佐佐木茂索
佐佐木 茂索(ささき もさく、1894年(明治27年)11月11日 - 1966年(昭和41年)12月1日)は日本の小説家、編集者、実業家。文藝春秋新社社長。
ささき もさく 佐佐木 茂索 | |
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生誕 | 1894年11月11日 京都府 |
死没 | 1966年12月1日(72歳没) |
職業 | 小説家、編集者、実業家 |
配偶者 | 大橋房子 |
人物・来歴編集
京都府出身。実家は代々種油製造業だったが父親の代に没落して人手に渡り[1]、京都府第一中学校中退。朝鮮・仁川にいた叔父の元に身を寄せたが、1918年(大正7年)内地へ戻り、『子宝』の記者、新潮社、中央美術社、時事新報社などで働き、翌年に『新小説』に「おじいさんとおばあさんの話」を発表し、作家デビュー[1]。芥川龍之介に師事。1925年(大正14年)に発表した「曠日」が芥川の賞賛を受け、同年、芥川の媒酌で大橋房子(佐佐木ふさ)と結婚。
長編小説1編と短編小説約90編をものしたのち[1]、1930年(昭和5年)を最後に作家として筆を折り、文藝春秋の幹部として活動。 同社の専務を務めていた1933年(昭和8年)11月、不良華族事件の捜査の過程で文士らによる常習賭博が明らかになり[2]、久米正雄、 里見弴らとともに検挙された[3]。 1935年(昭和10年)に菊池寛らと芥川龍之介賞および直木三十五賞を創設。 選考委員の一人となった[4]。
第二次世界大戦後は公職追放により出版界を一時退いたが[5]、戦後改組して発足した文藝春秋新社(現・文藝春秋)の社長として復帰、没するまで活動した。
家族編集
妻の大橋房子(1897-1949)は、東京市公園課の造園技師長岡安平の娘として生まれ、11歳で実姉大橋繁の養女となり、青山女学院卒業後、婦人矯風会のガントレット恒子の秘書を経て作家となった女性で、断髪洋装で渡欧経験もあるモダンガールだった[6]。1923年(大正12年)には欧州遊学、結婚前は山田耕筰との恋仲が噂された[7]。
著書編集
脚注編集
- ^ a b c 佐佐木茂索研究内山照美、奈良教育大学、昭和60年度修士論文要旨
- ^ 吉井勇夫人の供述から文士連の賭博暴露『中外商業新聞』昭和8年11月18日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p613 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 久米正雄、里見弴、佐佐木茂索ら検挙『中外商業新聞』昭和8年11月18日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p613)
- ^ 第一回は無名作家・石川達三の「蒼眠」『中外商業新報』1935年(昭和10年)8月11日
- ^ 『朝日新聞』1947年10月23日第1面。
- ^ ささきふさ 断髪洋装のモダン派作家『時代を拓いた女たち: かながわの131人』
- ^ 『花を投げた女たち』p173.
参考文献編集
- 永畑道子『花を投げた女たち』文藝春秋、1990年7月。ISBN 978-4163445007。
- 江刺昭子、史の会編『時代を拓いた女たち―かながわの131人』神奈川新聞、2005年4月。ISBN 978-4876453580。
関連項目編集
- 形影 菊池寛と佐佐木茂索
- 松山省三 - 松山が経営するカフェー・プランタンで麻雀に興じる。
- 新薬師寺 - 行方不明だった銅造薬師如来立像(通称・香薬師像)の右手を長年所持していた。