芥川龍之介賞

日本の文学賞

芥川龍之介賞(あくたがわりゅうのすけしょう)、通称芥川賞あくたがわしょうは、芸術性を踏まえた一篇の短編あるいは中編作品に与えられる文学賞である。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われ、賞が授与される。掌編小説には授与されたことがない。

芥川龍之介賞
受賞対象各新聞・雑誌(同人雑誌を含む)に発表された純文学短編の無名もしくは新進作家
会場東京會舘帝国ホテル
日本の旗 日本
主催日本文学振興会(事実上文藝春秋社との共催)
初回1935年上半期
最新回2023年下半期
最新受賞者九段理江
公式サイト公式サイト

概要 編集

大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛1935年直木三十五賞(直木賞)とともに創設し以降年2回発表される。第二次世界大戦中の1945年から一時中断したが1949年に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には、正賞として懐中時計、副賞として100万円が授与され、受賞作は『文藝春秋』に掲載される[1]

現在の選考委員は、小川洋子奥泉光川上弘美島田雅彦平野啓一郎堀江敏幸松浦寿輝山田詠美吉田修一の9名(2020年上半期から)。選考会は、料亭新喜楽』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その翌月の授賞式は、長く東京會舘で行われていたが、同館の建て替えに伴い、現在は帝国ホテルで行われている。

成立 編集

1934年菊池寛は『文藝春秋』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にてこの年の2月に死去した直木三十五1927年に死去した芥川龍之介の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。1924年に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『文学界』の編集者であった川崎竹一の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎がゴンクール賞ノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに日本でも権威のある文学賞を設立するべきだと書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている[2]。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。 設立当時から正賞(賞牌)として記念時計が贈られるとされており、副賞は500円であった[3]。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として川端康成佐藤春夫山本有三瀧井孝作ら11名があたることになった。

芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている[4]1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており[5]1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している[6]。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは1956年石原慎太郎太陽の季節」の受賞である[注釈 1]。作品のセンセーショナルな内容や学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく「太陽族」という新語が生まれ石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした[5]。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり1957年下半期に開高健1958年上半期に大江健三郎が受賞した頃には新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた[7]。今日においても話題性の高さは変わらず特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラー[8]となっている。

選考過程 編集

上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは日本文学振興会から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6~7回ずつ計12~14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。

最終候補作が決定した時点で候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に築地の料亭・新喜楽1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×[9]による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる[注釈 2]

選考基準 編集

「新人」の基準 編集

芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新人作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。戦中から戦後にかけて芥川賞が4年間中断していた時期に野間宏中村真一郎椎名麟三梅崎春生武田泰淳三島由紀夫ら「戦後派」と呼ばれる作家たちが登場して注目を浴びたが1949年の芥川賞復活後、彼らは新人ではないと見なされて候補に挙がることさえなかった。また島木健作田宮虎彦金達寿、後述する井上光晴のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしばあった。第23回(1950年上半期)に田宮が候補となったとき、坂口安吾は「芥川賞復活の時に、三島君まではすでに既成作家と認めて授賞しない、というのが既定の方針であったが、田宮君が授賞するとなると、三島君はむろんのこと、梅崎君でも武田君でも(中略)かく云う私も、候補に入れてもらわなければならない」と述べて反対している。他方、第5回(1937年上半期)に受賞した尾崎一雄は受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている[10]。第38回(1957年下半期)に開高健と競って僅差で落選した大江健三郎はその後の半年間にも次々と話題作を発表し、続く第39回(1958年上半期)でも候補となったが作品のレベルでは群を抜いていたにもかかわらず新人といえるかどうかが議論の的となった[11]。現在では、芥川賞は原稿用紙300枚以内の小説という括り以外では、説明のできない賞になってきている。

作品の長さ 編集

芥川賞は短編・中編作品を対象としており長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた石川達三は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回(1964年上半期)受賞の柴田翔「されどわれらが日々―」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった[12]。第50回(1963年下半期)芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の石川淳は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している[7]。また国際的にも評価の高い村上春樹は芥川賞はおろか直木賞すら受賞していないが村上の場合は中篇作品で2度候補[13]となった後、英語ほかに翻訳されて読まれることを想定した世界文学に移行したことが理由の一つに挙げられる。現在、芥川賞受賞作品が他国民のために翻訳されて読まれることは、決して多くはない。

なお「作品の短さ」は本になったときに読みやすくまた値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている[14]。300枚未満で連作ではないもの、何らかの雑誌で掲載済みのものならノミネートの対象になる[注釈 3]

