倉澤 清也(くらさわ きよなり、天保3年11月24日1832年12月15日) - 大正10年(1921年7月22日)は、日本の国学者矢彦神社祠官、平田篤胤没後門人、開産社社長。幼名を鎌之助のち義隨、通称を甚五兵衛と称し、維新後に清也と改名する。

倉澤清也

島崎藤村著「夜明け前」では、倉澤 義髄で登場、ただし本名の漢字は義隨(よしゆき)。

経歴・人物 編集

信濃国伊那郡小野村(現・長野県辰野町小野)に生まれる。幼いとき村の手習師匠小沢和徳に読書を学んだが、嘉永2年(1849年)伊那部宿(現・伊那市)の須田慶順について経書を修める。嘉永4年(1851年)平田篤胤の武学論に啓発され、木曽福島の遠藤五平太の門に入り、一刀流を修める。

安政元年(1854年)角田忠行と共に江戸に入り、藤田東湖に謁見する。文久3年(1863年)角田忠行が足利三代木像梟首事件を起こし、逃れて倉澤家に以後4年間潜伏する。その間の元治元年(1864年)水戸天狗党一行の伊那谷通過の際には、角田忠行や北原稲雄らとともに、飯田城下を兵火から守るために、間道を抜けさせることに尽力[1][2]

慶応元年(1885年)2月に上洛し、神祇伯白川家に謁を乞い、父義徳が所願の臣礼を修めるとともに、東山に潜伏中の松尾多勢子を訪ね、長州藩品川弥二郎に会す。更に、島崎正樹・ 北原稲雄・原信好・桜井房光・奥村邦秀ら同門の志と往来し,敬神愛国の大義を唱えた。また文久慶応のころ角田忠行・ 長谷川鉄之進権田直助落合直亮ら天下の志士をその家にとどめて国事を談じ、岩崎長世・近藤至邦とも親交があった[3]

明治元年(1868年)再び上洛し、父に代わって白川家の用人兼会計役となり、神葬祭の請願を太政官総裁局の弁事御役所に提出し允許を得る。これは民籍での神葬祭のはじめであった[4]。明治4年(1871年)6月伊那県第33区(小野村)戸長となり、明治7年(1874年)筑摩県第17大区3小区(同村)戸長となる。明治14年(1981年)12月松本開産社社長となり、明治21年(1988年)同社が解散となるまで勤めた。なおこれより先、明治5年(1872年)郷社矢彦神社の祠官となり、明治33年(1900年)には県社への昇格を果たし、大正10年(1921年)に没するまでのほぼ半世紀の間、同社の神官を勤めた[3][5]

脚注 編集

  1. ^ 「夜明け前」島崎藤村(著)
  2. ^ 「敬神崇祖」-倉澤儀隋家五代の記録- 発行者:倉澤秀夫
  3. ^ a b 「信州人物誌」信州人物刊行会
  4. ^ 市村咸人『伊那尊王思想史』下伊那郡国民精神作興会、昭和4年11月25日発行
  5. ^ 小松芳郎 「幕末の信州」

参考文献 編集

  • 「信州人物誌」 信州人物刊行会 1971年 
  • 小松芳郎 「幕末の信州―近代への序章 」 郷土出版社 2008年