞伎・新三国志III(2003年)
  • スーパー歌舞伎・ヤマトタケル(2005年)
  • 二十一世紀歌舞伎組・雪之丞変化2006(2006年)
  • スーパー歌舞伎・ヤマトタケル(2008年)
  • 二十一世紀歌舞伎組 新・水滸伝(2008年)
  • うたかたのオペラ(2009年)

※その他

ゲーム音楽編集

  • 天外魔境III NAMIDA(2005年、ハドソンPlayStation 2) - 作中にも加藤をモチーフとした名曲茶屋を営むキャラクター「カズ」が登場する。
  • 愛はピカピカ - PlayStation ゲームソフト 「fun!fun!Pingu〜ようこそ!南極へ〜」 エンディングテーマ(シングルも発売、1999年)

アルバム参加編集

未発表曲編集

  • 「泣いて泣いて」※ザ・フォーク・クルセダーズ解散直後にサトウハチローとのコンビで私的に作られた未発表曲。ライブで一度演奏したきりで未レコーディングのままになっていたが、2016年12月に村上紗由里の演奏(EPレコード、2017年5月にCDミニアルバム)で約半世紀ぶりに日の目を見た。

その他編集

  • 「大統領殿」※ボリス・ヴィアン作詞 Le déserteur「徴兵忌避者」の日本語版
  • 「手と手 手と手」※2008年のオリンパス・BRAVE CIRCLE 大腸がん撲滅キャンペーン・ソングで、加藤和彦のソロ名義で発表された最期の作品。無料配信曲としてリリースされ、非売品CDも頒布された[23]

提供楽曲リスト (抜粋)編集

※五十音順、アルバムは太字で表記。

出演編集

音楽番組編集

テレビドラマ編集

映画編集

ラジオ編集

CM編集

料理番組編集

ドキュメンタリー編集

  • 「早過ぎた人 世紀の伊達男 加藤和彦」(NHK総合、2011年)

書籍編集

単著編集

共著編集

  • 加藤和彦、立川直樹森永博志編『加藤和彦スタイルブック あの頃、マリー・ローランサン』CBSソニー出版、1983年11月。ISBN 9784789701112
  • 加藤和彦、松木直也『加藤和彦 ラスト・メッセージ』文藝春秋、2009年12月。ISBN 9784163722801
  • 加藤和彦、前田祥丈『エゴ〜加藤和彦、加藤和彦を語る』スペースシャワーネットワーク、2013年7月。ISBN 9784906700882

安井かずみとの共著編集

  • 『加藤和彦、安井かずみのキッチン&ベッド』(1977年7月、主婦と生活社
  • 『ワーキングカップル事情』(1984年1月、とらばーゆBooks / 1986年3月、新潮文庫
  • 『ニューヨーク・レストラン狂時代』(1987年5月、渡辺音楽出版
  • 『ヨーロッパ・レストラン新時代』(1990年2月、渡辺音楽出版)
  • 『カリフォルニア・レストラン夢時代』(1991年1月、渡辺音楽出版)

CD-ROM作品編集

資料集編集

※のちに“ヨーロッパ3部作"と呼ばれるようになる『パパ・ヘミングウェイ』『うたかたのオペラ』『ベル・エキセントリック』の3枚を、当時エンジニアとしてかかわった大川正義がオリジナル音源を元にリマスタリングしたCDと、録音時に使用した加藤の手書きによるコード譜や安井の手書きによる歌詞、レコーディング・スタジオのトラック・シートなどの資料を収録したCD付き書籍。

評伝編集

  • 『加藤和彦 あの素晴しい音をもう一度』文藝別冊、河出書房新社、2010年2月。ISBN 978-4-30-997731-7

脚注編集

  1. ^ a b “「帰って来たヨッパライ」の加藤和彦さん 軽井沢で自殺”. スポニチアネックス (スポーツニッポン). (2009年10月17日). オリジナルの2009年10月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091018141134/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/flash/KFullFlash20091017059.html 2009年10月18日閲覧。 
  2. ^ トノバンと表記されることもあるが、これはライブでドノヴァンの楽曲をカバーするなどしたことに由来する。出典『読売新聞2009年10月23日付夕刊、3版、13面
  3. ^ 1979年から1981年にかけて主にヨーロッパで録音された『パパ・ヘミングウェイ』、『うたかたのオペラ』、『ベル・エキセントリック』からなる三部作。『ヴェネツィア』(1984年)を含めて四部作とする場合も多い。
  4. ^ たとえば、『アサヒグラフ』1978年3月3日号p.90 「支度の時間がいいのです」などの雑誌記事や、『加藤和彦、安井かずみのキッチン&ベッド』、『ワーキングカップル事情』などの著書で二人の暮らしぶりが紹介されている。
  5. ^ a b c d e 『エゴ~加藤和彦、加藤和彦を語る』
  6. ^ 週刊朝日朝日新聞社、1977年11月1日号、87頁
  7. ^ a b 『加藤和彦 ラスト・メッセージ』
  8. ^ 北山修著『くたばれ芸能野郎』
  9. ^ ミュージック・マガジン』2009年12月号
  10. ^ 加藤がワーナー・パイオニアに所属していた1979年から1982年にかけて発表されたシングルとアルバムは同社の洋楽レーベル、ワーナー・ブラザース・レコードよりリリースされている。
  11. ^ 『スーパー歌舞伎な男たち』(4/18/03 NHK)
  12. ^ e-days VITAMIN-Q featuring ANZA インタビュー Archived 2011年3月15日, at the Wayback Machine.
  13. ^ “死亡男性は加藤和彦さん、自殺か”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社). (2009年10月17日). オリジナルの2010年12月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101201023427/http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/091017/crm0910171511013-n1.htm 2009年10月17日閲覧。 
  14. ^ プレミアムドラマ 優雅な生活が最高の復讐である|NHK名作選(動画等)
  15. ^ サポーティングメンバー・インタビュー 加藤和彦club willbe 2017年12月12日閲覧
  16. ^ 出典:『ロッキンf 1980年12月号』「加藤和彦 綿密分析!!」。同じ趣旨の発言は当該記事以外にも多くのインタビューで繰り返し述べている。
  17. ^ 出典:『STUDIO VOICE vol.95』 流行通信 1983年
  18. ^ 月刊プレイボーイ』 1976年5月号 p.150「ジャック・ニコルソンに捧げるメニュー」
  19. ^ 『ワーキングカップル事情』
  20. ^ 『男子専科』1979年6月号 / 『POPEYE』1980年12月10日号参照。なお、加藤のファッション遍歴については『MEN!S Precious』2010年秋号 (小学館) 特集「加藤和彦 世紀の伊達男伝説」で概要がつかめる。
  21. ^ 『安井かずみがいた時代』
  22. ^ 加藤和彦さん“遺書”の波紋…「売ろうとかいう呪縛」 - 芸能 - ZAKZAK
  23. ^ 『加藤和彦 あの素晴しい音をもう一度』
  24. ^ 出典:『藤岡和賀夫全仕事2 モーレツからビューティフルへ』PHP研究所、1988年
  25. ^ 『味の旅 フランス - 地球おいしいぞ』(日本テレビ放送網、1989年) / 『ヨーロッパ・レストラン新時代』(渡辺音楽出版、1990年)

関連項目編集

外部リンク編集