直木賞との境界 編集

純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木三十五賞(直木賞)との境界があいまいになることがしばしばある。第6回(1937年下半期)直木賞には純文学の作家として名をなしていた井伏鱒二が受賞しており、直木賞選考委員の久米正雄は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている[15]。のちに社会派推理作家として一般に認知された松本清張は、「或る『小倉日記』伝」で1952年下半期に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった[16]。第46回(1961年下半期)の両賞では宇能鴻一郎が芥川賞を、伊藤桂一が直木賞をとり、このとき文芸評論家の平野謙は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている[17]。同様の事態は第111回(1998年上半期)にも起こり、このときには私小説の作家であった車谷長吉が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた花村萬月、ハードボイルド調の作品を書いていた藤沢周が芥川賞を取ったことで話題となった。

芥川賞に比べて直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、檀一雄柴田錬三郎山田詠美角田光代島本理生などのように芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは柴田錬三郎「デスマスク」(第25回・1951年上半期)、北川荘平「水の壁」(第39回・1958年上半期)など芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。

批判 編集

賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりと商業的な性格があることを認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため1937年に財団法人日本文学振興会を創設し両賞をまかなわせるようになったが同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)[18]。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)プロレタリア文学の傑作のためには、小林多喜二賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。

文学賞に対する批判本『文学賞メッタ斬り!』を著した大森望豊崎由美は現在の芥川賞の問題点として選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることなどを挙げている。また豊崎は改善策として選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の3分の1は文芸評論家にするなどの案を示している[19]

最年少・最年長受賞記録 編集

特に若年での受賞や学生作家の受賞は大きな話題となる[20]

最年少受賞記録
順位 受賞者名 受賞時期 受賞時の年齢
1 綿矢りさ 2003年下半期(第130回)
19歳11か月
2 金原ひとみ 2003年下半期(第130回)
20歳05か月
3 宇佐見りん 2020年下半期(第164回)
21歳08か月
4 丸山健二 1966年下半期(第56回)
23歳00か月
5 石原慎太郎 1955年下半期(第34回)
23歳03か月
6 大江健三郎 1958年上半期(第39回)
23歳05か月
7 平野啓一郎 1998年下半期(第120回)
23歳06か月
8 青山七恵 2006年下半期(第136回)
23歳11か月
9 村上龍 1976年上半期(第75回)
24歳04か月
最年長受賞記録
順位 受賞者名 受賞年 受賞時の年齢
1 黒田夏子 2012年下半期(第148回)0
75歳09か月
2 若竹千佐子 2017年下半期(第158回)0
63歳0
3 森敦 1973年下半期(第70回)0
61歳11か月
4 三浦清宏 1987年下半期(第98回)0
57歳04か月
5 米谷ふみ子 1985年下半期(第94回)0
55歳02か月

21世紀に発表されたベストセラーから 編集

綿矢りさ蹴りたい背中』(第130回・2003年下半期) 127万部(単行本のみ)
綿矢は17歳のときに『インストール』でデビュー、芥川賞受賞時は19歳で20歳の金原ひとみと同時受賞し最年少記録を大幅に更新、単行本は『限りなく透明に近いブルー[21]』以来28年ぶりのミリオンセラーとなった。受賞作は周囲に溶け込めない女子高生とアイドルおたくの男子生徒との交流を描いたもので、唯一反対した三浦哲郎を除く選考委員の票をすべて集め受賞が決定。「高校における異物排除のメカニズムを正確に書く技倆に感心した」(池澤夏樹)、「作者は作者の周辺に流行しているだろうコミック的観念遊びに足をとられず、小説のカタチで新しさを主張する愚にも陥らず、あくまで人間と人間関係を描こうとしている」(高樹のぶ子)と各選考委員から高評価を受けた。綿矢の受賞と前後してこの時期10 - 20代前半の作家のデビューが相次ぎ、若年層の活躍を印象付けた[22]
又吉直樹火花』(第153回・2015年上半期) 229万部(単行本のみ)
羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」と同時受賞。売れない芸人の主人公と天才肌の先輩芸人との交友を描いた作品。お笑い芸人では初の受賞。単行本の累計発行部数は229万部を突破し、芥川賞受賞作品として歴代1位の単行本部数となる[23][24]
村田沙耶香コンビニ人間』(第155回・2016年上半期) 102万部(単行本のみ)
2016年の発売から年内に50万部を超えてからもじわじわと売れ続け、2年を経て100万部に到達した[25]

