キリシタン
キリシタン(切支丹、ポルトガル語: Cristão, 古いポルトガル語: Christan)は、日本の戦国時代から江戸時代、更には明治の初めごろまで使われていた日本語(古語口語)である。江戸時代以降の当て字である『切死丹』『鬼理死丹』には侮蔑の意味が込められており、蔑称として使われてきた。
概要編集
元々はポルトガル語で「キリスト教徒」という意味であり、英語では「クリスチャン」(Christian)となる。元来はキリスト教徒全般を指すが、実際に使われるこの語は、戦国時代以後、日本に伝来したキリスト教(カトリック)の信者、伝道者またその働きについてである。また、貿易に関わったオランダ人は、キリスト教徒(プロテスタント)であるので「キリシタン」とは捉えられていない。[要出典]
日本の漢字では、“吉利支丹”などと書く。江戸時代以降は禁教令や踏み絵による弾圧に伴い、侮蔑を込めて“切死丹”、“鬼理死丹”という当て字も使われるようになった。5代将軍徳川綱吉の名に含まれる“吉”の字をはばかって、綱吉治世以降は“吉利支丹”という字は公には使われなくなり、“切支丹”という表記が一般となった。
現在の日本では、「キリシタン」という言葉は「キリシタン大名」や「隠れキリシタン」など、日本の歴史用語として使用されており、現代日本のキリスト教徒を指す場合は「クリスチャン」を用いる。
また、カトリック・プロテスタントその他を問わず日本のキリスト教徒が、過去も含めて「キリシタン」と自称することもない。特にカトリック信徒が日本一多い長崎県(カトリック長崎大司教区を擁する)では、かつての禁教・迫害などの辛い歴史を連想させるため、この呼称を嫌うカトリック信徒も少なくない。
1605年には、日本のキリシタン信徒は75万人にもなったといわれている。
国外の評価編集
英国国教会は豊臣秀吉が26人の殉教者を処刑した日の翌日である2月6日を1959年に記念日とした[1]。アメリカ福音ルター派教会でも、2月5日を記念日としている。英国国教会[2]とルーテル教会[3]はフランシスコ・ザビエルを崇敬し、命日の12月3日を記念日としている。
アメリカ合衆国の歴史家ジョージ・エリソンはキリスト教徒迫害の責任者をナチスのホロコーストで指導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンと比較した[4][5]。
脚注編集
- ^ “The Calendar” (英語). The Church of England. 2021年4月2日閲覧。
- ^ “Holy Men and Holy Women”. Churchofengland.org. 2022年6月1日閲覧。
- ^ “Notable Lutheran Saints”. Resurrectionpeople.org. 2019年5月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月16日閲覧。
- ^ George Elison, Deus Destroyed, The Image of Christianity in Early Modern Japan, Harvard University Press, 1973, p. 208.
- ^ José Miguel Pinto dos Santos, THE “KURODA PLOT” AND THE LEGACY OF JESUIT SCIENTIFIC INFLUENCE IN SEVENTEENTH CENTURY JAPAN, Bulletin of Portuguese /Japanese Studies, 2005 june-december, número 10-11 Universidade Nova de Lisboa Lisboa, Portugal, p. 134
参考文献編集
- 監修桑田忠親, 編集委員会 編 『戦国史事典』秋田書店、1980年、492-522頁。ISBN 4-253-00284-6。
- 折井善果 「アニマ(霊魂)論の日本到着:キリシタン時代という触媒のなかへ」、ヒロ・ヒライ+小澤実編 『知のミクロコスモス:中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』 (中央公論新社、2014年)、332-361頁。ISBN 978-4-12-004595-0
- 平岡隆二 「イエズス会とキリシタンにおける天国(パライソ)の場所」、ヒロ・ヒライ+小澤実編 『知のミクロコスモス:中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』 (中央公論新社、2014年)、362-386頁。ISBN 978-4-12-004595-0