飯田城 (信濃国)

飯田城(いいだじょう)は、長野県飯田市にあった日本の城江戸時代には飯田藩の藩庁が置かれた。

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飯田城
長野県
飯田城桜丸御門(赤門)
飯田城桜丸御門(赤門)
別名 長姫城
城郭構造 平山城
築城主 坂西氏
主な改修者 秋山信友毛利秀頼京極高知
主な城主 秋山信友毛利秀頼京極高知小笠原氏脇坂氏
指定文化財 なし
位置 北緯35度30分42.8秒
東経137度49分56.9秒
座標: 北緯35度30分42.8秒 東経137度49分56.9秒

目次

概要編集

13世紀初めに飯田で勢力を持つようになった坂西(ばんざい)氏により築かれたといわれる[1][2]。天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡、信濃伊那郡は織田家臣・毛利長秀に与えられ、長秀は飯田城を拠点に伊那郡支配を行う。同年6月の本能寺の変により発生した天正壬午の乱を経て、三河国徳川家康の支援を得た下条頼安が飯田城を掌握し、後に菅沼定利が入城した。徳川勢の関東移封後には、再び毛利秀頼が入り、その娘婿の京極高知に継承され、この頃に近世城郭としての姿が整えられた。江戸時代になると小笠原氏1代、脇坂氏2代と続き、寛文12(1642年堀親昌が2万石で下野烏山より入封し、以後明治維新まで飯田城に居を構えた。

歴史編集

鎌倉時代編集

坂西氏が飯田に来る。坂西氏ははじめ松原宿(飯田市上飯田)のあたりに住居をおき、のちに飯坂(飯田市愛宕)に愛宕城(飯坂城)を構えた。坂西氏の出自ははっきりしない。地頭として飯田に来たとも言われる[2]が南北朝時代まで飯田郷の地頭は阿曽沼氏であり、坂西氏は庄官ですらなかった可能性もある。[3]四国阿波の坂西氏とどんな関係があるのかはわからず、阿波守護であった小笠原氏と何らかの関係があったとも言われる。[1]

室町時代編集

坂西氏はより広い用地をもち展望のきく要害の地を求めて、飯田城を築いて移った。このときその地は山伏(修験者)の修行場となっていたので、愛宕城の土地と交換したといわれる。[2]

武田氏時代編集

1554年(天文23年)[4]武田信玄が下伊那に侵入し、以後30年間武田氏の領となる。武田氏は南三河国に侵攻するため高遠・大島・飯田を拡張して重要な本拠地としたので、飯田城には武田氏式築城様式が残っている。

織田・豊臣氏時代編集

1582年(天正10年)、織田信長が武田氏を滅ぼし、伊那郡を手に入れた。

構造編集

城は天竜川の支流の松川と野底川にはさまれた河岸段丘の先端部分を利用して築かれた平山城である。

縄張りは、城郭の東部に本丸を置き、断崖に面して西部に向かって二の丸、桜丸、出丸と曲輪を配していた。建造物としては、東西南北100mの規模で土塀に囲まれた本丸御殿を中心に、7棟の建物が建てられていた。

遺構編集

明治維新後は城内に筑摩県の飯田支庁が置かれた。飯田城の遺構はほとんど残っていないが、本丸跡は1880年(明治13年)に創建された長姫神社の境内となり、石塁・空堀・土塁の一部が残っている。二の丸跡には1921年(大正10年)から1982年(昭和57年)まで飯田長姫高校があり、長姫高校の鼎町移転後の1989年(平成元年)から飯田市美術博物館がある。藩主の居館のあった桜丸跡は長野県飯田合同庁舎として利用され、わずかに桜丸水の手門の石垣が残っている。

建物としては、赤門とも呼ばれる飯田城桜丸御門が城内に、桜丸の門が飯田市上郷別府の経蔵寺に、それぞれ移築されている。また、飯田市松尾久井の民家に、文禄年間の建築ともいわれる八間門が移築されて現存する[5]

桜丸御門編集

 
飯田城桜丸御門(赤門)