太宰治の落選について 編集

第1回芥川賞では、デビューしたばかりの太宰治も候補となった。太宰は当時パビナール中毒症に悩んでおり薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった川端康成は太宰について、「例へば、佐藤春夫氏は『逆行』よりも『道化の華』によつて作者太宰氏を代表したき意見であつた。(中略)そこに才華も見られ、なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた」と言ったことに対し[26]、太宰は『文藝通信』において以下のように反論した[注釈 4]

事実、私は憤怒に燃えた。小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大悪党だと思つた。そのうちに、ふとあなたの私に対するネルリのやうな、ひねこびた熱い強烈な愛情をずつと奥底に感じた。ちがふ。ちがふと首をふつたが、その、冷く装うてはゐるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱したあなたの愛情が私のからだをかつかつとほてらせた。さうして、それはあなたにはなんにも気づかぬことだ。(中略)ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなささうに装つて、装ひ切れなかつた嘘が、残念でならないのだ。 — 太宰治「川端康成へ」[28]

この批判に対し川端も翌月に、「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁して、石川達三の『蒼氓』と太宰の作の票が接近していたわけではなく、太宰を強く推す者もなかったとし[29]、「さう分れば、私が〈世間〉や〈金銭関係〉のために、選評で故意と太宰氏の悪口を書いたといふ、太宰氏の邪推も晴れざるを得ないだらう」と述べている[29]が、プライベートに関して人格攻撃をしたこと自体は後に謝罪した。その後、太宰は第3回の選考の前に、川端宛てに、「何卒私に与へて下さい」という書簡を出したり[30]、選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としないという当時の条件のために太宰は候補とならなかった[27]。川端はこの規定決定時に欠席しており、「この二つの条件には、多少問題がある」としている[31][27]。佐藤はこれらの経緯を『小説 芥川賞』と題して詳しく描いている。また、このとき太宰は『新潮』の誌面で、あたかも佐藤との間で受賞の密約を交わしていたかのようなアピールをしているが、佐藤には即座に否定されている。

受賞者一覧 編集

1930年代 編集

1940年代 編集

(第二次世界大戦のため中断)

1950年代 編集

1960年代 編集

1970年代 編集

1980年代 編集

1990年代 編集

2000年代 編集

2010年代 編集

2020年代 編集

歴代選考委員 編集

各回ごとの出席状況などは別項芥川賞の受賞者一覧を参照。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ ただし、石原の述懐によると受賞直後は「家に記者たちが押しかけているなどということもなかった」といい(小説『弟』の記述より)、授賞式の記念写真も15人程度のスタッフと撮影する(『我が人生の時の人々』に授賞式やその際の会食の写真が掲載されている)など前述の吉行や遠藤と大差ない状況であった。
  2. ^ 『ダカーポ』2006年7月19日号掲載の「芥川賞・直木賞はこうして決定する」による。日本文学振興会スタッフ菊池夏樹への取材に基づく。
  3. ^ 短編を五つまとめた舞城王太郎の作品が過去にノミネートされたが、審査を棄権した人物がいたことや、その中の一つがノミネートの対象になると受け取った人物がいたことから、連作短編での受賞は規定外と考えられている。
  4. ^ この背景には、太宰治の友人・檀一雄が『道化の華』を推していて、川端ならきっと理解してくれると話していたため、審査過程で何か要らぬ力や圧力が作用したと太宰が考え、「お互ひに下手な嘘はつかないことにしよう」と言い、川端や、その背後にいる人たちを批判しているとされる[27]