飯田城桜丸御門は桜丸の正門であり、塗られた弁柄の色から「赤門」とも呼ばれている[6]。宝暦3年(1753年)8月に工事が開始され、宝暦4年(1754年)に完成した[6]。屋根は入母屋造であり、妻飾は狐格子と蔐懸魚(かぶらげぎょ)とする[6]。間口の中央に2枚の開板戸があり、追手町小学校から見て左側に小さなくぐり板戸がつけられている[6]。門の脇には別屋根が架けられた番所が突きだしているが、このような例は長野県唯一である[6]。飯田城に関連する建築物としては、唯一桜丸御門だけが建築当時と同じ場所に所在する[6]。長野県で建築当時と同じ場所に所在する城門は、小諸城の大手門と三の門(ともに国の重要文化財)、上田城の藩主居館表門(上田市指定文化財)、飯田城の桜丸御門の4例のみである[6]

明治時代の廃藩置県後には飯田城の構造物の大半が取り壊されたが、桜丸御門は取り壊されることなく生き残った[7]飯田県庁舎、筑摩県飯田支所、下伊那郡役所、下伊那地方事務所の正門として用いられていた[7][6]。1971年(昭和46年)に長野県飯田合同庁舎が完成すると、通用門としての役目を終えたが[7][6]、地元の要望でそのまま残された[7]。1985年(昭和60年)には土台や塀の修理、色の塗り替えなどの大改修が行われ、同年11月20日には飯田市有形文化財に指定された[7]。その時から扉が開けられることは一度もなかったが、桜丸御殿の夫婦桜が見ごろになるのに合わせて、1999年(平成11年)3月には14年ぶりに開門された[7]

桜丸御殿の夫婦桜編集

桜丸御殿の夫婦桜
シダレザクラエドヒガン ()
所在地 長野県飯田市追手町20678
長野県飯田合同庁舎敷地
管理者 天然記念物指定なし

飯田藩初代藩主の脇坂安元(飯田藩主1617年-1654年)は無類の桜好きであり、「弥陀の四十八願の桜」として飯田藩内の寺院や祠に多数の桜を植えている[8]。嗣子である脇坂安経の死後、脇坂安元が養子として脇坂安利を迎えた際には、御殿の庭園の中心に2本の桜を植えた[8]。「娘と婿殿の婚礼のために植えるのだから、仲良く近くに植えた方がいい」との配慮から、2本の桜を近くに植えたのである[8]

脇坂安元や庭師は2本ともシダレザクラであると思い込んでいたが、実は片方がシダレザクラ、もう一方は(枝垂れない)エドヒガンだった[8]。近くに植えすぎた2本の桜は次第に根元が結合し、「夫婦桜」(めおとざくら)と呼ばれるようになった[8]。1本の桜が2種類の花を咲き分けているように見えるのが特徴である[7]。シダレザクラとエドヒガンの2種が合体しているのはとても珍しいとされる[8]。2012年時点の推定樹齢は400年[8]。高さは20メートル、根元の幹回りは10メートル[7]

脚注編集

  1. ^ a b 大沢和夫 1992 親と子のふるさと百科 下伊那地理・歴史事典①歴史
  2. ^ a b c 飯田市美術博物館 2005 飯田城ガイドブック-飯田城とその城下町をさぐろう-
  3. ^ 平沢清人 伊那文庫第八回 飯田城と近世の飯田町
  4. ^ 甲陽軍艦や伊那温知集や信陽城主得替記などには1557年(弘治2年)となっている。
  5. ^ (内藤昌康 2016)
  6. ^ a b c d e f g h i 飯田城桜丸御門(通称赤門) 飯田市
  7. ^ a b c d e f g h 「旧飯田城桜丸御殿跡 『赤門』14年ぶり開門 2日から」信濃毎日新聞、1999年3月30日
  8. ^ a b c d e f g 大貫茂『桜伝説』アーツアンドクラフツ、2012年、pp.73-74

参考文献編集

  • 内藤昌康「八間門:田園風景の中で異彩を放つかつての飯田城の城門」、『そう:東三河&西遠・西三河・南信応援誌』第51号、春夏秋冬叢書、2016年、 51-55頁。

関連項目編集

外部リンク編集