出典 編集

  1. ^ “各賞紹介”. 公益財団法人日本文学振興会. https://bungakushinko.or.jp/award/ 2018年1月18日閲覧。 
  2. ^ 梅田康夫「芥川賞裏話」『創』1977年3月号初出、『芥川賞の研究』124-125頁
  3. ^ 第一回は無名作家・石川達三の「蒼眠」『中外商業新報』1935年(昭和10年)8月11日
  4. ^ 永井龍男、佐佐木茂作「芥川賞の生まれるまで(対談)」『文学界』1959年3月号初出、『芥川賞の研究』10-11頁
  5. ^ a b 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁
  6. ^ 遠藤周作、開高健「対談 芥川賞」『文学界』1963年9月号初出、『芥川賞の研究』158-159頁
  7. ^ a b 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁
  8. ^ 大ヒットを生むのはどっち?”. style.nikkei.com. style.nikkei.com. 2021年7月13日閲覧。
  9. ^ 「芥川賞・直木賞」をどれだけ知っていますか”. toyokeizai.net. 東洋経済. 2021年7月13日閲覧。
  10. ^ 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』133頁
  11. ^ 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』147頁
  12. ^ 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』149頁
  13. ^ 「なぜ村上春樹は芥川賞をとれなかったのか?」『ダカーポ』2006年7月19日号、28-29頁
  14. ^ 「データでみる芥川賞・直木賞」『ダカーポ』2006年7月19日号、18-19頁
  15. ^ 橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」『小説新潮』1964年1・2月号初出、『芥川賞の研究』117-118頁
  16. ^ 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』140頁
  17. ^ 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』148頁
  18. ^ 橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」、『芥川賞の研究』70頁
  19. ^ 「文学賞大国ニッポン―両賞の位置は?」『ダカーポ』2006年7月19日号、34-35頁
  20. ^ 芥川賞は現役大学生が受賞 芥川・直木賞歴代受賞者の出身大学ランキング”. dot.asahi.com. AERA.dot. 2021年7月13日閲覧。
  21. ^ ピース又吉「火花」は出版界の救世主か”. mainichi.jp. 毎日新聞. 2021年7月13日閲覧。
  22. ^ 蹴りたい背中 :綿矢 りさ|河出書房新社
  23. ^ 又吉さんの「火花」 発行部数209万部に.NHK NEWS(2015年8月5日).2015年8月5日閲覧。
  24. ^ 又吉さん「火花」20万部増刷、累計229万部 : ライフ : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
  25. ^ 村田沙耶香『コンビニ人間』、100万部突破
  26. ^ 川端康成「芥川龍之介賞選評第一回昭和十年上半期」(文藝春秋 1935年9月号に掲載)
  27. ^ a b c 片山倫太郎田村嘉勝「文豪をめぐる八人の作家たち」(『別冊太陽 川端康成』)(平凡社、2009年)
  28. ^ 太宰治「川端康成へ」(文藝通信 1935年10月号に掲載)
  29. ^ a b 川端康成「太宰治氏へ 芥川賞に就いて」(文藝通信 1935年11月号に掲載)
  30. ^ 太宰治「川端康成宛て書簡」(昭和11年6月29日付)
  31. ^ 川端康成「芥川賞予選記」(文學界 1936年9月号に掲載)
  32. ^ “芥川賞に松村栄子氏 直木賞 高橋義氏と高橋克氏”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 朝刊 30. (1992年1月17日) 
  33. ^ “3氏が喜び語る 芥川・直木賞授賞式”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 夕刊 15. (1992年2月27日) 
  34. ^ “村上龍氏が芥川選考委員を退任 6月の候補作選考とは「関係ない」”. デイリースポーツ. (2018年7月6日). https://www.daily.co.jp/gossip/2018/07/06/0011420314.shtml 2018年7月6日閲覧。 
  35. ^ “作家の堀江敏幸さん、芥川賞選考委員を退任 12年間担当”. 産経ニュース (産経新聞社). (2024年1月25日). https://www.sankei.com/article/20240125-JRL2DOUZTNPFXGYH37NWEAJGQU/ 2024年3月1日閲覧。 
  36. ^ “直木賞の委員に三浦しをんさん 芥川賞は平野啓一郎さん”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2020年3月4日). https://www.asahi.com/articles/ASN344RL0N34UCVL007.html?iref=comtop_list_nat_n04 2020年3月4日閲覧。 
  37. ^ “芥川賞新選考委員に川上未映子さん 7月の第171回の選考会から参加”. 産経ニュース (産経新聞社). (2024年3月1日). https://www.sankei.com/article/20240301-7AFFUBZQ4VISHIR6GSJAOHQDGA/ 2024年3月1日閲覧。 

参考文献 編集

選評は『芥川賞全集』に収録されている。

  • 永井龍男ほか『芥川賞の研究』みき書房、1979年
  • 永井龍男『回想の芥川・直木賞』文藝春秋、1979年
  • 川口則弘『芥川賞物語』バジリコ、2013年 / 文春文庫、2017年
  • 『芥川賞全集』文藝春秋、1982年 -
  • 『ダカーポ』2006年7月19日号「特集・芥川賞、直木賞を徹底的に楽しむ」マガジンハウス
  • 大森望、豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』シリーズ、PARCO出版、2004年-
  • 文藝春秋特別編集『芥川賞・直木賞150回全記録』文藝春秋、2014年

関連項目 編集

いずれも非公募の純文学新人賞。
芥川賞になぞらえられる他業界の新人賞。
新人作家の登竜門としての知名度の高さから、小説以外の新人賞で似た性質を持つものが「○○界の芥川賞」と紹介されることがある。有名作家を輩出しているという部分に重きを置かれている呼称であり、公募・非公募の別は重視されていない。
1997年まで続いた安井賞も画壇の芥川賞と呼ばれた。なお芥川作曲賞芥川也寸志を記念。

外部リンク 編集